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美術館 > 刊行物 > その他 > 特集展示:村山槐多と関根正二 2006 パンフレット:田中善明

美術館のコレクション 2006年度第2期展示(2006.6.28)

特集展示:村山槐多と関根正二

関根正二《自画像》
関根正二
《自画像》
1918(大正7)年 
インク・紙
村山槐多《自画像》
村山槐多
《自画像》
1916(大正5)年
油彩・キャンバス
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村山槐多と関根正二

彼らの作品を前にすると、かならずといっていいほど身体が緊張する。村山槐多は22歳と5ケ月、関根正二はわずか20歳2ケ月で、この世を去ったという事実がそうさせるのではなくて、自分が10代や20代前半だったときとを重ね合わせてみて感じる、彼らの早熟さに対しての焦りのようなものである。

 

同じ時代を生きた岸田劉生にしても、人生の駆け抜けかたはあまりにも早い。劉生は20代前半で西洋の新しい美術を実践し、その後ルネサンス期にさかのぼって自らの表現に取り込み、30代になると浮世絵や東洋の美術にどっぷりと浸かる環境を築き上げてしまった。現代人なら、より老齢に達しなければ感じ、悟ることができないであろう領域に踏み込んだ彼らの感覚とはいったいどういったものだったのだろうか。

 

槐多や関根らをはじめ、大正時代に彗星のごとく登場した画家たちを「天才」として片付けてしまうことは簡単である。とはいえ、西洋の自我に触発されたこの時期の画家たちが集団感染的に質の高い作品を残した事実はあまりに魅力的であって、そうした要因を探ってみることも、現代人に与えられたひとつの楽しみである。

 

◆二人のちがい/共通するもの

 

村山槐多と関根正二は、夭折の天才画家として並び称されることがあるが、残念ながら彼らが接触したかどうかの記録はない。それでも、今回展示している作品の多くが同じ所有者から三重県立美術舘のコレクションとなり、今、展示室という空間で互いの作品が作用しあっているさまに立ち会うと、どうにかして二人の接点、共通の土壌をさがしてみたくなる。

 

村山槐多は18歳のとき京都から、関根正二は9歳で福島県白河から上京している。村山槐多は画家を志しての、関根正二は父親の仕事の関係での上京となったが、そうした転機以外彼らに共通するのは、放浪に近い旅を好んだということである。そして偶然にも二人は信州に何度か足を運ぶ。ゴーギャンに刺激された大正期の画家たちの多くが南国の風俗や明るい日差しを求めて、志摩地方や伊豆大島、房総などを取材したのに対し、彼らが信州という土地にも眼を向けたことは興味がもたれる。村山槐多は伯父山本一郎(洋画家山本鼎の父)宅を拠点に信州の地を彷徨し、関根は勤務していた東京印刷会社をやめての無銭旅行であった。いずれにしても、この信州での滞在は精神の形成に重要な役割を果たしたことは否定できない。特に関根正二は、長野市に住んでいた画家河野通勢と出会い、河野の作品と、彼が所持していた画集より、ルネサンスを代表する画家デューラーやミケランジェロに強く影響された。関根が河野と出会った1915(大正4)年の二科展に出品した《死を思う日》は、放浪の旅をする自分の姿を投影したものといわれている色調の暗い作品である。村山槐多がとらえた信州の自然は開放的なのに対し、関根の場合は内省的な雰囲気を作品から感じとれるかもしれない。だが、関根にとっても信州は「大きな自然を目前に、其の日を暮らしたい」理想の場所であったと書簡にある。信州は彼らの心象を反映させるのに十分値する生きた場所だったのだろう。

 

村山槐多と関根正二。表層的に見るならば、彼らの描き方は大きく異なる。それは、エッセンスを抜き取った画家がそれぞれ違うことにも関係がある。槐多はフランス帰国後の若い梅原龍三郎の作品に感動し、関根はデューラーらの影響のあと、やはり帰国後の安井曾太郎の垢抜けた色彩に接し、鮮やかな表現をのちに獲得した。槐多はガランス(茜色)を、関根は透明感のある青が画面の要所に生きている。ライバル梅原安井の奮闘が、こうした青年画家たちにも波及効果をもたらしたのである。

 

槐多と関根の画面にあらわれた個性は、まったく別のものである。しかし、彼らの精神性や生きざまに関してはあまりにも共通した部分がある。芸術家仲間や、二人の制作を評価したり援助してくれる人がいる一方で、やりきれない孤独感が彼らを襲う。二人は酒を飲み、本意とはちがった奇行があり、相次ぐ失恋にも打ちのめされた。また、二人は無邪気な-面をみせたかと思うと、老成した様相をみせ、時に戦闘的で、時にどこまでも深く落ち込む。そうした心の振幅を、槐多や関根はどの時代の人々にも届くよう、普遍のフィルターを用意して絵画や詩、文章に残した。それらは、けっしてわたしたちの心を和ませる類のものではない。けれどもみなぎる緊張感に、なんとも言えない美しさを感じないではいられない。

 

(学芸員 田中善明)

 

作家別記事一覧:村山槐多

村山槐多:スケッチ等一覧

作家別記事一覧:関根正二

関根正二:スケッチ等一覧

村山槐多 写真
村山槐多(1896-1919)


関根正二 写真
関根正二(1899-1919)


村山槐多 《信州風景(山)》
村山槐多
《信州風景(山)》
1917年


関根正二《裸体》
関根正二
《裸体》


参考図版:関根正二《死を思う日》
参考図版:関根正二
《死を思う日》


村山槐多の《自画像》
村山槐多の《自画像》(油彩・キャンバス 1916年作、パンフレット表紙に掲載している作品)をエックス線撮影したところ、絵の下から別の肖像画が発見された。おそらく、これも槐多の自画像だと思われるが、相手をにらみつける強硬な姿勢は、微塵も感じられない。

村山槐多《詩・宮殿指示》
村山槐多
《詩・宮殿指示》
1918年


村山槐多《詩・どうぞ裸になって下さい》
村山槐多
《詩・どうぞ裸になって下さい》
1917年
ページID:000057284