日本近代の彫刻観
大正期から昭和前期を中心に
毛利伊知郎
1.これまでの日本近代彫刻史研究
日本近代彫刻研究の歴史は長くはない。しかも、彫刻研究は絵画研究ほど活発ではなかった。今でも近代彫刻関係の研究論文や書物、展覧会は、近代絵画のそれと比較して格段に少ないのが実状だ。 第二次世界大戦後の1947(昭和22)年から1978(昭和53)年までの長期間、東京国立文化財研究所(現・東京文化財研究所)で日本近代彫刻研究にあたった中村傳三郎(1916~1994)は、研究に着手した頃を回想して、隈元謙次郎(1903~1978)の『明治初期来朝伊太利亜美術家の研究』(1940年)、森口多里(1892~1984)の『美術五十年史』(1943年)などを参考とした著作として挙げている。中村が赴任した研究所は1930(昭和5)年に設立され、同研究所では開所間もない頃から日本近代美術研究も行われていたが、近代彫刻プロパーの研究蓄積は多くはなかった(1)。 もちろん、戦前から研究所では関係資料の収集が始められていたし、日本近代美術の展覧会もいくつか開催されていた(2)。しかし、本格的な近代彫刻史研究が行われるようになったのは戦後のことである。その中心は、中村以外では、今泉篤男(1902~1984)、土方定一(1904~1980)、本間正義(1916~2001)、三木多聞(1929~ )らであった(3)。 こうした戦後の研究をリードした人々は、個々の作家を対象としたほか、特定のジャンルや時代に焦点を当てて研究を進めていった。そのなかで取り上げられることが多かったのは、荻原守衛、高村光太郎、中原悌二郎、平櫛田中といった作家たちと、近代彫刻草創期である明治時代中期、大正時代など限られた時代であった。 これらの作家や時代を主たる研究対象にすることで、日本近代彫刻史の大きな枠組みが形成されていった。そこでは、西洋的な彫刻の見方をベースとし、前近代以来の日本固有の造形の流れには重きをおかない彫刻観が主流となった。 昭和40年代から50年代になると、日本の経済成長を背景に、大型の美術全集刊行や美術館などでの展覧会開催が行われるようになった。そうしたプロジェクトが、中村をはじめとする研究者の研究成果に基づいていたことはいうまでもない。 しかし、彼らが第一線を退き始めた1980年代の半ば以降、日本近代彫刻研究はいわば過渡期に入った。もちろん、その間には上記の人々より若い世代の研究者による研究や普及啓蒙もあったが、それらは中村ら先達の研究を継承発展したものだった。そして、新しい観点に立つ近代彫刻研究が行われるのは、1990年代以降のことだった。 北澤憲昭、大熊敏之らによる江戸時代後期から明治期にかけての彫刻と工芸との関わりに関する研究、田中修二や千田敬一らによる緻密な作家研究、屋外彫刻調査保存研究会による近代屋外彫刻の調査研究、全国美術館会議ワーキンググループによるブロンズ彫刻の鋳造に関する研究と問題提議など、広範囲で多岐にわたる研究を事例として挙げることができるだろう(4)。 こうした研究をうけて、従来取り上げられてこなかった作品や作家、団体の再評価を試み、顧みられることが少なかった前近代的な造形も視野に入れた、新しいテーマ設定による彫刻展が1990年代後半以降、開催されるようになってきた(5)。そうした意味で、2000年代になって日本近代彫刻史研究は新しい段階に入ったということができるだろう。今回の展覧会もこうした近年の状況の延長線上にある。しかし、包括的な日本近代彫刻史の構築は、未だ道半ばにあるといわざるをえない。 |
*註 1.中村傳三郎『明治の彫塑:「像ヲ作ル術」以後』文彩社、1991年 2.戦前から戦後にかけで開催された展覧会で、日本近代彫刻が出品された主なものを挙げる。 3.本間正義「近代彫刻」『文化財講座 日本の美術8:彫刻(南北朝一近代)』第一法親出版、1977年 4.北澤憲昭『境界の美術史:「美術」形成史ノート』ブリュッケ、2000年 5.たとえば、近年開催された次のような展覧会がある。 |
2.近代日本における彫刻観
近年まで日本で彫刻研究といえば、中世以前の仏教彫刻、近代では特定の作家や時代、ジャンルなどに限られてきた。古代・中世の彫刻研究からは、絵画など他分野に遜色のない多くの成果が生まれ、特に、仏教彫刻については専門的な研究論文に加えて、展覧会や啓蒙書、テレビ放送も多数にのぽり、多くの一般愛好家が存在することもよく知られている。 しかし、こうした専門家の研究と愛好家の鑑賞で主に対象とされるのは中世以前の仏教彫刻であって、近世以降の仏像や彫り物などが注目を集めることは、一部の例外を除いて稀である。こうした中世以前の彫刻と近世以降の彫刻に対する扱い方のギャップは、どうして生まれたのだろうか。 明治期における彫刻をめぐる状況については巻頭の古田論文で述べられているが、そこでは日本があらゆる面で模範とした「西洋」からの影響の前に、日本独自の彫刻観が確立されえないまま日本彫刻の近代が始まったことが論じられている。 西洋の価値観を借用した彫刻の見方は、作品制作だけではなく鑑賞にも大きな影響を与えた。その典型的な例が仏像である。仏像は本来礼拝の対象であったが、明治以降は芸術鑑賞の対象にもなった。今では、博物館や美術館で彫刻作品として仏像が展示されること、信仰目的ではなく仏像鑑賞のために寺院を訪れることはごく一般的である。 明治時代に日本美術研究の基礎を作った岡倉天心らが注目したのは、関西地方を中心とする古社寺に残る古代中世の仏教彫刻であった。天心たちは、飛鳥奈良時代の仏像を古代ギリシアやルネサンスの彫刻に匹敵する優れた芸術作品と見なして高い評価を加え、日本が欧米諸国に対抗可能な優れた国であると主張した(6)。 明治時代後期から大正期になると、西洋近代の芸術思想に傾倒していた文学者や哲学者たちが、仏像を芸術作品として鑑賞するようになった。彼らは古寺を訪ねで仏像の芸術性を議論し、鑑賞記を発表した。今も読み継がれている哲学者和辻哲郎の『古寺巡礼』(初版は1919年刊)はこうした動きを象徴する著作で、『古寺巡礼』はその後の仏像鑑賞に大きな影響を与えた。また、志賀直哉ら『白樺』同人たちも奈良の古寺を巡って仏像鑑賞記を記した。志賀はのちに奈良に居を構えるほど魅了されるなど、当時の知識人たちにとって飛鳥奈良地方は、古代ギリシアにも比すベき彫刻芸術の聖地と見なされていた(7)。パリから帰った荻原守衛が、奈良の仏像に対する称賛を表明する文章を記しているのも、当時のこうした動きと無関係ではないだろう。 明治末から大正期にかけて、飛鳥奈良時代の仏像は古代ギリシアやルネサンス、オーギュスト・ロダンの彫刻に匹敵する芸術作品として彫刻家や文学者、当時の文化人たちによって広く認知されるようになったのである。このようにして形成されてきた彫刻観が、戦後の彫刻史研究の背景となった。それは、専門的な研究のみならず今日の仏像ブームにも引き継がれていると見てよいだろう。 そこでは、近世以降の仏像や立体造形に眼が向けられることは稀であった。その稀な例に、1924(大正13)年の柳宗悦による江戸時代の木喰仏の発見や、1931(昭和6〉年の彫刻家・橋本平八による円空仏の発見がある。柳宗悦は陶磁器調査に出向いた甲州の旧家でたまたま木喰仏を見たのが契機となり、その調査と収集に没頭した。また、橋本平八は、依頼された自作を納入するために飛騨高山を訪れた際、偶然円空仏に接しで調査と収集に着手している。しかし、この二例は当時としでは例外的な動きで、木喰仏や円空仏の造形が当時の彫刻界や美術研究に大きな影響を与えることはなかった(8)。 以上のような明治時代以降に形成された評価のありようは、大きく変わることなく第二次世界大戦後に引き継がれた。建築に付随する彫刻、置物、人形など、近世以降の多様な立体造形が研究対象としで取り上げられることは近年まで長期間なかったし、今もそうした造形に対する明確な評価基準を私たちはもっていない。 しかし、彫刻家たちの実態が、そのような彫刻観と常に一致しているわけではなかった。特に木彫系作家の作品では、建築関連の彫り物、人形、置物、根付などに対する親近感を示す例を数多く見出すことができる。前近代から受け継がれた造形の流れと新来の西洋的彫刻観とが入り混じった複雑で多様な世界が存在し、歴史的な位置づけや評価に戸惑いや困難を伴う作品に出会うことも少なくない。そこにこそ、近代における日本彫刻の特殊性を見てとることができるだろう。 |
6.岡倉天心の美術史については、『岡倉天心全集4』(平凡社、1980年)などに詳しい。 7.近代における仏像鑑質については、浅井和春「仏像と近代」『日本の美術456:天平の彫刻 日本彫刻の古典」(至文堂、2004年)所収、田中修二「別章明治・大正・昭和:仏像から彫刻へ」『日本仏像史』(美術出版社、2001年)所収などを参照。また、和辻哲郎の「古寺巡礼」と、奈良を中心とした明治から大正期にかけでの仏像鑑賞のありかたについては、鈴木廣之「和辻哲郎『古寺巡礼』:偏在する「美」」『美術研究』379号、2003年を参照。 8.柳宗悦と木喰仏については『柳宗悦展』(図録)三重県立美術館、1997年を参照。橋本平八と円空仏については、本間正義『近代の業術16:円空と橋本平八』至文堂、1973年などを参照。柳の木喰仏紹介に接Lた彫刻家たちの反応は一様ではなく、新海竹蔵(しんかいたけぞう)のような否定派と石井鶴三のような肯定派に意見は分かれた。しかも、柳の木喰仏紹介が1925~26(大正14~15)年頃の短期間で終わったことから、木喰仏が第二次大戦前の彫刻家たちに大きな影響を与えることはなかった。 |
3.木彫と前近代の造形
高村光太郎は1924(大正13)年に木彫作品の頒布会を企て、以後1931(昭和6)年頃まで小型の木彫を十数点制作した(第5章p.138参照)。生活費を得ることが直接の目的ではあったが、それは幼い頃から見よう見まねで慣れ親しんだ鑿使いの技術がなければ不可能なことだった。また、父高村光雲が光太郎の木彫を高く評価したことが、光太郎を後押ししたことも忘れることはできない。 光太郎自身は、彫刻を「面、量(塊)、動勢、肉づけ」と捉えるロダン流の彫刻観を木彫でも表現したと述べているが、それを可能にしたのは父譲りの伝統的な木彫技法であった。しかも、《柘榴》[p.123下]に蜘蛛を止まらせたり、《蓮根》[p.122] に蝸牛を這わす表現は、光太郎が忌避したはずの前近代的な彫り物や置物の造形性に通じでいる(9)。ここには西洋の造形理念と、日本の前近代の技法・表現とが微妙なバランスを保って共存しているのである。 これに類似したことは、橋本平八の作品にも認められる。橋本は1920(大正9)年から東京で彫刻を修業したが、1926(大正15)年に帰郷して終生郷里の伊勢で制作活動を行った。自身の思考や作品のアイデア、日々の出来事などを書きとめた橋本の手記が今も残されているが、そこからは橋本が『万葉集』や飛鳥白鳳仏など日本の古代文化を高く評価していたこと、中国・インドや西洋の哲学、宗教思想、西洋の神秘思想などにも強い関心をもっていたことがうかがわれる。また、橋本は日常生活において断食を行うなどストイックな精神主義者でもあったが、同時に煎茶に親しむなど文人的な側面もあわせもっていた(10)。 橋本の作品は、そうした東西両洋の文化に対する関心から生まれた独自の思想や生活信条を背景にもっている。自然石からインスピレーションを得た木彫《石に就て》[p,130]、あるいは自然石のなかに牛の姿を見出した《牛》などは、西洋的な意味でのオブジェ、また江戸時代以来の置物、そのいずれとも考え難い。こうした特異な作品が生まれるところに、西洋と東洋の狭間で新しい可能性を探っていた昭和前期の彫刻界の一端が垣間見えるのではないだろうか。 しかし、橋本が作品に込めた思想を読み解くことは容易ではない。たとえば、橋本が「仙を表現するもの」と記した作品《石に就て》のモデルとなった原石には、「南無阿弥陀仏」の文字が記されている。作者が述べる「仙」の解釈については議論のあるところで、橋本がもつアニミズム的傾向と関連づける指摘もある(11)。しかし、原石に記された文字を考慮すると、仏教信仰、あるいは彼の生家の背後に位置する朝熊岳の山岳信仰との関連についても探る必要があるのではないかと思われる。 これと類似した例は、《花園に遊ぶ天女》[p.133]にも認められる。《石に就て》の2年後の1930(昭和5)年に制作されたこの作品について、橋本は《石に就て》の「来る可き展開」と記したが、その主題の意味は今ひとつ明らかでない。発表当初、少女の背後に樹木が表されていたことを考慮すると、この作品は東洋美術で長い歴史をもつ樹下美人図(像)と関連があると考えてよいだろう。しかし、この像の台座周囲に橋本が刻んだ「風神」「富神」「地神」といった神々の名は何を意味しているのだろうか。作者は何も語っていないが、橋本の内面には仏教、神道、キリスト教など複数の宗教思想研究によって形成された独自のパンテオン(神々の体系)があって、それがこうした作品に反映している可能性が考えられる。 このように、素材に対する独自の見方、あるいは東洋と西洋双方にわたる広範囲の研究から形成された思想を作品に投影しようとする彼の姿勢には、西洋からの借り物ではない固有の世界観をもとうとする作者の強い意志が認められる。 このほか橋本は、《参宮道者人形》と呼ばれる小人形や根付、置物など、生地伊勢の民衆の生活と関わる作品も数多く残している。これらの作品は経済的理由から制作されたもので、展覧会に発表された作品と同列に論じることはできないが、一般民衆の日常生活で使われる前近代以来の造形物に対して橋本が示す親近感も、西洋的な彫刻観のみでは説明できない作家のあり方を具体的に示している。 高村光太郎、橋本平のように同時代の西洋を強く意識していた作家たちも、技術と感覚の両面で日本前近代の造形と無関係ではなかったのである。西洋近代の彫刻思想を知識として学び、それを実践した作品を発表しながら、同時に前近代以来の造形物に通じる作品を制作したり、たとえ無意識であっても前近代的な感覚が作品に現れる二重構造的な作家と作品のありようは、日本彫刻の近代的特質といってよいだろう。 |
9.山口泰弘「木彫・高村光太郎の伝統的感性と知的造形」『高村光太郎・智恵子:その造形世界』(図録〉呉市立美術館はか、1990年 10.橋本の手記の一部は、橋本平八『純粋彫刻論』昭森社、1942年に収録されている。 11.本間正義『近代の美術16:円空と橋本平八』至文堂、1973年 |
4.終わりに
西洋近代芸術思想を拠りどころとした仏像鑑賞やロダニズムに象徴される彫刻観は、近代西洋の文脈に沿った「彫刻」の自覚的認識であり、近年までの日本近代彫刻史研究もこうした彫刻観の枠組みのなかで行われることが多かった。幕末・明治期の工芸品に彫刻的表現が多数存在することは近年の研究でしばしば指摘されるようになったが、そうした表現は平櫛田中や佐藤朝山、椅本平八ら木彫系作家たちに引き継がれていった。また、同じ古仏を研究しても寄木造(よせぎづくり)彩色仕上げ像を生んだ平櫛のように、西洋的な価値観と異なるアプローチも存在していた。 こうした多様な作品を日本近代彫刻史に位置づけていくためには、これまでとは異なる近代彫刻研究の基本構造が必要とされるだろう。近年開催された近代彫刻関係の展覧会を通じて、私たちは日本の近代彫刻が前近代の造形物と無関係でないこと、あるいは近代彫刻と呼ばれる世界が意外に多様であることを教えられた。こうした検討の場を重ねることを通じて、近代日本彫刻の多様な世界を再構築することが求められていることは間違いない。 (もうり・いちろう/三重県立美術館) |