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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 宇田荻邨、伊藤小坡の本画と下絵 毛利伊知郎 三重県立美術館所蔵作品選集

宇田荻邨、伊藤小坡の本画と下絵

宇田荻邨(1896-1980)と伊藤小坡(1877-1968)は三重県出身の日本画家。二人は男女の差はあっても、ともに京都に出て、江戸時代以来の円山四条派の流れに連なる修練をした後、大正期に画家として出発し、終生京都を活動の拠点としたという共通点を持っている。当館は開館以来、二人の作品や関係資料の収集を行ってきたが、関係者のご厚意によって下絵や画帖など画家の生の姿を伝える資料の寄贈を受けることができた。

私たちが普段目にする作品の多くは、これ以上手を入れる必要がないと作者が考え、落款や印章が加えられた完成作品である。こうした完成作によって作家のことが語られ、また一つの美術の流れがつくられていくことになるのだが、作品が完成するまでの間に余人では窺い知れない様々な営みがあること、そして、そうした創造のプロセスが私たちにとって非常に興味深いものであることはいうまでもないだろう。

そうした作家たちの創作の営みの有様を伝えてくれるものとして、作家自身の言葉ももちろん重要ではあるが、素描や、習作、下絵類も、言葉にできない作家の心の動きや制作の過程を伝えてくれる資料として大きな意味を持っている。

制作の過程でつくられた素描や下絵は、本来第三者に見せることを目的としない、いわば舞台裏の存在である。したがって、古今東西を問わず、そうした素描類を公開することに否定的な立場をとる作家は決して少なくない。しかし、私たちにとって一つの作品の意味を解明する上で、素描や下絵は何より有用であるし、また作家の生き生きとしたありのままの姿を見ることができるところに、素描類の大きな魅力がある。

宇田荻邨は、菊池芳文(1862-1918)、契月(1879-1955)に、伊藤小坡は森川曾文(1847-1902)、谷口香●(きょう;山偏に喬)(1864-1915)に師事して、大正前期から活動を始めた。この時期、京都では青年画家を中心に新しい日本画創造の気運が高まり、西洋絵画の表現を意識した日本画が試みられていたが、荻邨、小坡もその例外ではなく、荻邨はアール・ヌーヴォー調のデカダンな雰囲気の作品[106][109]を、また小坡は日常生活の一こまを新鮮な視覚でとらえた作品[112]をそれぞれ発表していた。

ところで、現代作家の場合には例外もあるが、日本の伝統的な絵画には一定の制作方法が踏襲されてきた。それは、完成作に至る前段階において、画家は草稿、小下絵、大下絵と称される複数の下絵類を通じて構想を決定していくことである。荻邨、小坡を含む大正期京都の青年画家たちは、新しい表現を目指していたけれども、制作方法はこの伝統的な方式に従っていたことが現存する下絵類から知ることができる。

下絵の最終段階である大下絵は、完成作と同じ大きさで描かれ、彩色が淡彩で施されたりする。最終稿である大下絵では、図柄や着色が変更されることは少ないが、それでも紙を貼り重ねて改変が行われる場合もある[108]。小下絵や草稿の段階では、画家は画面構成やモチーフを変更して様々な模索を繰り返すことになる。

完成作での描き直し、塗り直しは、岩絵具の性質や線描重視の日本絵画の特性からほとんど不可能に近いといってもよい。つまり、大下絵では、完成作に盛り込まれる全てのものが決定されている必要がある。そして、それらが本画の画絹や料紙に移されるということである。大下絵と本画とを比較して、完成作から時に感じられるある種のよそよそしさは、そうした画材の性質や制作の過程が一因でもある。

表舞台の存在として本画が尊重されるべきことはいうまでもないが、黒衣的存在であった下絵も、今日の私たちから見ると、完成作とは別種の新鮮な魅力を持っていることは間違いない。

(毛利伊知郎)


[106]宇田荻邨《木陰》1922(大正11)年

[108]伊藤小坡《つづきもの》(下絵)1916(大正5)年
[107]宇田荻邨《祇園新橋》1919(大正8)年


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