マティスからモローへ - デッサンと色彩の永遠の葛藤、そしてサオシュヤントは来ない
4-2.デュフィからアルベルティへ 「我々はまた流出色(ランニング・カラー)、すなわち事物の輪郭をはみだす色彩をも認める(ロシア旧教徒のルボークを参照)。だがこれは絵具が無秩序に流出しているのではなく、色彩が虹色に分解する現象の形で表現されているのである。そしてその原理となるのは、光線主義(レーヨニズム)の理論でも、反射分光の理論でもなく、物体(ボディ)同士が交差する際の分光現象なのである」(167) 以上は、アレクサンドル・シェフチェンコの「ネオプリミティヴィズム - その理論、可能性、成果」(一九一三)の一節である。あるいはまた、クレーの一九一〇年の日記から; 「はじめ、亜麻仁油で薄めた白を全体の下地とする。それから、一面にうすく色をつける。いろいろの色を使って、それぞれ大きく隈どる。色は互いにとけあって、明暗のはっきりした区別が失われる。第三に、これとかかわりなく素描。色調値が無視されたかわりに素描をかくのだ。そして最後に、女性的に流れるのを抑えるために、なんらかの低音(バス)。しかし、あまり暗すぎない、色のある低音(バス)。 「これこそ、素描と色彩とが結合したスタイルなのだ」(168)。 「『線は色彩より速く移動する、あるいは少なくとも、色彩は、運動より長く網膜に作用する』。この点を確認することで芸術家は、何らかの対象のデッサンと色彩を分離するにいたるのだ、何となれば『色彩は対象の輪郭を知覚するより前に私たちのもとに達し、また輪郭より遅く私たちのもとを去る』」(169) こちらは、デュフィが彼の最初の評伝(一九三〇)を著したベル・ド・テュリークに伝えたことばを引いたものだという。文脈は異なるが、ロジェ・ド・ピールの絵画論を祖述しつつ島本浣が、作品全体の与える効果においては、「眼に対して色彩はデッサンに先行する」と記したことを思いだすこともできるかもしれない(170)。ともあれ線と色のずれに対する、こうした意識化の試みがなされるかたわら、実作では、<透明の時代>のピカビア(171)やウォーホル、ポルケをはじめ、二〇世紀絵画史においてその例は、枚挙のいとまもあるまい(172)。絵画ではないが、木彫の人物像の表面を文様で覆った、橋本平八の《花園に遊ぶ天女》(一九三〇、東京藝術大学大学美術館)およびそれに触発されたという小谷元彦の《AIR“gust”》(一九九九)を引きあいに出すのは、いささか唐突に過ぎるだろうか(173) 以上はたまたま目にとまったものを列挙したにすぎないが、線と色彩の関係がこのように頻繁に問題にされるのは、大まかには近代絵画史において、線と色彩がそれぞれ異なる機能をはたすような要素であることを、問題にする必要もなく制作を実現せしめるようなシステムなりコードが、失効していることを意味する。逆に、少なくとも油彩画においては、近くは印象主義、遠くは明暗法の成立以来、完成した画面に輪郭線がそれとして登場することは、必ずしも歓迎されなかったことを思い起こす必要があるだろう。加藤明子によれば、「(ロジャー・)フライの考えでは、こうした『輪郭線』の効果は再現的技法の中で『長い間抹消されていた』。そこでポスト印象主義が最初に試みたのは『輪郭線』の回復であったと主張する」(174)。ひるがえればアルベルティはその『絵画論』の中で、 「私はここで、輪郭を描くのに、その線を極めて細く、ほとんどそれが見えるか見えない位に描くよう苦心しなければならないといっておこう。画家アペレスはこの線を稽古してプロトゲネスと張合うのが常であった。輪郭を描くことが境界のデッサンに他ならぬ以上、もしそれを非常に明瞭な線に描けば、そこに面の縁があることを示すのではなく、はっきりした裂け目があることを示す。輪郭をとるには、ただ境界線をなぞるだけでとどまることが望ましい」(175) 「畫家は、目から遠い人物や物體においては、もっぱら斑點のみを、しかしはっきりした輪廓をもたず、朦朧たる輪廓をもった斑點のみを描かねばならぬ」。 「君の人物畫の輪廓はその人物をかこむ背景そのものと異る色で描いてはならぬ。すなわち君は背景と人物との間に黒いプロフィルを描いてはならない」。 「物體の輪廓はそれの一部分ではなくて、それと接する他の物體のはじまりである。かくのごとく交換的に、何の妨害もなく前者と後者とは互いの輪廓となりあう。したがってこのような輪廓は、いかなるものの部分でもないのだから、何ものをも占めていない」(176) ちなみにバルザックは、『知られざる傑作』の中で主人公の画家フレンホーフェルに、「線というものは、人間がそれによって物体に落ちる光の効果を説明する手段なんだ。しかし、一切が充実しきってる自然には、線なんぞありはしない」と語らせており(177)、ジョン・リウォルドはそこにセザンヌの美術論との結びつきを見たという(178)。ともあれこれらの勧告は、三次元的な空間と立体を写実的に再現する精度を高めるためになされたわけだが、また、表象された世界において、事物と空間とが連続するものとしてとらえられていることを物語っている。リーグル、ヒルデブラント、ヴェルフリンらの議論において、<線的>と<彫刻的>、<触覚的>がしばしば等価と見なしうる点からして、線の画面からの排除は、絵画性、視覚性の優勢へと導くことになる。 ところでアルベルティは、先の引用箇所に続けて以下のように記している; 「立派な輪郭が描かれていなければ、どんな構図も採光も賞讃され得ない。しかし、ただ立派な輪郭一つだけで、すなわち立派なデッサン一つだけで、非常に喜ばれるということは稀ではない」(179) 輪郭線は画面の表に出ない方がよいが、にもかかわらず必須のものであり、むしろ作品が成功するための要にほかならない。ここからやがて、マニエリスム期に練りあげられることになる<ディゼーニョ>にまつわる議論への道の一つを見てとることもできるかもしれない(180)。先にふれたようにイタリア語のディゼーニョは、現在のフランス語のdessein=構想とdessin=素描双方の意味をあわせもつのだが、たとえばフェデリコ・ツッカーリは一六〇七年の著書において、<内なる素描>と<外なる素描>を区別した。「内なる素描とはわれらの精神中に形成された概念のことでその概念によって何らかの対象を知ることが可能となり、この概念に一致した実際上の仕事をすることが可能になるのである」という(181)。十七世紀フランスの王立絵画彫刻アカデミーにおいてデッサンは、言語による言説・知識、この場合は歴史画的な理念と密接に結びついており、もって自由学芸としての美術の地位を保証するものだった(182)。線は具体的な画面からは姿を消しながら、不可視のものとして画面を支える。ヴェルフリンが<線的>の語を<絵画的>と対置したことからもうかがえるように、不可視のディゼーニョは、物として実在する個々の絵画作品を成りたたせる行程の全てを支配下に置く。ボワがマティスに見出したそれとは別の、もう一つの<原ドゥローイング>をここに認めることができるかもしれない。 ただその際、明暗法が要請する線の撤退と、不可視の審級としてのディゼーニョとは、論理の上では必ずしも結びつかなければならないわけではない点は、留意しておいてよいだろう。また理念的なレヴェルでの線の不可視化と、実際の作画の場面とが、必ずしも一致しないであろうことも予想できるところだ。個々の画面に現われる線が、不可視のディゼーニョが拠って立つ地盤に干渉し、ことによったら掘り崩そうとする場合も起こりうるかもしれない。 たとえばホルバイン(子)の肖像画をざっと見渡すと、それらが制作当初の状態を伝えているか否かをおくなら、モデルのとりわけ顔貌の部分はきわめて精緻な明暗のグラデーションによって処理しながら、衣装の縁の部分や背景の小物などが、しばしばくっきりした輪郭で区切られている。《イギリス皇太子エドワードの肖像》(ワシントン、国立美術館)や《ヘンリー八世の肖像》(マドリード、テュッセン=ボルネミッサ美術館)の場合、豪奢な装束に、均一な幅の黒い線だけで文様が描かれており、布地を表わす色面から線が微妙に浮きあがって見えるさまは、モローの<入墨>と関連づけたくなるほどだ。北方を出自とするホルバインを、アルベルティ的規範の支配下に単純に置けるのかどうかは不明だが、パルミジャニーノの《貴婦人の肖像(アンテア)》(ナポリ、国立カーポディモンテ美術館)においても白いスカートに文様が、明暗による襞とはほぼ無関係に、線で描き足されている。こうした例は、ルネサンス以降のさまざまな作品の細部、とりわけ衣装や装飾などの部分を注意深く探せば、少なからず見出しうるものと予想される。 とまれボワ/マティスの場合との区別を計るなら、近世絵画におけるディゼーニョは、彩色に対し、位階の点で上位に立つ。彩色とは色だけでなく、先にふれたとおり絵具を塗る行程全て、また、たとえばカラヴァッジオの受容をめぐるルイ・マランの議論が示唆するように(183)、明暗、さらにレアリスム、ひいては質料的なものいっさいを含意する。フロイト/ラカン流の分析装置を援用して、<内なる素描>を法なり象徴界に比定するなら、質料的なるもの、色彩、仮象性といった性質を想像界ないし現実界に結びつけることもできそうだし、あるいはプレフィグラツィオーンの領域を、無意識ないし下意識の、さまざまな欲動が交錯する場に比定することもできるのかもしれないが、この点についてはおく。 さて、十七世紀フランスでの素描/彩色論争において彩色派に与したロジェ・ド・ピールは、素描が対象の外形をなぞる点から、素描に彫刻性・触覚性を見てとった(184)。視覚に固有ではないがゆえに言説と結びつきつつ、同時にそれは、絵画固有の特性でもないことを意味する。後者は、彩色によってこそ担われねばならない(185)。彩色の視覚性は、作品と観者との間に何らかの距離を要請するが(186)、この距たりゆえ、彩色は素描のように知識を伝達するのではなく、情動、ひいては欲望を喚起することになる。そうした彩色の特性を活かすため好まれたモティーフが、髪や布地、襞であり、何よりも肌であったという(187)。他方、素描が言語に接続する傾向にあるとすれば、彩色には、言語に置換しがたい部分がつねに残ることになる(188)。以上はジャクリーヌ・リヒテンシュタインによる記述からいくつかの論点を抽出したにすぎないが、ヴェルフリンにおいても、<絵画性>が<統一性>や<不明瞭性>に通じたことを思い起こさせる。他方、一つに視覚性が距離を要請するとして、彩色の特性をもっとも活かしうるのが、不定形な、それゆえ明確に測定しうる距離を脱臼させかねないモティーフと見なされた点に、興味深い問題を認めることができるかもしれない。 ところでロベルト・ロンギは、「フィレンツェ派の『素描(ディゼーニョ)』やヴェネツィア派の『彩色(コロリート)』とは異なる、いわば絵画の第三の道をカラヴァッジオの『ルミニスム』のなかに見ようとしていた」という(189)。他方ティントレットはその生時すでに、フィレンツェ派/ヴェネツィア派、ミケランジェロ/ティツィアーノ、素描/彩色の綜合を計ったと見なされていた(190)。ティントレットに先立っては、セバスティアーノ・デル・ピオンボがいる。作家たちの意識が実際にどうであったかはさておき、素描と彩色に隣接する第三の道であれ、あるいは両者の折衷であれ、素描と彩色が分離され、前者が優位に立ってからさほど時を置かず、その優位を突き崩す、あるいは和らげようとする試みが想定されたことになる。より正確には、そうした問題を設定する視点が成立したというべきだろうか。他方ロンギはその『イタリア絵画史』で、ティントレットに関する節を「素描と色彩の分裂の継続」という見出しのもとに置いた(191)。分裂は綜合の試みを招き、しかしただちに、さらなる分裂を呼びだすという次第だ。 ちなみに、古典主義的な伝統に全面的に則っているわけでは必ずしもなかろうにせよ、マティスが、「もし、素描が精神から生ずるものであり、色彩が感覚の領域のものだとすれば、精神を磨くために、また精神の小道を通して色彩を導くことができるためにまず素描をやるべきです…(中略)…若い画家は準備の年月を過ごしてのち初めて色彩を手がけるべきです」と、画家の訓練において素描を先行させたのに対し(192)、ルオーによればモローは、「デッサンはとても推奨されているが、人はまたそれを色彩畫家の萌え出づる芽・・モウせる一種の案山子にしている」と述べ(193)、デッサンと彩色の訓練を、少なくとも同時進行させるべきものと考えていたようだ。もっともこれは、両者においてデッサンと色彩がいかなる序列をなしていたか、あるいはなしていなかったかに、ただちに結びつくわけではあるまい。マティスの場合がデッサン・色彩それぞれに対する距離のとり方を意識させるとすれば、先のルオーによる証言がそのすぐ前に、「繪かきの想像力とパレットを愛する熱とはどこまで進むかはかり知れない。なぜ若い時からすでに畫布や繪具をあんなに恐れたり、嫌ったりするのだろうか」(194)ということばを伝えている点をとらえて、いささか拡大解釈するなら、色彩をふくむ物質としての画材に対する親近感、あるいは職人的な性向をモローに読みこむことができるかもしれない。 さて、一八六七年に出版された『デッサンの諸芸術の文法』においてもシャルル・ブランは、「デッサンは芸術の男性である;色彩はその女性である…(中略)…絵画において色彩は本質的なものだが、しかし第二位を占める」と記しており(195)、先に引いたマティスの発言とあわせ、デッサン/色彩の位階がいまだ影響力をもっていたことを物語っている。他方近代絵画の展開において、不可視のデッサンが統御するシステムは崩壊しつつあった。ボイムはダヴィッドの新古典主義を、バロック、ロココから印象主義にいたる様式展開において一つのアナクロニスムであったと見なし、習作/完成のカテゴリーも、新古典主義の介入がなければ十九世紀美術において問題とはならなかったのではないかというのだが(196)、逆にいえば、新古典主義/アカデミーの存在が問題をいっそう先鋭にしたとはいえよう。とまれシステムの失効に伴い、不可視だったデッサンは可視化せざるをえない。それはアングル/ドラクロワの対だけでなく、ドガ(197)、ルノワール、ゴーギャン、スーラといった画家たちにとっても大きな課題であり続けた。不可視のデッサンという法を失なった線が、明暗という質料レヴェルでの支えにも接続していることができず暴走したさまを、モローの入墨に見てとることはできるだろうか。同様の問題がやがてマティスに受け継がれることになるとして、ここでは、セザンヌについて簡単にふれておこう。 |
167. J.E.ボウルト編著、『ロシア・アヴァンギャルド芸術 理論と批評、1902-34年』、川端香男里・望月哲男・西中村浩訳、岩波書店、1988、p.83. また cf. ibid., p.81. |