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メリヨン《プチ・ポン》 ワークシート

シャルル・メリヨン
Charles Meryon
プチ・ポン
Le Petit Pont
1850年
エッチング、ドライポイント・紙
26.3×18.5cm

メリヨン《プチ・ポン》 ワークシート

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作家解説

 

シャルル・メリヨン
Charles Meryon
(パリ 1821 - サン=モーリス 1868)

 

 メリヨンは1821年11月23日パリで、イギリス人の医師とオペラ座バレエ団の踊り子との間に生まれた。37年には海軍兵学校に入学、39年から46年にかけて軍艦でニュージーランド、ブラジル、タヒチその他の各地を訪れている。その間多くの素描を手がけた。48年に退役後、ウジェーヌ・ブレリ(1805-1887)に銅版画を学ぶ。レイニエ・ノームス、通称ゼーマン(1623頃-1664)などの模刻を経て、1850年から54年にかけて最初のオリジナル版画《プチ・ポン》を始めとした連作『パリの銅版画』にとり組む。しかし50年代なかば頃から被害妄想など不安定な精神状態を示すようになり、58年5月から翌年8月までシャラントンの精神科病院に入院した。退院後も制作活動を続けるが、1866年10月には再入院、68年2月14日同地で永眠する。

 

 メリヨンの作品の多くは街景図なり建築画の伝統から大きくはずれるものではない。ただそこでは、銅版画の特性を活かした硬質な描写と明暗の鋭い対比によってきわめて集中性の高い緊張感が生じている。刷りを重ねる際メリヨンはしばしば変更を加えたが、それが時に幻視の相を呈することもあった点、くわえてノートル=ダム教会を焦点としたシテ島、それもセーヌ川の岸辺からの景観にしばしば固執した点とあわせ、この緊迫感をメリヨンのいわゆる狂気と結びつけたくなるのも禁じえないところではあるだろう。その是非はさておき、そうした特性は同時代のロマン主義や写実主義といった動きにおさまるものではない。他方、ナポレオン3世治下、セーヌ県知事オスマンの改造(1852-1870)によって中世以来の姿から近代都市へと大きく変貌しようとしていたパリの転変と、メリヨンの画面がたたえる雰囲気とは決して無縁のものではあるまい。実際プチ・ポンやノートル=ダム給水塔はメリヨンが描いてしばらく後にとり壊された。メリヨンの作品においては、パリが積み重ねてきた歴史の痕跡と未来の予兆とが交差しているといえるかもしれない。その交差点に、画面の小ささを感じさせない荘厳さを帯びたパリの肖像が浮かびあがる。

作品解説

 

◆プチ・ポン Le Petit Pont

 

 プチ・ポンはその名のとおり小さな橋だが、すでに古代以来この地には橋が渡されてきたという。メリヨンが描いたのは1718年の火災後、翌19年に再建されたものである。本構図にはカメラ・ルキダ(またはルシダ:鏡ないしプリズムを用いて景観を正確な遠近でトレースするための器具)を用いて写生した素描が残されており、そこではノートル=ダムの2つの塔はより低い。実際川辺からでは完成作のように塔がそびえて見えることはなく、川縁からの視点と土手を登った位置からの視点が組みあわされていると1863年にフィリップ・ビュルティが指摘していた。しかしそのため、マルシェ=ヌフ河岸のアパートから右奥のオテル=デュー(市民病院)への後退は黒々とそびえる塔によってせきとめられ、明暗の対比と相まって強い緊張感がもたらされることになる。この緊張感はさらに、平行するのみで交差することのないハッチング(線影)によって面としての張りを獲得している。

 

 また街景図や建築画で大きさの尺度を示すために人物を描きこむのは常套手段だが、この小さな画面では50人以上を数えることができる。数の多さと逆光によって匿名化されたさまは、画面をひそかなざわめきで浸す一方、集合的な存在としての都市のあり方を感じさせることだろう。ポーの「群衆の人」(1840)やボードレールの一連の「巴里風景」(-1861)を思い起こすことができるかもしれない。

 

 なおボードレールの1860年1月8日づけのある手紙には、河岸の横壁に映っている影が「スフィンクスの横顔」をあらわしている点に制作後気づいたとメリヨンが語ったことが記されている。ここに生けるものとしてのパリからのメリヨンへの呼びかけを見てとるのは深読みというものだろうか。

 

 プチ・ポンは1852年3月からとり壊しが始まり、翌53年末に掛け替えられた。オテル=デューも65年には移転する。ル・セックの52年の写真にはプチ・ポンの手前に木造の橋が写っているが、これは工事のためのものだろうか。ちなみに建替以降のプチ・ポンは、サン=ミシェル河岸のアパートの一室からの視点でマティスやマルケによって描かれている。

 

 当館蔵の刷りは第5(デルテイユ&ライトの総目録)ないし第6ステート(シュナイダーマン)にあたり、『アルティスト』誌1858年12月5日号に付された。刷師のドラートルが入院中のメリヨンを援助するために増刷した3点中の1点である。

メリヨン《プチ・ポン:最初の習作》

メリヨン《プチ・ポン:最初の習作》
トレド美術館


アンリ・ル・セック《マルシェ=ヌフ河岸》

アンリ・ル・セック《マルシェ=ヌフ河岸》
1852年、パリ市歴史図書館


プチ・ポン付近、1998年12月12日撮影

プチ・ポン付近、1998年12月12日撮影

アンリ・マティス《午後遅くのノートル=ダム》
1902年、オルブライト=ノックス美術館

◆ノートル=ダムの給水塔 La Pompe Notre-Dame

 

 この揚水場はセーヌ川から水力ポンプによって水を汲みあげ、パリ市内に給水すべく1671~72年設置されたものだが、メリヨンが描いた時期には撤廃が決まっており、それを記録するべく制作された。1853年のノートル=ダム橋の改築にともない稼働を停止、1856ないし58年に撤去されることになる。

 

 ここでも建物の陰になった部分で、交差することのないハッチングが不規則なモザイク状に区分されて特異な相貌を呈するとともに(ゴヤの《戦争の惨禍》73番《猫のパントマイム》と比較されたい)、基部の杭の間の暗さ、水面のゆらぎ、幾段階かの明部などが景観に息づきをもたらしている。当館蔵の刷りは第6(デルテイユ&ライト)ないし第7ステート(シュナイダーマン)にあたる。

メリヨン《ノートル=ダムの給水塔》

メリヨン《ノートル=ダムの給水塔》
1852年


アンリ・ル・セック《ノートル=ダム橋の給水塔》

アンリ・ル・セック《ノートル=ダム橋の給水塔》
パリ市歴史図書館

◆ノートル=ダム橋のアーチ L'Arche du Pont Notre-Dame

 

 橋桁のアーチは景観を枠どる効果をもつため以前にも作例があるが、メリヨンは構図を斜めに配して動勢と臨場感をもたらしている。これを強めるのが左側のやはり特異なハッチングによる暗部と右側の明部、手前と奥との対比だ。ここでは交差ハッチングも用いられ、影の暗さを深めている。橋の向こうには給水塔の基部、両替橋、裁判所が見える。当館蔵の刷りは第4ステートにあたる。

メリヨン《ノートル=ダム橋のアーチ》

メリヨン《ノートル=ダム橋のアーチ》
1853年


アンリ・ル・セック《ノートル=ダム橋のアーチ》

アンリ・ル・セック《ノートル=ダム橋のアーチ》
パリ写真館

◆塔・医学校通り Tourelle, Rue de l'École de Médecine, 22

 

 この画面でもハッチングは息苦しいまでに建物等を覆っている。線と線との間に紙の白さがのぞいていることでかえって、濃密な感触が生じるのだ。当館蔵の刷りは第12(デルテイユ&ライト)ないし第13ステート(シュナイダーマン)にあたるが、第9ないし第11ステートまでの刷りでは画面上部に寓意的な形象が描かれていた。これはタイトルの医学校通り22番地が当時、シャルロット・コルデーによって1793年にマラーが暗殺された場所と見なされていたことに想を得たもので、題材は歴史の結節点が刻印された場所として選ばれたのだろう。

 

(学芸員 石崎勝基)

メリヨン《塔・医学校通り》

メリヨン《塔・医学校通り》
1861年


メリヨン《塔・医学校通り》

メリヨン《塔・医学校通り》
第9ないし第10ステート


シャルル・マルヴィル《マラーの小塔・医学校通り》

シャルル・マルヴィル《マラーの小塔・医学校通り》
パリ市歴史図書館


《塔・医学校通り》

《塔・医学校通り》
テュルパン・ド・クリセ『古きパリの思い出』(1835)より
パリ国立図書館

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