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美術館 > 展覧会のご案内 > 常設展(美術館のコレクション) > 2020 > 美術館のコレクション2020年度第3期第1室解説(長)

美術館のコレクション(2020年度常設展示第3期第1室) 長い解説文

2020年9月24日(木)-12月27日(日)
このページには常設展示室第1室「コレクション名品選」の一部の出品作品の解説(展示室には掲出していない長い解説文)を掲載しています。随時更新します。
展示室に掲出していた短い解説文はこちら

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《アレクサンドリアの聖カタリナ》
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617-1682年)は17世紀にスペインの商都セビーリャで活躍した画家で、彼の手掛けた優美な聖母像や聖女像は大変な人気を博した。殉教聖女を扱った本作もその一例である。
伝承によれば、カタリナはアレクサンドリア出身の王女で、自身の持つキリスト教への篤い信仰心のため、ローマ皇帝によって処刑された。処刑では車裂きの刑を宣告されたが、カタリナの祈りにより奇跡的に車輪が破壊されたため、最終的に斬首されたという。画面下部に描かれた車輪と剣はこのエピソードに由来する。
画面右上の天使が抱える棕櫚の枝は殉教者の栄誉のしるしである。対抗宗教改革期、命を賭して信仰を貫いた殉教聖人、聖女の英雄的な姿は一般信徒たちの信仰心を高揚させるために用いられた。本作のカタリナも、ひざまずき、手を広げて天を仰ぐ、やや大仰なポーズをとり、殉教に臨む悲劇のヒロインとして描かれている。また、強烈な明暗の対比によってドラマティックに演出された画面は見る者の胸を打ち、敬虔な信仰心を呼び起こすのである。
(坂本龍太「バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『アレクサンドリアの聖カタリナ』(美術館だより)」2020年5月23日付『中日新聞(三重版)』より一部改稿して転載)
 
オディロン・ルドン《アレゴリー――太陽によって赤く染められたのではない赤い木》
赤い木や枝は、晩年のルドン作品にたびたび登場するモチーフ。落ち着いた色調のなかで、朱色に近い赤色に染められた木の幹がひときわ鮮やかに輝く。人物の描写はずいぶんと簡略化されている一方で、2人の足元は暗緑色と暗紅色の点で執拗なまでに埋め尽くされている。
腰布をまとい左手を持ち上げて優雅に首を傾げる男性はキリストで、ヴェールを被った人物は聖母マリアなのか。あるいは男性の足元の貝殻のようなかたちが連想させるように、典拠は古代の神話なのか。謎めいた副題も、これらの登場人物がいったい誰であり、どのような寓意が表されているのか明らかにはしてくれない。もちろん、神話や聖書の絵画化の決まりごとから解放され、創造性豊かな作品を残したルドンであるからこそ、特定かつ単一の典拠をもたない絵画として本作を制作した可能性も高い。
本作はボルティモア美術館の旧蔵作品。当館には、開館に先立つ1980年に、コレクションにおける初めての西洋絵画として収蔵された。
 
オーギュスト・ルノワール《青い服を着た若い女》
正面向きの若い女性の肖像画。この作品を手掛けた頃、ルノワールは《陽光の中の裸婦》(1876年、オルセー美術館)等で実験的な人体表現に取り組む一方、注文による肖像画制作によって自身の生活を支えていた。注文の経緯や像主は明らかでないが、堅実な技法で描かれた本作もそうした肖像画のうちの1点と考えられている。
黒髪の女性は、紺色の服を着て真っ白の詰襟の周りに黒いリボンを結んでいる。画面には粗く素早い筆のあとも残る一方で、なめらかな肌は入念に仕上げられ、色白の皮膚の下からは青色が透け、頬はバラ色に染まっている。少し伏せた目は黒く細い輪郭線で囲まれ、黒い瞳の表面はきらきらと光を反射する。細部まで観察すれば、眉の1本1本も細緻な筆を重ねて描かれていることが分かるだろう。
どこまでが注文主の要望で、どこからが画家の創意か判然としないものの、抑制の効いた色調やシンメトリーに近い構図が、像主のまとう落ち着きや楚々とした雰囲気を際立たせている。
 
クロード・モネ《橋から見たアルジャントゥイユの泊地》
黄昏時、金色の薄明かりが辺り一帯をすっぽりと包み込む。画面左上では太陽が紫色の雲間から覗き、その光が川面にきらきらと反射する。使用されている色数は決して多くないが、水気の多いクリーム色、かすれた暗緑色や赤紫色の絵具が、混色されないままカンヴァス上に素早いタッチで並置されている。
普仏戦争とパリ=コミューンの後、フランスに戻ったモネは、1871年の暮れにセーヌ河畔のアルジャントゥイユに居を構えた。本作はセーヌ川にかかる道路橋の上から南西の方角を向き船の停泊地を描いたもの。この付近は川幅が広く流れがまっすぐで、夏にはしばしばヨットレースの会場となったという。画面右下に描かれる箱型の建物は貸しボート小屋。モネが画家シャルル=フランソワ・ドービニーから影響を受け、水上での制作時に使用していたアトリエ船(小屋を取り付けた船)もボート小屋の近くに浮かんでいる。アトリエ船の近くには人影も見える。
本作が描かれた1874年、画家は志を同じくする仲間と初夏にパリでグループ展(いわゆる「第1回印象派展」)を開催。モネの型にはまらない筆さばきは一部の批評家より酷評を浴びたが、同年夏に描かれた本作において、その筆遣いはいっそう自由闊達なものとなっている。
 
マルク・シャガール《枝》
深い青を背景に白いヴェール、白いドレスを身に着けた女性が、男性を抱きかかえるようにして宙に浮かんでいる。2人の上に生い茂るのは、赤い花が咲き乱れ、鳥たちが留まる木の枝。画面左上で輝く太陽は赤、白、黄で彩られ、笛を吹く人の横顔や動物の輪郭がうっすらと描かれる。画面右下では大ぶりの花束が花瓶に生けられている。
その他のモチーフは、すべて青の諧調のなかに沈んでいる。画面左手にはエッフェル塔がそびえ、浮遊する男女の足元にはセーヌ川が流れる。川に架かるのは、石造りのアーチを持つ橋ポン・ヌフ。男女の周りでは2人の人物が飛び交い、画面に動きをもたらしている。
ヴィテブスク(帝政ロシア/現ベラルーシ)生まれのシャガールは20代前半の頃パリを訪れ、以降中断を挟みながらも第二次世界大戦前までこの都市を活動の拠点とした。本作では、他のシャガール作品と同様、故郷ロシアを思い起こさせる家畜等のモチーフと、パリのランドマークが渾然一体となって夢幻的な世界が展開される。
背景の青色の濃淡や色味は実に多様である。油絵具が丹念に塗り重ねられながらも、透明度を失わず柔らかな煌きを内包する描写には、絵具の扱いに長けた画家の技量が惜しみなく発揮されている。
この独特の青の表現については、1950年代からシャガールが制作し始めたステンドグラスによる影響が大きいと考えられている。1952年、彼は「シャルトル・ブルー」のステンドグラスで名高いシャルトル大聖堂を訪れ、その荘厳さに感銘を受けたという。シャガール自身は、ステンドグラスの素材は光そのものであり、光にこそ創造があると語っている。
本作は、当館の開館に先立つ1981年に財団法人岡田文化財団(現在は公益財団法人)から寄贈を受けた作品。以来、当館コレクションの「顔」であり続けている。
 
鹿子木孟郎《狐のショールをまとえる婦人》
鹿子木孟郎は不同舎に学んだ後、三重県津市をはじめとする各地の学校で教員を務めた。1901(明治34)年には初めてフランスに渡り、パリの私塾アカデミー・ジュリアンでアカデミスムの大家ジャン=ポール・ローランスに師事する。鹿子木の自伝によれば、彼はパリのパンテオンでローランスの壁画を見てその「巨腕」に驚き、画塾の門を叩くことを決意したという。
本作は、鹿子木の3度に渡る滞仏のうち、1度目の滞在時に描かれた作品。帽子をかぶった碧眼の女性の四分の三正面の半身像である。女性は、狐1匹の毛皮を贅沢に使用したショールを肩に掛け、金銀のチェーンやベルト、暗色の画面でひときわ目を引く淡いピンク色のコサージュを身に着けている。
鹿子木が画塾で頭角を現し素描が塾誌の表紙を飾るほど腕を上げるのは2度目の渡仏以降のことだが、1度目の滞仏期に描かれた本作にも、正確にモチーフの形態を捉える端正な筆致に、師の作風を正統的に継承した画家の優れた腕前を確認することができる。
 
中村不折《裸婦立像》
1901(明治34)年に渡仏した中村不折は、はじめ黒田清輝の師でもあったラファエル・コランに師事する。コランは親切な師であったというが、不折は上手な生徒がより多い環境を求めて、翌年鹿子木孟郎の紹介で、ジャン=ポール・ローランスが教鞭を執るアカデミー・ジュリアンに転じる。ローランスは、明度の高い色調や軽妙で甘い主題がアカデミックな絵画界でも流行するなか、堅牢な様式を貫き「最後の歴史画家」と称された画家である。
ローランス門下生となった不折は、ほぼ1年にわたり人体のデッサンに専念する。画中に「八月」の文字が見られる本作は、油彩の階梯に進級して間もない頃に描かれたものか。画面の上下を無駄なく使って人物が描かれ、不折の素描家としての腕前と修練の成果が申し分なく発揮されている。本作のもう一つの魅力は、優雅で洗練された詩情ではなかろうか。モデルは左足に重心を置いて右膝を曲げ、目を閉じて頬にそっと左手を添えている。意図してか、意図せずしてか、画家の眼と手は、アトリエのモデルをただ即物的に「写す」行為を超越し、その先の展開を既に射程に捉えている。
 
古賀春江《煙火》
仄明るい赤みがかった闇夜にぽっかりと浮かぶ花火。打ち上げの音や都会の喧騒ははるか彼方に消え、ストップモーションのような光景が、見る人を音のない世界へと誘う。混沌とした闇のなかでぼうっと光る建物や赤提灯は、ひとけのない幻想的な情景に温かみを添えている。
本作品は、1927(昭和2)年第14回二科展に出品された同題の作品と、色調やモチーフ等に多くの共通点を見いだすことができる。二科展出品作の《煙火》は文豪・川端康成が愛蔵していたことで知られる。具象的なモチーフが明確な形を成している川端旧蔵作品に対し、当館所蔵品の個々のモチーフはいまだ形成の途上にあり、混沌のなかに漂っているかのようだ。より夢幻的な光景とも言えるかもしれない。
川端旧蔵作品が古くから比較的世間の目に触れる機会に恵まれていたのに対し、当館が所蔵する《煙火》は長らく忘れられた存在であった。県内のコレクターが所蔵していた本作が当館のコレクションに加わったのは1995年のことである。
古賀は、川端コレクションの《煙火》に次のような解題詩を寄せている。
境界もない真つ黒い夜の空間に/パツと咲く花火/昔の如く静かに/物語の王者の如く高貴に華々しく/煙火は萬物を蘇らせる/流れる光 音のない静かな嵐/混溷としたる現実にカッキリと引く一本の白線/人はその上を捗りたがる/人はみな逆さになつて煙火を見てゐる/絞のある紫紺の羽の大きな蝶になつて/

藤島武二《大王岬に打ち寄せる怒濤》
波がうねり、押し寄せる海。朝日を受けて金色に輝く雲。険しい岩壁の間から、いままさに日の出を迎えた大王崎(三重県志摩市)の海を描いた絵である。岩壁の間から水平線がのぞく構図が画面に奥行きと臨場感を与え、ところどころに描きこまれた松や帆船が海の壮大さを引き立てる。落ち着いた色彩は日本の朝の湿潤な大気を巧みにとらえ、のびやかでありながら計算された筆のタッチには、「細部にとらわれずに本質をつかむ」ことを重んじた画家の巧みな手腕がみてとれる。
本作は、東京美術学校教授であり、洋画界の権威であった藤島武二(1867-1943)が志摩半島を旅して描いたうちの一枚。1928年に皇太后より昭和天皇の御学問所に飾る油絵の制作を任された藤島は、「日の出」を画題にすることを決め、以降10年にわたって理想の風景を求めて各地を旅した。荒波の伊勢湾にさす日の光が、新たな時代の到来を象徴する。藤島壮年期の代表作の一つである。
(髙曽由子「藤島武二『大王岬に打ち寄せる怒濤』(美術館だより)」2020年5月16日付『中日新聞(三重版)』より一部改稿して転載)

吉原治良《雪(イ)》
白い画面に、黒や茶色の五角形、黒い線といった図形が記号のように配置されている。画面を覆う白のマチエールは多様で、表面が毛羽立ったような部分や、白い層の下の暗色の絵具が透けて見える部分、つるつるとした背景に分かれている。残された素描をもとに本作の制作過程を検討すれば、この幾何学的な画面の着想源が実は山であったことも推測できるという。
吉原は、1938年10月に、二科会において山口長男ら前衛的な表現を志向する画家らと「九室会」を結成するが、社会が俄かに戦時色に染まるなかで前衛芸術への風当たりも強まっていく。《雪(イ)》は1940年9月に開幕した二科展の出品作であるが、雑誌『みづゑ』(1941年1月号)の座談会「国防国家と美術」において、鈴木庫三少佐は「狂人が描く様な円とか三角を描いて、誰が見ても分からぬのに芸術家だけが価値ありとしても、実に馬鹿らしい遊び事である」とし、配給や展覧会の禁止をも示唆した。「円とか三角」を描いた作品とはまさに吉原らの出品作のことであり、当時を回顧して吉原は「不気味だった」と語っている。
座談会の記事が掲載されたのは1941年1月のことだが、もっと早い段階でこのような非難が画家の耳に入っていた可能性も指摘されている。というのも、1940年10月から開催された紀元二千六百年奉祝美術展には、吉原は具象的表現へと舵を切った作品《雪山》(1940年、大阪中之島美術館蔵)を出品しているからである。《雪山》と《雪(イ)》の様式には大きな隔たりがあるとはいえ、形態の比較から《雪(イ)》のモチーフを類推することもできそうだ。例えば、画面上方の黒い五角形は小屋のような建物で、左下の黒い線は横たわった木か何かであったのかもしれない。抽象絵画を「分からぬ」とする風潮は今日も根強く残るが、積もった雪のぼってりとしたやわらかな輪郭や、雪肌のざらりとした触感、辺り一面の銀世界の色感や温度等、《雪(イ)》からは表面的な視覚性を超えた雪の本質を感じ取ることもできるのではないだろうか。


※執筆者名の書かれていない解説文はすべて鈴村麻里子(三重県立美術館学芸員)による。
最終更新:2020年12月22日
ページID:000242824