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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 大正の洋画 東俊郎 三重県立美術館所蔵作品選集

大正の洋画

たとえば夏目漱石は「漢文」をすてて「英文学」を選び、その延長線で小説をかきだした。おなじことを福沢諭吉は「脱亞入歐」と呼んだが、それは対外的な国家目標であることをこえて、すでにそこに漲っていた、ある意味では若々しかった社会に共通する空気を、巧みにとらえた言葉にすぎなかった。その空気を後世は明治の精神とよんでいる。そしてこの明治の精神は、日清戦争をへて、日露戦争の勝利でいちはやい頂点に達することになった。これは別のことばでいえば、極東「アジア」における「ヨーロッパ」の一応の完成ということもできるだろう。そしてそれなら明治につづく大正は、そんな小さな達成にみあう成熟期にあたった。明治も終わりにちかい1910年に創刊された雜誌『白樺』に結集した感性は、その変化を先取りして、おおきな影響を大正の日本にあたえることになった。さしあたりゴッホが象徴する天才信仰とか、ロダン(1840-1917)に追従した高村光太郎(1883- 1956)かたる「内的生命の表出」讃美があげられる。村山槐多(1901-1919)〔12〕 〔21〕や関根正二(1899-1919) 〔16〕はまさにこんな時代の空気を多感にうけとめながら画家をめざすことになった。そしてこの天才信仰はまた夭折神話とむすびついて時代を彩っていたこともわすれられない。二十歳たらずで亡くなった村山槐多や関根正二だけがこの神話を生きたわけではなく、萬鐵五郎(1885-1927)[17]も中村彜(1887-1924)[14][15]も小出楢重(1887-1931)〔19〕も岸田劉生(1891-1929)〔13〕〔18〕も前田寛治(1896-1930)〔20〕 [28]もと、大正の美術史に輝く才能は未完の仕事を惜しまれながら、昭和初期までにそろって早すぎる晩年を終えている。結核で亡くなることは珍しいことではなかった。《髑髏のある静物》〔14〕を描いた中村彜は、やがてくるはずの死と対話することで画境をふかめ、岸田は死の宣告を受けたと信じてはじめて絵を描く自分を許している。また関根の初期作品にも《死を思う日》(1915)があるし、そもそもかれらの「生命主義」なるものが、死の意識と深くむすびついていたのはいうまでもない。まず造型のいろはを覚えて、それからゆっくりと好きなせかいを描くというためには、かれらはあまりにも性急で余裕がなさすぎた。そのゆとりがない分だけ社会には同調できず、むしろ敵対して、しかしそれは「藝術」を理解できない俗世間のせいだとかんがえたがった。けれど逆からみれば、現在にいたる藝術の大衆化が、当人たちの意に反して、この時代からはじまったということでもある。

第一次世界大戦による好況と戦後ヨーロッパの為替変動によって、それまで以上に画家たちのフランスを中心とする洋行が可能になった。官命を帯びて渡欧した明治の洋画家たちと意識もちがってくるようになる。1921年、たまたま同じ船に乗りあわせた小出楢重と坂本繁二郎(1882-1969)[35]がそのいい例で、坂本のばあいは私淑するコローを十二分に堪能できればそれでよかったのだし、小出にいたっては、パリの空気を一口吸ってあとは不要と帰ってきたようなものだった。いっぽう1923年にパリに到着した前田寛治の姿勢はもうすこし生真面目なものになった。大正の日本の天才たちが軽視しがちなフォルムのもんだいが西洋絵画史をつらぬく大道であることに、あらためて注目した前田は、以後「写実」という言葉によりつつ、粘り強く地道な探求をすすめている。帰国後の制作とされる《赤い帽子の少女》〔28]も、この試みのひとつとみていい。まだできあがっていないような荒削りの印象のどこが「写実」かといわれそうだが、これはこれで壊れることのないかたまりをみごとにとらえている。手足をもがれ色が剥落してもなおそこにのこるもの。そんな前田のかんがえるレアリスムの骨法は、1928年の第15回二科展に出品した長谷川利行(1891-1940)への批評をみればもうすこしはっきりする。「敢て缺點丈けを云ふならば長谷川利行氏のものは全部を白熱化させやうとする彩色が白熱化させる物質の存在を無視してゐる爲に實在性を失つて外光派形態に傾いてゐる。あの畫面中一尺四方でよいから物質そのものゝ觸感をはめ込まなければならないと思ふ。」と語る前田がもっとも大切にしているのは「物質の存在」としての量感なのだが、それにともなう「物質そのものゝ觸感」という言葉などは、なんだか岸田劉生がいってもおかしくないのが又おもしろい。

(東俊郎)




{12]村山槐多《信州風景》1917(大正6)年


{13]岸田劉生《照子素画》1919(大正8)年


{14]中村彜《髑髏のある静物》1923(大正12)年


{15]中村彜《婦人像》1922(大正11)年頃

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