このページではjavascriptを使用しています。JavaScriptが無効なため一部の機能が動作しません。
動作させるためにはJavaScriptを有効にしてください。またはブラウザの機能をご利用ください。

サイト内検索

美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 橋本平八の彫刻 土田真紀 三重県立美術館所蔵作品選集

橋本平八の彫刻

「私の生まれた家は今の朝熊町のちょうど真中のあたりにある。私はそこで生れ、その家に十六歳になるまで住んでいた。その頃は朝熊村であって、村の人々は田と畑と山の仕事をしていた」。橋本平八(1897-1935)は1897年、現在の伊勢市の東部に位置する朝熊村に生まれた。金剛証寺のある朝熊ヶ岳への登山口として近世以来栄えた村である。冒頭の文章は平八ではなく、5年後に生まれた弟橋本健吉、後の詩人北園克衛(1902-1978)による。1930年代、最も過激な実験的詩を発表し続けた北園が、晩年に朝熊村を回想しているのである。北園はその中で当時の朝熊村の様子、父母や家業のことに触れ、兄平八について簡潔に「兄は彫刻家で日本美術院の同人であったが三十九歳で亡くなってしまった。私に芸術を吹きこんだのはこの兄であった」と語っている。

一旦東京に出て彫刻を学んだものの、まもなく朝熊村に戻り、木彫の制作を続けた平八と、五十年以上ほとんど帰郷することなくモダニズム詩人として東京で活動を続けた北園克衛。言葉の意味を切り捨て、あくまでも詩の形式において新しさを追求した北園克衛に対し、平八は伝統的な木彫を近代彫刻として自立させることに力を尽くした。二人の軌跡は一見するところ遠く離れていたかにみえるが、北園自身も平八の影響を受けたことを素直に認めているように、平八の日記や北園の回想から窺われるのは、兄弟の深いつながりである。北園は1919年に上京した平八に続いて上京し、関東大震災の直後には奈良で、その後再び東京でも共同生活を送り、自らも絵を描いて二科展に出品している。1926年に平八は一人朝熊に戻ったが、その後も北園が帰郷した際には、夜中まで語り明かしたりしていた。

その北園が上京の直後に見た兄の作品が、兄が院展に初めて出品した《猫A》〔135〕であったという。当時平八は佐藤朝山の内弟子となっていた。

「猫」を制作するために、猫を解剖したのだと言って、それを埋めたところを見せたことがあった。アトリエの裏手の方に墓のようなものができていて、花がさしてあった。私はその「猫」がどうも好きになれなかった。それは当時の兄の心境が露骨に出ていてある不快な感じを起させた。それはデカダンな親方の無礼を耐えているピュウリタンの弟子の表情を思わせたからである

と北園は当時を回想している。《猫A》のポーズは古代エジプト彫刻から取られているが、平八はただ単に外から借りた形式に頼って新しさを出そうとしたのではない。エジプト彫刻の明快な形式は魅力であったにちがいないが、一方で解剖まで行うほど平八は正確な写実的表現に固執していた。ただしそれは「本物そっくり」に表現するためではなく、猫の体を支える仕組みを研究するためであった。細部に拘泥することなく、鑿の跡を残した力強い彫りによって表現された猫の姿はわざとらしさがなく、自らの体を内からしっかりと支える緊張感に溢れている。同じ像は石膏でも制作された。平八には「木彫」という旧来の技法を近代的な表現手段として自立させたいという強い意志があった。「技巧」への依存から抜けきれない木彫の世界で、ただひとり禁欲的な姿勢で近代的「造形」とその拠って立つ所を求める兄の孤立を間近に見ていることが、北園には耐え難く思われたのかもしれない。《猫A》は平八自身が「自分の肖像」と呼んだ作品であった。

伊勢神宮の北東に位置し、神宮鎮護の霊場とされる金剛証寺は、空海が開祖とされ、空海ゆかりの《雨宝童子像》という木彫の美しい神像が伝わっている。また朝熊山麓には中世の信仰形態を示す経塚群もある。その意味で地方の一寒村とは言い切れない朝熊村ははたして二人にどのように作用していたのか。一見この故郷と縁を切ったかに見える北園克衛でさえ、「私のすべての作品を着色している色彩は私の幼年期から少年期の眼に映った朝熊村の色であると思っている」という言葉とともに、モダニズム詩集に混じって郷土の風景を主題に2冊の全く異質な詩集を遺した。ただし「ふる里は私のものであって、神や仏のものではない」と言い切った北園に対し、近代的な「造形」と「神や仏の世界」がまさに共存しているのが平八の彫刻ではなかろうか。

(土田真紀)




[132]橋本平八《成女身》1926(大正/昭和元)年



[133]橋本平八《石に就て》1928(昭和3)年



[134]円空《地蔵菩薩立像》(橋本平八旧蔵)制作年不詳
 

ページID:000057244