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美術館 > 展覧会のご案内 > 常設展(美術館のコレクション) > 2020 > 美術館のコレクション  作品リスト

美術館のコレクション(2020年度常設展示第2期第3室) 長い解説文

2020年6月30日(火)-9月22日(火・祝)
このページには常設展示室第3室「滋賀県立近代美術館と三重県立美術館の西洋美術コレクションから」の出品作品解説(展示室には掲出していない長い解説文)を掲載しています。
展示室に掲出していた短い解説文はこちら
出品作品リストはこちら
 
クロード・モネ《橋から見たアルジャントゥイユの泊地》
黄昏時、金色の薄明かりが辺り一帯をすっぽりと包み込む。画面左上では太陽が紫色の雲間から覗き、その光が川面にきらきらと反射する。使用されている色数は決して多くないが、水気の多いクリーム色、かすれた暗緑色や赤紫色の絵具が、混色されないままカンヴァス上に素早いタッチで並置されている。
普仏戦争とパリ=コミューンの後、フランスに戻ったモネは、1871年の暮れにセーヌ河畔のアルジャントゥイユに居を構えた。本作はセーヌ川にかかる道路橋の上から南西の方角を向き船の停泊地を描いたもの。この付近は川幅が広く流れがまっすぐで、夏にはしばしばヨットレースの会場となったという。画面右下に描かれる箱型の建物は貸しボート小屋。モネが画家シャルル=フランソワ・ドービニーから影響を受け、水上での制作時に使用していたアトリエ船(小屋を取り付けた船)もボート小屋の近くに浮かんでいる。アトリエ船の近くには人影も見える。
本作が描かれた1874年、画家は志を同じくする仲間と初夏にパリでグループ展(いわゆる「第1回印象派展」)を開催。モネの型にはまらない筆さばきは一部の批評家より酷評を浴びたが、同年夏に描かれた本作において、その筆遣いはいっそう自由闊達なものとなっている。
 
クロード・モネ《ラ・ロシュブロンドの村(夕暮れの印象)》
1889年2月、モネは友人のギュスターヴ・ジェフロワに誘われ、フレスリーヌのクルーズ渓谷に住む詩人・音楽家のモーリス・ロリナを訪ねた。風景に魅せられたモネは、いちど自宅に戻った後、同年3月初めに再びこの地を訪れる。悪天候で制作が思うように捗らず、画家は当初の予定より滞在期間を延ばして5月半ばまでこの地に逗留した。滞在中、モネは後に妻となるアリスに、天候がひどく絵が暗いことに加え、今回の連作が陰鬱なものになりそうだと書き送っている。
画面いっぱいに描かれた、視界を遮る大きな丘。丘の上にたなびく雲はその下部を赤く染めており、少し前に夕日が丘の向こうに沈んでいったことを物語る。逆光で暗く沈んだ丘の稜線を辿れば、丘の上に建つ家々のシルエットを認められるだろう。さらに注視すれば、画面右下には風に揺れる木や、草花も確認できる。それらに気づかなければ、巨大な岩山が立ちはだかっているような錯覚を起こさせる、スケール感を掴みにくい描写である。逆光と閉鎖的な空間を活かして、色彩画家モネは、暗紅色と暗緑色を画面上で巧みに共存させ、補色の効果によりニュアンスに富んだ山肌を描き出している。
 
ピエール・ボナール《ヴェルノンのセーヌ川》
ボナールは、この絵が描かれた年の夏、フランス北西部ノルマンディー地方ヴェルノンに家を購入し「マ・ルーロット(私の幌馬車)」と名付けた。描かれているのは、恐らく、その裏庭付近から眺めた景色である。上流に7kmほど向かえばクロード・モネが住んだジヴェルニーの庭があり、この大画家が1926年に亡くなるまで親密な交流があった。
この作品が描かれた1912年と言えば、キュビスムの絵画が公にされて1年が過ぎ、カンディンスキーが抽象絵画を創姶した頃である。めまぐるしく展開する前衛美術の諸運動を尻目に、ボナールはこの頃から、自宅や滞在先のホテル周辺の身近な景色を主題にした風景画の制作に力を入れるようになる。 19世紀末、ゴーギャンや日本美術に影響を受け、ナビ派の一員としてデビューした本画家は、 20世紀初頭になって印象派を再発見し、 「遅れてきた印象派」と呼ばれた。
印象派との出会い以後、ボナールは、風景からインスピレーションを受けたその瞬間の感動を再現することを目指しつつ、装飾画としてふさわしい色と構成の追求を続け、後年には両者を統合させたような画面を生み出す。本作品では、即興的な筆致で随所に置かれた銀灰色の色斑が、川面や枝葉に反射する陽光の眩しさを伝えている一方で、霞む山並みを表現したパステル調のブルーや、木々の陰影に施されたブラックには、自由で独特な色彩感覚が発揮されている。画家が新しい探求の端緒に着いた頃の、小ぶりながら見飽きることのない一点である。
(貴家映子「ピエール・ボナール《ヴェルノンのセーヌ川》(表紙作品解説)」『友の会だより』103号、2017年3月号、裏表紙より一部抜粋して転載)
 
ラウル・デュフィ《黒い貨物船と虹》
デュフィは最晩年にあたる1946年から1953年にかけて黒い貨物船を繰り返し描いている。
1970年代刊行のカタログ・レゾネ(作品総目録)に掲載されている絵画だけでもその数は20点に上る。本作の舞台はデュフィの故郷ル・アーヴルに近いサン=タドレスの浜辺。左手には先端に灯台の建つル・アーヴルの長い突堤を描き、右手にカジノのマリー=クリスティーヌを中心とした建物を描く構図もデュフィがしばしば採用したもの。浜辺には水浴する人(あるいは海の精)や、小エビ漁のための網が描かれている。
黒い貨物船の連作では、多くの作品で貨物船が漆黒の闇のなかにある。一枚の画面上で空の色が大胆に塗り替えられている作例も多く、異時同図のような効果を生んでいる。本作では画面の左側で雨が降り、右側の空には虹が架かる。
画面中央に大きく描かれる貨物船は、黒い絵具層(実際には濃紺に近い色調)をひっかき、下の白い層を露出させることで輪郭が表されている。その絵具層の上には、ところどころに白いとろりとした絵具が置かれ、波や雲が描かれる。
批評家のピエール・クルティオンによれば、「彼[デュフィ]は私たちが太陽を見る時に体験する眩しさを黒色によって表現することを目指した」という。この黒い貨物船シリーズには、闇の色彩としてでなく光の色彩として黒の可能性を見出そうとする画家の探求心が表れている。
本作は、ジョルジュ・ルオー《キリスト磔刑》と同様、洋画家・原精一の旧蔵作品である。

ジョルジュ・ルオー《キリスト磔刑》
死刑判決を受けたイエス・キリストは、二人の罪人とともにゴルゴタの丘で十字架に架けられた。磔刑はキリストの生涯における最も重要かつ劇的な場面の一つであり、キリストが自らの死によって人類の罪をあがない、救済に導くことを端的に表す場面でもある。古来、磔刑図には、十字架上のキリストの他に、聖母マリアと使徒ヨハネ、マグダラのマリア、兵士、太陽と月等が描かれてきた。
ルオーによる本作では、画面いっぱいに描かれた十字架上で円光を戴いたキリストが頭を垂れる。ルオーの他の磔刑図と比較すれば、十字架の左側でひざまずくのがマグダラのマリア、右側に立つのが聖母マリア、使徒ヨハネであると分かる。磔刑という場面の物語性が極力排除された、祈念画的な性格を有する絵画である。
ルオー作品の造形を語る際、よく引き合いに出されるのが、若い頃のステンドグラス工房での修行経験である。本作品でも、黒々とした太い輪郭線がその内側の不透明で鮮やかな白や黄色の輝かしさを際立たせており、黒い鉛のリムによって彩色ガラスが結合されるステンドグラスの造形を想起させる。
本作は、当館とも関わりの深い洋画家・原精一の旧蔵作品である。
 
パブロ・ピカソ《ロマの女》
海沿いの道の脇で、ピンク色のスカーフをまとった女性が、背中を丸め、膝を抱えて海を見つみつめている。女性の腕の中にいるのは赤ん坊だろうか。
舞台はスペインのバルセロナ。後景に見えるミントグリーンの壁の建物はムンジュイックの丘の麓に建つ居酒屋「ラ・ムスクレーラ」(ムール貝屋)。ピカソのアトリエから見える場所にあり、友人たちと連れ立ってピカソも通ったという。波打つ屋根と不揃いな窓が印象的なこの建物は、ピカソの同時期の別の油彩画にも登場する。屋根の上の煙突からは、上空に向かってまっすぐに白い煙が上がる。店先には、赤いスカート、黒い上衣の人物の姿が見える。
画面右手にはオレンジ色の海岸が描かれる。この岩石海岸も、ピカソの他の作品に登場するモチーフ。海は穏やかであるが、ところどころに真白な波が立っている。水色の空には発達した白い雲が、目の覚めるような紺碧の海には大型船が浮かぶ。鮮やかな色彩にもかかわらず、顔に深い陰影を施された女性からは哀愁が漂い、画面を感傷的なものにしている。
本作の原題は「ラ・ムスクレーラの前のロマの女」であり、1901年に開催されたパリのヴォラール画廊での個展には「ムンジュイック」として出品された。現在のタイトルにもある「ロマ」とはかつて「ジプシー」とも呼ばれ差別や迫害の対象となった、北インド方面からヨーロッパに移住した人々。
ピカソが本作を描いたのは10代の終わり。描かれた1900年は、ピカソが友人とパリ行きを敢行し、大きな転機を迎えた年である。画面右下の署名「P. Ruiz Picasso」には、父方の姓ルイスと母方の姓ピカソが併記されている。当館の開館10周年の節目に、発足30年を迎えた三重県企業庁から寄託を受けた作品。
 
サルバドール・ダリ《パッラーディオのタリア柱廊》
1936年に勃発したスペイン内乱の戦禍を逃れるため、サルバドール・ダリはシュルレアリストたちの支援者であったイギリスの詩人エドワード・ジェイムズを頼り、パートナーのガラとともにイタリアを訪れた。2人は各地を巡り、イタリア美術の実見を重ねる。
本作の着想源となったのは、その折に目にした16世紀イタリアの建築家アンドレーア・パッラーディオの設計による、ヴィチェンツァの劇場テアトロ・オリンピコ。とりわけ直接的な影響が感じられるのは、パッラーディオの死後、設計を引き継いだ弟子スカモッツィの手になる、同劇場舞台の開口部奥に広がる「だまし絵」ならぬ「だまし建築」的な空間デザインだろう。奥に進むほど幅が狭まるこの開口部は、実際には数メートルしかない奥行きを、深く見せることに成功している。テーバイの街を表したという路地には人体をかたどった彫刻が立ち並び、奥へ奥へと観客の視線を誘い込む。 
本作では、舞台美術で応用された線遠近法が、再び二次元上に戻って駆使されている。画家の企みに目を委ねてみれば、消失点まで一気に視線が引き込まれるのを体感できるのではないだろうか。肉付けの施されていない亡霊のような人物像の並ぶ長い通りを抜けると、その先で少女が一人、縄跳びをしながら光の射す空間を駆け抜けている。
 
アントニ・タピエス《ひび割れた黒と白い十字》
画面に近づけばすぐ見てとれるように、左上の十字をはじめとするいくつかの線や点は、厚みのある黒の層をえぐったものだ。
通常の絵であれば、画布や板、紙といった支持体は、描かれたイメージの背後で消え去っていくはずだろう。ところがここでは、堅さと厚みをもっておのが存在を主張している。それに対し、暴力的といえなくもない身振りが介入したわけだ。
ただ、形のない物質を、粘土のように自在にこねくりまわしたというには、感触は抵抗を感じさせる。全面を覆う斑点はやはり描かれたのではなく、塗料をはじくことで生じたらしい。これは、黒の層が何よりも、抵抗感のある平らなひろがりとして成立したことを物語っている。
どんな形でもとれたであろう物質が、いったん自らを平面に制限する。それでいて両脇等の割れ目がしめすように、内圧も抑えきれない。そこから、ある種の寡黙さとでも呼べよう表情が生じたのではないだろうか。 
(石崎勝基「アントニ・タピエス《ひび割れた黒と白い十字》(作品解説)」『三重県立美術館所蔵作品選集』、三重県立美術館、2003年、82頁より転載)
 
マルク・シャガール《枝》
深い青を背景に白いヴェール、白いドレスを身に着けた女性が、男性を抱きかかえるようにして宙に浮かんでいる。二人の上に生い茂るのは、赤い花が咲き乱れ、鳥たちが留まる木の枝。画面左上で輝く太陽は赤、白、黄で彩られ、笛を吹く人の横顔や動物の輪郭がうっすらと描かれる。画面右下では大ぶりの花束が花瓶に生けられている。
その他のモチーフは、すべて青の諧調のなかに沈んでいる。画面左手にはエッフェル塔がそびえ、浮遊する男女の足元にはセーヌ川が流れる。川に架かるのは、石造りのアーチを持つ橋ポン・ヌフ。男女の周りでは2人の人物が飛び交い、画面に動きをもたらしている。
ヴィテブスク(帝政ロシア/現ベラルーシ)生まれのシャガールは20代前半の頃パリを訪れ、以降中断を挟みながらも第二次世界大戦前までこの都市を活動の拠点とした。本作では、他のシャガール作品と同様、故郷ロシアを思い起こさせる家畜等のモチーフと、パリのランドマークが渾然一体となって夢幻的な世界が展開される。
背景の青色の濃淡や色味は実に多様である。油絵具が丹念に塗り重ねられながらも、透明度を失わず柔らかな煌きを内包する描写には、絵具の扱いに長けた画家の技量が惜しみなく発揮されている。
この独特の青の表現については、1950年代からシャガールが制作し始めたステンドグラスによる影響が大きいと考えられている。1952年、彼は「シャルトル・ブルー」のステンドグラスで名高いシャルトル大聖堂を訪れ、その荘厳さに感銘を受けたという。シャガール自身は、ステンドグラスの素材は光そのものであり、光にこそ創造があると語っている。
本作は、当館の開館に先立つ1981年に財団法人岡田文化財団(現在は公益財団法人)から寄贈を受けた作品。以来、当館コレクションの「顔」であり続けている。 

パブロ・ピカソによる『聖マトレル』(マックス・ジャコブ著)挿絵
この連作は、ピカソがカダケス滞在中の1910年8月から制作し、同年秋にパリで完成させたもの。対象を幾何学的に細分化する分析的キュビスムの様式によるエッチング(腐蝕銅版画)作品で、書籍の挿絵にキュビスムが導入された初めての作例である。画商ダニエル・カーンワイラーがこの豪華本の企画・編集を担当し、ピカソに挿絵制作を依頼した。
詩人マックス・ジャコブは1909年に自身が見神を体験し、キリスト教に改宗した経験を踏まえて『聖マトレル』を執筆。物語では、パリに住む貧しい主人公ヴィクトール・マトレルが移り気な恋人レオニーに翻弄され、聖テレサ修道院での様々な幻視体験の後、その生涯を閉じる。
ピカソによる版画は、挿絵でありながら文章の細部を説明するという機能は果たしておらず、描かれたイメージとテクストも容易には結び付けがたい。例えば《長椅子に座るレオニー嬢》は銅板の裏側に「聖マトレル、レオニー嬢」と刻まれていることからレオニーを描いたものと見なされている。ところが、挿絵の挿入箇所は主人公が精霊と対話する場面であり、テクストにはレオニーの姿は登場しない。《テーブル》や《僧院》もこの時期のキュビスム絵画の語彙に慣れていなければ、それぞれ何が描かれているのか判別するのは極めて難しいと言えるだろう。
 
※執筆者名の書かれていない解説文はすべて鈴村麻里子(三重県立美術館学芸員)による。
最終更新:2020年7月2日
ページID:000239941