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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > 所蔵の萬鐵五郎

三重県立美術館所蔵の萬鐵五郎

東俊郎

 

 『木の間よりの風景』は1918年(大正7)制作の油彩作品。ひとめみれば萬以外の誰でもないそらとぼけて、ノンシャランな刻印があきらかに感じられ またそれを持続させる乾いた意志をうしなわない彼の全制作のなかで、この前後だけは、特殊な不協和音をきしませ一種独持の沈んだ表情をもつ作品がいくつかある。そのfortissimoが『かなきり声の風景』(1918年)だとすると、逆にpianissimoで声低くかたるがごとく、つぶやくがごとき例が『木の間よりの風景とか、やはり同年の『木の間より見下した町』だろう。

 

 これらの風景画は、実際にはそれにさきだつ1914年(大正3)秋から1916年初冬までのおよそ一年有半、家族とともに故郷の岩手県土沢に帰った、いわば雌伏の時期に着手されている。萬自身当時を回想して、「この時は、随分勉強した。何も見も聞きもしない。ニ科会も始まった様であったが、そんなものを見たいとも思わなかった。」とか、「ぼくは眼を開けているときは即ち絵をかいている時だ。」とかいっているように、ひたすら描くことだけが生活である環境のなかで、外界の危険におぴえて逆毛をたてる動物に似て、感激のすべてを内なる領域にむけた仕事に寧日なかったらしい。自画像がこの時期に集中するのも、モデルがみつからないというだけでないことが、臥龍をきめこむ余裕からはみだす追いつめられた意識と、たしかな支点をさがそうとする不安にみちた画面から想像できる。

 

 頼るものが自己の感性しかなく、それすら危機感にさらされているとき、そこを突破するには画家は描くしかないし、描けば描くほど迷路にはいってゆくという矛盾は、いちおう危機が通過した後それをふりかえるとき、いちばん作品に結晶しやすいというのが表現の現場の真実である。再上京後の彼の活動がそのことをあらためて確認させるので、さめてみれば夢のようだったその時代は、『木の間よりの風景』などに記録され、半透明のゼラチン質につつまれて、暗い水族館のなかの深い森にまよう魚たちも同様に不思議な燐光をはなっている。

 

 なお三重県立美術館には別に油彩で、『建物のある風景』(1910年頃)、『』(1915年)、『枯木の風景』(1924年)、素描では、『茅ヶ崎風景』(1924年頃)、『風景』(1924年頃)、『ほおづゑの人』(1924年頃)の萬鐵五郎作品が収蔵されている。

 

(ひがし しゅんろう 学芸員)

 

年報/萬鐵五郎展

作家別記事一覧:萬鐵五郎

萬鐵五郎:館蔵作品一覧

木の間よりの風景 1918年

木の間よりの風景 1918年

 

ほゝづゑの人 1924年頃

ほゝづゑの人 1924年頃

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