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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 曾我蕭白と三重の近世画人たち 山口泰弘 三重県立美術館所蔵作品選集

曾我蕭白と三重の近世画人たち

数多くの優れた作品の発掘によって、曾我蕭白(1730~81)が、池大雅や円山応挙などと並ぶ江戸中期の代表的画家として認められるようになって久しい。蕭白の作風は奇想にあふれ、奇行を伝える逸話にも事欠かない。それが近代の個人主義的芸術家観と重ね合わされたため、世間からは疎外され画壇からも異端視される孤高の画家、というイメージがかたちづくられ近年に至っている。しかしそうした先入観を棄て、作品をつぶさに検討していくと、個性的で一見独創的にみえる表現内容も、実は、俳諧や謡曲など、当時のさまざまな文芸と通底する同時代思考に裏付けられていることがわかってくる。

蕭白は、大雅や応挙と同じように京都の画家であるが、しばしば地方を遊歴し、播磨・出雲などに足跡を残している。なかでも伊勢地方には何度か来遊しており、30歳代の画家としてもっとも充実した時期の優れた作品を多く残している。

31歳の年紀のある《林和靖図屏風》〔88〕は、蕭白の伊勢遊歴の初期に描かれたと考えられる作品である。

眉月がかかり、黄昏の残光に梅花の映える汀の光景は、この屏風の主役である中国北宋時代の文人林和靖が詠んだ梅の詩の一節、「疎影横斜水清淺、暗香浮動月黄昏」の辞意に沿っている。

しかし、辞意をなぞっただけの通り一遍の描写に終わらないのが蕭白らしい。のたうちよじれて巨大なムーブメントを発する梅の樹幹はひと続きになった六曲一双の広々とした空間を圧しており、本来の主役である林和靖とのあいだで主客が転倒する。

樹幹には墨の濃淡のほか金泥が使われるが、金泥は蕭白の技法では、単に装飾を加える用法ではなく、月や日に映じる光を表すために使われる。《月夜山水図屏風》(滋賀県・近江神宮蔵)の例とともに、月夜の幻想性を見事に引き出した好例といえよう。

梅を愛でるでもなく、あるいは愛でるのにさえ辟易したのか、退屈しきっている様子の林和靖が、梅を愛でるべき決まり切った図像にさえ辟易しているようでおもしろい。古典的正統を揶揄し、逆転された価値から生じる滑稽を楽しもうとする俳諧で鍛えた蕭白の、江戸人らしい知的な遊戯心がうかがわれる。

このような遊戯は、この画を見る人と作る人とのあいだの感覚と知識のせめぎ合いがあってはじめて可能になる性質のものである。こうした作品が伊勢という地方で描かれたことは、とりもなおさず、蕭白を受け入れる素地が育っていたことを示している。このことは、奇矯な人柄と特異な作風のために時代から孤立していたという従来の蕭白観とは相反する。

蕭白と交遊をもち、揮毫を求めるなどしたのは、僧侶や藩儒など従来からの知識層のほか、豪商や豪農たちであった。彼らは、経済的繁栄を背景に、18世紀に新しく教養層に成長してきた人々であった。京都の画家や文人と彼らとの交遊はこの時代の重要な文化現象のひとつであるが、蕭白の交遊に関しては、その孤高のイメージに歪められたためか、これまで看過されがちであった。

蕭白は、江戸中後期を際だたせる文化現象、すなわち、京都をはじめとする都市文芸の地方拡散を身を持って例証する存在である。

(山口泰弘)




[88]曾我蕭白《林和靖図屏風》1760(宝暦10)年

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