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美術館 > 展覧会のご案内 > 常設展(美術館のコレクション) > 2020 > 美術館のコレクション2020年度第4期第3室解説(長)

美術館のコレクション(2020年度常設展示第4期第3室)長い解説文

2021年1月5日(火)―2021年3月31日(水)
このページには常設展示室第3室「コレクション名品選」の一部の出品作品の解説(展示室には掲出していない長い解説文)を掲載しています。随時更新します。
展示室に掲出していた学芸員による短い解説文はこちら
四日市高生によるコメントはこちら

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《アレクサンドリアの聖カタリナ》
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617-1682年)は17世紀にスペインの商都セビーリャで活躍した画家で、彼の手掛けた優美な聖母像や聖女像は大変な人気を博した。殉教聖女を扱った本作もその一例である。
伝承によれば、カタリナはアレクサンドリア出身の王女で、自身の持つキリスト教への篤い信仰心のため、ローマ皇帝によって処刑された。処刑では車裂きの刑を宣告されたが、カタリナの祈りにより奇跡的に車輪が破壊されたため、最終的に斬首されたという。画面下部に描かれた車輪と剣はこのエピソードに由来する。
画面右上の天使が抱える棕櫚の枝は殉教者の栄誉のしるしである。対抗宗教改革期、命を賭して信仰を貫いた殉教聖人、聖女の英雄的な姿は一般信徒たちの信仰心を高揚させるために用いられた。本作のカタリナも、ひざまずき、手を広げて天を仰ぐ、やや大仰なポーズをとり、殉教に臨む悲劇のヒロインとして描かれている。また、強烈な明暗の対比によってドラマティックに演出された画面は見る者の胸を打ち、敬虔な信仰心を呼び起こすのである。
(坂本龍太)

マルク・シャガール《枝》
深い青を背景に白いヴェール、白いドレスを身に着けた女性が、男性を抱きかかえるようにして宙に浮かんでいる。2人の上に生い茂るのは、赤い花が咲き乱れ、鳥たちが留まる木の枝。画面左上で輝く太陽は赤、白、黄で彩られ、笛を吹く人の横顔や動物の輪郭がうっすらと描かれる。画面右下では大ぶりの花束が花瓶に生けられている。
その他のモチーフは、すべて青の諧調のなかに沈んでいる。画面左手にはエッフェル塔がそびえ、浮遊する男女の足元にはセーヌ川が流れる。川に架かるのは、石造りのアーチを持つ橋ポン・ヌフ。男女の周りでは2人の人物が飛び交い、画面に動きをもたらしている。
ヴィテブスク(帝政ロシア/現ベラルーシ)生まれのシャガールは20代前半の頃パリを訪れ、以降中断を挟みながらも第二次世界大戦前までこの都市を活動の拠点とした。本作では、他のシャガール作品と同様、故郷ロシアを思い起こさせる家畜等のモチーフと、パリのランドマークが渾然一体となって夢幻的な世界が展開される。
背景の青色の濃淡や色味は実に多様である。油絵具が丹念に塗り重ねられながらも、透明度を失わず柔らかな煌きを内包する描写には、絵具の扱いに長けた画家の技量が惜しみなく発揮されている。
この独特の青の表現については、1950年代からシャガールが制作し始めたステンドグラスによる影響が大きいと考えられている。1952年、彼は「シャルトル・ブルー」のステンドグラスで名高いシャルトル大聖堂を訪れ、その荘厳さに感銘を受けたという。シャガール自身は、ステンドグラスの素材は光そのものであり、光にこそ創造があると語っている。
本作は、当館の開館に先立つ1981年に財団法人岡田文化財団(現在は公益財団法人)から寄贈を受けた作品。以来、当館コレクションの「顔」であり続けている。
(鈴村麻里子)

アントニオ・フォンタネージ《沼の落日》
明治新政府が成立すると、政府は日本の近代化を推し進めるため、官公庁や学校に西欧から指導者を招いた。彼らは「お雇い外国人」と呼ばれ、1874年には800人を超える人数が日本に滞在していたといわれる。日本初の美術学校である工部美術学校の開校に際しては、諸芸に優れたイタリアから教師を招へいすることが決まり、1876年には画家カペレッティ、彫刻家ラグーザとともにフォンタネージが来日した。
フォンタネージは遠近画法、人物画法、風景画法を講義し、生徒は手本デッサンやフォンタネージが将来した版画、人形を用いて西洋画を学んだ。フォンタネージは1878年には脚気の悪化などによって帰国したため、日本滞在はわずか2年程であった。しかし、短い期間ながら、その優れた技術、品性によって教え子たちから厚い信頼を得たという。 本作は、夕暮れ時の沼のほとりを描いたもの。樹木の影に落ちつつある日の光を受けて、雲や水面がオレンジ色に照り輝く。雲や水面が複雑な表情を見せる一方、沼にとまる小舟や船頭、水辺にたたずむ二人の人物は影となって描かれており、事物の明暗表現と、それによって画面に与えられる感傷的な趣に主眼があることが見てとれる。
本作の隅には、「A.Fontanesi Tokio 29 Au□□」のサインがあり、本作は東京滞在中に描かれたことが明らかである。明治期の日本人が見ることができた、数少ないフォンタネージの油彩画のひとつ。
(髙曽由子)

久米桂一郎《秋景下図》
青空の下の川辺を描いた作品。画面左半ばから右下にかけて細い川が流れている。右手は土手のように盛り上がり、赤茶色に色づいた低木や樹木が並ぶ。人の姿は描かれないが、川にかけられた木の橋は、近くに暮らす人の存在をうかがわせる。全体に目の粗いキャンバス地に細かい筆致で描かれており、明るい色彩と対象の観察に基づく堅実な描写には、黒田清輝とともにラファエル・コランに学んだフランス留学時代の成果が見てとれる。
本作は、同年に制作された《秋景》(久米美術館蔵)の下絵(久米美術館ウェブサイトはこちら)。《秋景》では本作を下敷きに、ここに芝刈りをする女性や、民家を描き加えている。現在久米美術館には別の下図も所蔵されており、久米が風景と人物像の油彩下図を用意し、これを組み合わせて《秋景》を制作した過程を知ることができる。
本作画面左隅のサインはこの下図が1895年2月に制作されたことを示しており、本作が現在の作品名の通り、秋の風景を描いたものかという問題には検討の余地がある。また、同時期の久米の日記は残されておらず、本作の制作について詳細はつかみがたい。《秋景》(久米美術館蔵)は、フレームに付されたプレートより1900年パリ万国博覧会出品作であると考えられており、久米が出品した3点(「東京附近ノ冬夕」、「残曛」、「十月ノ陽光」)のうち「東京附近ノ冬夕」に該当する可能性が指摘されている。
久米逝去の翌年、1935年の光風会展(美術館)にて一連の作品が「秋景」および「秋景(下図)」の名で出品され、現在に至っている。
(髙曽由子)

鹿子木孟郎《津の停車場(春子)》
和服姿の女性が陸橋の上に立ち、線路や脇に立つ小屋、さらには遠くに広がる景色を眺めている。遠景には、煙を吐き出しそびえる煙突が描かれていることも確認できる。鉄道や工場といったモチーフは、都市の近代化や近郊へのレジャーや産業の広がりを表象するものとして、マネやモネなど19世紀後半のフランスの画家たちが描いたことが知られている。鹿子木がこの作品の中で日本の近代化を描出しようとしたかどうかはわからない。むしろ、遠くまでのびた線路に自らの人生を重ね合わせ、広がりゆく未来への期待を込めたのではないだろうか。うしろ姿の女性は、新婚の妻、春子である。鹿子木は当時、三重県尋常中学校に図画教諭として赴任中で、この絵を描いた翌年に埼玉の学校へ転任、1900年から約4年間、最初の欧米留学を果たした。人生というレールの、まさにすべり出しの時期に描かれた、みずみずしさをそなえた作品である。
(原舞子)
 
岸田劉生《麦二三寸》
うすい雲の流れる青空の下、金色に輝く麦畑には、青い麦が芽吹き始めている。早春の穏やかな農村風景は、地平線に緩やかな勾配のあぜ道が交わることで、一層広々として見える。この広漠とした風景を引き締めているのは、あぜ道に立つ少女の着た和服の赤色である。
この少女は、作者である岸田劉生(1891-1929年)の娘であり、劉生の有名な作品《麗子》に描かれた少女である。劉生は、1916年に体調を崩して結核と診断され、翌年、幼い麗子を連れて、神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘に転居した。劉生の日記によれば、療養生活の中、麗子や静物画を室内で描き、晴れた日、体調が良ければ写生に出かけ、近くの風景を描いた。本作品の風景は、貸別荘の前から北向きの風景であるが、劉生は気に入ったようで、視点や季節を変えながら、くり返し描いている。
本作品は、1920年2月17日に描き始められ、当日の日記には「紫にかすむ空と林の木等素敵」と書かれている。3月11日には、この風景に麗子を描き加えようと、麗子を連れて写生に出かけ、その5日後に作品が完成した。完成間近になって、赤い和服を着た麗子を描き加えたのには、枯れ草と土の色に鮮やかさを与えようという画家の意図に加え、愛娘、麗子を描きたいという父親としての愛情があったように思われる。
(村上敬)
 
古賀春江《煙火》
仄明るい赤みがかった闇夜にぽっかりと浮かぶ花火。打ち上げの音や都会の喧騒ははるか彼方に消え、ストップモーションのような光景が、見る人を音のない世界へと誘う。混沌とした闇のなかでぼうっと光る建物や赤提灯は、ひとけのない幻想的な情景に温かみを添えている。
本作品は、1927(昭和2)年第14回二科展に出品された同題の作品と、色調やモチーフ等に多くの共通点を見いだすことができる。二科展出品作の《煙火》は文豪・川端康成が愛蔵していたことで知られる。具象的なモチーフが明確な形を成している川端旧蔵作品に対し、当館所蔵品の個々のモチーフはいまだ形成の途上にあり、混沌のなかに漂っているかのようだ。より夢幻的な光景とも言えるかもしれない。
川端旧蔵作品が古くから比較的世間の目に触れる機会に恵まれていたのに対し、当館が所蔵する《煙火》は長らく忘れられた存在であった。県内のコレクターが所蔵していた本作が当館のコレクションに加わったのは1995年のことである。
古賀は、川端コレクションの《煙火》に次のような解題詩を寄せている。
境界もない真つ黒い夜の空間に/パツと咲く花火/昔の如く静かに/物語の王者の如く高貴に華々しく/煙火は萬物を蘇らせる/流れる光 音のない静かな嵐/混溷としたる現実にカッキリと引く一本の白線/人はその上を捗りたがる/人はみな逆さになつて煙火を見てゐる/絞のある紫紺の羽の大きな蝶になつて/
(鈴村麻里子)

福沢一郎《劇の一幕(コメディー・フランセーズ)》
福沢一郎は、1924年から1931年まで、実家からの仕送りを得てフランス留学に赴いた。留学前には朝倉文夫のもと彫刻を学んでいたが、留学を機に絵画に傾倒し、留学後半期にはシュルレアリスムの手法を用いた絵画制作を始める。 本作は福沢の画業最初期の作品。フランスの代表的な劇団であるコメディー・フランセーズの劇の一幕を描く。赤い幕がかかった舞台で、男女が劇を演じており、人物の服装から、古典劇の一幕であろう。奥には馬や井戸、樹木も見えるが、全体に荒く大まかな筆致で描かれていることもあり、背景画(書き割り)と実際の舞台装置との区別はつきがたい。
画面左下に「-24 / コメディフランセーズ FUKUZ.」、右上に「Fouk.-27」の2つのサインがあり、1924年から1927年頃に制作されたことが明らかである。
福沢はのちに留学中に目にしたフランスの文化について、「クラシックといゝ現代美術と言いゝ、消化できないほどの質量が、私にのしかゝってきた」と回顧している。フランスの代表的な劇場での観劇の体験も、画家を大きく刺激しただろう。同時期に同じく演劇の様子を描いた作品として「ドンキホーテ・オペラコミック」(1924年、個人蔵)の存在が知られる。
(髙曽由子)

佐伯祐三《サンタンヌ教会》  
曲がりくねった道の左右に、白い壁の建物が立ち並ぶ。画面の奥にそびえるのは大きなドームを冠する教会。教会の周囲には人影も見える。季節は冬だろう。どんよりとした空には雲が垂れ込め、建物の煙突からは煙がたなびいている。白から青みがかった黒への統一感のある諧調のなかで目を引くのは、わずかに用いられたレンガ色。絵画表面には絵具を勢いよく削りとったあとや、投げつけられた絵具の塊等、作者の格闘の痕跡も残る。
描かれた「サンタンヌ教会」はフランス・パリ13区のビュット=オ=カイユ地区に建つ教会。本作は、教会を後陣の方から捉えており、手前から奥に向かう道がミシャル通り、教会の手前でミシャル通りと丁字路を構成するのがマルタン・ベルナール通りである。ドームの傍らに見えるのは、教会正面の扉口左右に建つ2本の塔。現地で撮影された写真と比較すれば、絵画化にあたり、実はまっすぐのミシャル通りがジグザグに歪み、教会の小さなドームが空を覆う大きさにまで膨らんでいることが分かる。
作者の佐伯祐三は、1923年に東京美術学校を卒業した後、ヨーロッパに向けて出港。19241月にフランスの地を踏んだ。1926年にはいったん帰国し、翌年再渡仏を果たしている。本作が描かれた1928年、佐伯は精力的にパリの街並みを描いていたが、悪天候下の戸外制作が引き金となり体調が悪化。同年8月にパリ近郊の病院で30歳の生涯を閉じた。
(鈴村麻里子)

藤島武二《大王岬に打ち寄せる怒濤》
波がうねり、押し寄せる海。朝日を受けて金色に輝く雲。険しい岩壁の間から、いままさに日の出を迎えた大王崎(三重県志摩市)の海を描いた絵である。岩壁の間から水平線がのぞく構図が画面に奥行きと臨場感を与え、ところどころに描きこまれた松や帆船が海の壮大さを引き立てる。落ち着いた色彩は日本の朝の湿潤な大気を巧みにとらえ、のびやかでありながら計算された筆のタッチには、「細部にとらわれずに本質をつかむ」ことを重んじた画家の巧みな手腕がみてとれる。
本作は、東京美術学校教授であり、洋画界の権威であった藤島武二(1867-1943)が志摩半島を旅して描いたうちの一枚。1928年に皇太后より昭和天皇の御学問所に飾る油絵の制作を任された藤島は、「日の出」を画題にすることを決め、以降10年にわたって理想の風景を求めて各地を旅した。荒波の伊勢湾にさす日の光が、新たな時代の到来を象徴する。藤島壮年期の代表作の一つである。
 (髙曽由子)

森芳雄《大根など》
わずかに葉ののこった大根と変色した輪切りの大根、買い物かごが、それぞれ水平に、重ならないように配されている。注意深く見ていくと、真ん中の野菜にのみ濃い影が伸びていることに気づく。また、野菜などを入れる買い物かごはその用途に反して小さく、真ん中の輪切りの野菜は大きく捉えられているようだ。絵画化されそうにないありきたりなモチーフや構図など、我々がよく知る静物画とは異なる印象を観る者に与える作品である。画家はなぜ、大根や買い物かごを見つめ、描いたのか。
作者の森芳雄は、重厚で精神性あふれる人物画で高く評価される洋画家。その人物像からは、時代を告発するかのような悲痛な呟きが聞こえる、とも評される。本作は、1942年、太平洋戦争がはじまった翌年に描かれた。人物を描いた作品同様、この静物画は時代状況に対する画家の想いが込められた作品であるといえるだろう。戦争とは対極にある身近な野菜、配給の大根やかばんが、静かに、けれども力強くその存在を示している。
1945年4月、恵比寿にあった森芳雄のアトリエは空襲で焼け、戦前の作品はその大半が失われた。この作品は、丸めた状態で持ち出され、戦災による消失を免れたという。戦争中、森が何を見、何を描いたかを伝える数少ない作品でもある。「Y.Mori」あるいは「Yoshio Mori」だったサインも、ひらがなへの変更を余儀なくされた。何気なく記された「よ」の文字もまた、抗いようのない当時の情勢を今に伝える。
(道田美貴)

最終更新:2021年1月14日
 
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