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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1990 > 木彫・高村光太郎の伝統的感性と知的造形 山口泰弘 高村光太郎・智恵子展図録

木彫・高村光太郎の伝統的感性と知的造形

山口泰弘

 高村光太郎は、大正13年(1924)の『明星』9月号に「木彫小品 鳥蟲魚介蔬菜果■(ら)を頒つ」と銘打って次のような広告を掲載した。

平日研究のモデル費にあてる為、斯ういふ会を催します。
今度は途中でお断わりするやうな事をしません。そして永く続けます。
○図題木材の種類其他によつて、会費は三種類。参拾円 六拾円 百円
払込は幾回私にても構ひません。申込及び御送金は小生宛又は「明星」発行所宛。
○作品は申し込み後およそ一箇月以内に御渡しの事。但し会費全部払込済の上。
箱は附かず。入用の向には別に調整せしめます。
○図題は一切小生まかせの事。

 これに先立つ大正6年(1917)のことであったが、光太郎は、かつて生活したことのあるニュー・ヨークで、自分の彫刻の個展を開催しようと企てたことがあった。この大計画のため、当時枢密顧問官の職にあった金子堅太郎以下与謝野鉄幹、武者小路実篤、岸用劉生ら錚々たる面々を賛助者に迎えて、資金調達のための彫刻頒布会を企画したのだった。「今度は途中でお断わりするやうな事をしません」といういささか卑屈ともとれない一節は、この計画の頓挫という前科に多少後ろめたさがあっての発言なのである。

 それから7年経って、ふたたび頒布会を開く気持ちになったのは、「平日研究のモデル費にあてる為」という光太郎自身のことばにあきらかなように、モデル代にも事欠くような決して豊かでない日々の生活を救うための窮余の一策として思いついたからにほかならない。しかし、光太郎の生涯の履歴を俯瞰できる立場にいる私たちにしてみれば、この窮余の一策が、光太郎の生活を救ったというにとどまらず、彫刻家としての光太郎にひとつの重要な局面を現出させる契機をつくったという、望外の成果にも注視しなければならないだろう。

 大正6年の頒布会は、最大等身大にいたる木彫・ブロンズ・大理石像を注文に応じて製作頒布するという、当時の光太郎の彫刻家としての知名度やステータスを考えると無謀ともいえる企画であったが、犀利な頭の持ち主であった光太郎は、これを反省し、今度は木彫の小品を頒つ方針に切り替えた。結果は、光太郎にいくらかの経済的利益をもたらすこととなったが、光太郎の木彫の代表作とみられるものが、この頒布会を通してさまぎまな所蔵家のもとに収まることになり、私たちの鑑賞に供されるようになったことは私たちにとっては幸いだった。

 この年に発表した「工房より」には「彫刻の方は金が出来ないので折角の夏にモデル研究が出来なかつた。それで木彫小品の会を考え出して明星に広告をのせてもらつた。」と冒頭の広告を裏付ける証言が光太郎自身の口から出ているが、その後に、「木彫は断続的に子供の時からやつていたが、今年の二月頃から本気ではじめた。」と、続けている。光太郎が、明治有数の木彫家高村光雲の長男として生まれたことは周知のとおりであるが、その父のもとで、光太郎は家業を継いで木彫家になることを運命づけられていた。晩年になって父とのことを回想した「父との関係」(昭和29年)で、幼少期のことを次のように書いている。

 私は長男なので、父の家業をついで彫刻家になるということは既定のことであつたが、特に父の指導をうけるということもなかつた。多くの内弟子などの間にうろうろしていて、見よう見まねで何となく彫刻に親しんだに過ぎない。七歳頃に父に小刀を二、三本もらつていたずらしていたことをおぽえているが、よく刃物で怪我をした。


 光太郎ももちろん気づいてはいたのだろうが、「見よう見まね」で家業に親しませる、という方法は、階梯を重ねて演繹的に指導を行なう近代的な教育の方法とはあきらかに性格のことなるものである。いわば、前近代的な職人のやり方とでもいおうか。同じ文章で父のことを「徳川末期明治初卿こかけての典型的な職人であつた。いわゆる『木彫師(きぼりし)』であつた。(略)又その気質なり人柄なりに於いても完全に職人の美質と弱点を備えていた。」というが、この典型的な職人が、自分の跡継ぎに無目的に小刀を与えていたなどと、到底考えられるものではない。職人には職人の教え方の流儀、つまり理路整然と頭で理解させるような方法ではなく、手でものを覚えさせて、体質にまで深く染み込んでいくようなやり方があった。光太郎も、小刀を与えられ、内弟子の間をうろうろするあいだに、彫技を知らず知らずに学んでいたわけである。そして、父光雲はそうした職人らしい理屈にかなった方法で、光太郎を、木彫師(きぼりし)の体質に造り上げていったのである。だから、「今年の二月頃から本気ではじめた。」(「工房より」大正13年)とはいっても、光太郎の場合、体質をもとの状態に恢復させる、というほどの意味にとってよいのである。

 頒布会は、木彫小品に限定され、ジャンルも「鳥蟲魚介蔬菜果■(うり)」などのうち、身近に観察できるものが選ばれた。「図題は一切小生まかせ」であったが、これを契機に、記念すべき第一作である「魴■(ふつ)」(大正13年、これは売らずに手元に置いて愛玩したという)をはじめ、いくつかの「蝉」(大正13年)、「柘榴」(大正13年)、三つの「鯰」(大正14年、15年)、「うそ鳥」(大正14年) などが生まれ、「桃」(昭和2年)、「白文鳥」(昭和6年頃)、「蓮根」(昭和5~6年頃)へと続く。

 光太郎は後年の談話筆記『回想録』(昭和20年)のなかで、「鯰」を彫り上げて後父に見せたときのことをこのように回想している。

 『鯰』は従来木彫の方では伝統的なものを何の考もなく拵へてゐたが、其頃から私は木彫のああいふ風なやり方を始めて、木彫の本来の自覚を持たうとしたのである。………(略)。「魴■(ふつ)」に関する記述が入る………それらの木彫を初めやりかけて父に見せた時はそんなに思はなかつたらしいが、二度目に見せた時は父はびつくりしてゐた。父の驚き方は私の意図したところとは違ふのであるが、父は刀がよくきれるやうになつたといつて驚いたのである。


 光太郎は、「木彫の本来の自覚を持たうと」した息子の本意に無理解な牢固とした父の職人気質にいらだつのであるが、それに追い打ちをかけるように父はこう言った。

此処の斬に貝殻を彫つて添へると面白い置物になる


 聡明な知性と進取の気性で西洋の近代と接した光太郎にとって、まさに否定されなければならない江戸の職人気質=前近代の権化がそこにいるのである。たしかに光太郎は、父が晩年まで保ち続けた「木彫師(きぼりし)」としての職人的人生観に対して批判的であった。『白樺』のロダン特集号に、光太郎は、“ME(')DITATIONS SUR LE MAi(^)TRE”なるアフォリズムを発表しているが、そのなかで、「八木の手と八個の眼との何れをか撰ぶと言つたら、ロダンは八個の眼といふだらう。」と書いている。つまり、大切なのは職人的な手の技術ではなく、造型の本質を見通す限であるというわけだが、職人芸的な手の伝統が生きている環境に生まれ育ち、受け継いだ高村の、それに対する抵抗心がここには非常に明確に打ち出されているのである。

 光太郎の父への意識的な抵抗……これは前近代への抵抗あるいは江戸の否定と言い換えてもいいのだが……がどのくらい実作品に移されたかをみるのに、光太郎自身の木彫を具さに調べることは、有効な手投だろう。

 頒布会の広告を『明星』に載せた大正13年の作品「柘榴」は、「此などは後で一寸借りたいと思つて面倒な思をした。手放して了へば、自分の作つたものでも自由にならないから、愛着のある作品を人手に渡すのは厭になる。貧乏の最中だから仕方がなかつたけれども、智恵子はそれを惜しがつた。」(『回想録』昭和20年)と後にかたる、夫妻ともども愛着の深い作品であった。
しかし一見するだけで、光太郎のめざす「彫刻に本来の自覚を持たう」とする西欧の近代に学んだ造型観とはひと味違う“趣味”がそこにあることに気づかされる。

 この愛すべき小さな作品に対して造型面から光太郎が加えたコメントは、私は寡聞にして知らないが、小さなひと塊のもつマッス、ぱっくりと櫨た中身の、紅色の種の皮質と構造、小さな面が寄り集めてさらに大きな面を構成するプランのおもしろさは、この作品に対してもとめた光太郎の造型への関心を、たしかにものがたる。だがしかし、どうしても見過ごすことができないのは、造型性……このころの光太郎は彫刻の本質は立体感にあるという(「彫塑総論」大正14年)……‥をめざしていたはずのこの作品の影にいっぴきの小さな蜘蛛を彫り込んでいることである。「此処の所に貝殻を彫つて添へると面白い置物になる…。」。息子の「鯰」を見せられて思わず出た父の言葉を軽い軽蔑の気持ちをもって聞いた光太郎にもかかわらず、まさに父と同じ轍をここで踏んでいるのだ。

 典型的な江戸職人だった光雲にしてみれば、日常的に見かけるがまったく異種のモティーフを取り合わせる感覚は、体にまで染み込んだものである。こうした感覚は、俳諧や狂歌など江戸の庶民文芸を生き生きとしたものにしていた豊かな感覚と通じあうものとおもわれるが、それが証拠に江戸の庶民感覚の鏡ともいえる浮世絵でもっとも活躍した絵師のひとり、葛飾北斎がキセルと櫛のために描いた図案集『今様櫛■(せん)雛形』をただ無作為にぺらぺらとめくるだけでも同工のものはいくらもみつかるはずだ。同じ取り合わせの感覚は、昭和5~6年ころに作ったといわれている「蓮根」にもみられる。これは、蓮根とその上を這う蝸を一木から彫り込んだものである。いかにも細工物的な卑俗なテーマとここで拮抗しているのは、蓮根という素材が本来もつ造型的な構造を面およびマッスでなんとか処理しようと努力する光太郎の意識であろう。「栄螺」の木彫を作ったときのことだが、五つほど彫り損なった後、「色々考へて本物を見てゐ」たとき、「貝の中に軸」を発見したという(『回想録』昭和20年)。そしてそれをきっかけに、「初めてかういうものも人間の身体と同じで動勢(ムウヴマン)をもつといふこと」が解り、単なるモデルの引き写しではなく、「自然の動きを見てのみこまなければならないといふこと」を悟ったという。そして、「自然の成立ちを考へ、その理法の推測のもとに物を見」ることに造型の本源を見たという。「栄螺」にまつわる『回想録』の記述はかなり長文にわたるので全文をここにあげるわけにはいかないが、それを通読すると、造型とはこういうものだ、という結論が先にあってそれを導くための理論をあとづけたのではないか、という印象が率直なところ拭えない。

 造型の問題に対する論理的な理解の差という点では光太郎と光雲との差はおそらく決定的なものだったに違いない。それは、彫刻というものの存在価値に対する意識の差、と換言できるかもしれない。微を穿ち細を究めるミニアチュールの楽しみ、光太郎の言葉を借りるなら「変態美」(「江戸の彫刻」昭和25年)の世界、あるいはそれを可能にする至芸の世界、実用性といったものに呪縛されている職人光雲に対して、あくまで彫刻はそれ自体自立するものであり、そこに造型性の尊さがある、という近代の彫刻家との論理的な理解の差というわけである。

 しかしそ・黷ナもなお、「柘榴」にせよ「蓮根」にせよ、取り合わせの意外さを楽しむ感覚、手元で愛玩するような縮小された世界を楽しむ伝統的な感覚が本質に生きているような気がしてならないのである。たしかに面の扱い方に根付に代表される江戸の細工物とはあきらかに異なる斬新さはあるものの、である。つまり、意識の上で否定していたものに感覚的には依然として緊縛されているのである。

 近代の洋画家藤島武二は、光太郎からみれば十数年先輩に当たるが、少年の時分、郷里の鹿児島で四条派の画師について江戸の伝統を残す日本画の画技を学んだ。藤島の描いた洋画にしばしば日本画風の筆触を楽しむ様子がみえるが、感性の上で日本的なものを守った事例に光太郎を類比してよいかもしれない。まして、木彫師の家に生まれ育ったという、これ以上整いようのない………一面、強い呪縛力からおいそれとは逃れられない……環境ではやくから伝統が身につける機会に恵まれていた光太郎が、藤島以上の強固な伝統的感性を体質化させていたとしても不思議はない。

 ブロンズのあの有名な「手」(大正6年の彫刻領布会のために制作したものでそのうちの一点は有島武郎の所蔵となった)について後年、「僕のはロダンの習作とは違つて、制作なんだ。施無畏印相の手の形を逆にした構想で、東洋的な技法で、近代的な感覚を表わした。」と語っている。衆生の種々の恐怖を取り除き安心を得させるこの印相本来の意味を表現しようとしたのか、光太郎がなんらかの個人的意図を付託したのか、あるいは単純に造形的な素材としての面白さにひかれたのか、この文面から判断することはやさしくない(ちなみに有島は“虚空を指す手”と呼んでいたという)が、木彫ではなくブロンズで造られ、おそらくはそれが理由でロダン的と安易に解釈されることさえあるこの作品にも伝統が生きていることを認めなければならないのである。

 体質化した伝統的感性とロダンを通して知った西欧近代の造型に対する論理的理解の光太郎内部での相克と奇妙な共存は、光太郎の生涯や作品を非常に豊かで魅力あるものにしていると同時に、日本的文化という点ではひとつの達成点にあった江戸時代が終わったあと、伝統と西洋とのあいだをゆらめきながら歩んだこの一世紀あまりの基調に対して象徴的である。そしてそれが、光太郎を日本的近代の代表するひとりにしているのであろう。

(三重県立美術飴学芸員)

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