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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 月僊と三重の近世絵画 山口泰弘 三重県立美術館所蔵作品選集

月僊と三重の近世絵画

月僊は1741年(寛保元年)名古屋の生まれ。俗姓は丹家氏、商家で、一説には父は味噌商を営んでいたという。7歳の年に得度し、玄瑞の名を与えられる。10代で江戸の芝増上寺に入り、定月大僧正から月僊(僊の旁の下が己ではなく山)の号を賜った。修行のかたわら、雪舟派の画人桜井雪館(山興)(1716-1791)に就いて画技を学んだといわれる。1769年(明和6)、29歳のころ、月僊は江戸を離れ京都に移る。京都では知恩院の檀誉貞現大僧正に就き、その後同院の役僧となり、1774(安永3年)、34歳の年に檀誉の命で伊勢山田にある知恩院末の寂照寺に第8世の住持として遣わされることになった。

寂照寺は古市という歓楽街に近く、そのため破戒僧がつづき、当時衰微を極めていたという。月僊派遣の目的は同寺の再興にあったといわれるが、月僊もそれに応え、画料を寂照寺の復興や貧民救済に費やした。

京都時代、一説に月僊は円山応挙(1733-1795)に師事したといわれる。この説に対しては、月僊自身はなにも語らないし、積極的に支援する同時代資料にも欠けるが、山水や樹木、動物表現に応挙のきわめて大きな影響がみられるのは事実である。さらに『画乗要略』は、京都時代の月僊が応挙に師事する一方で、与謝蕪村(1716-1783)に私淑することがあったと記している。これもおなじように信頼すべき同時代資料を欠いているが、月僊は山水画の分野に、応挙から借用したモチーフを与謝蕪村風のやわらかい淡彩山水で包みこんだような、写生と南画の折衷のうえに立脚する固有の様式を造りあげているのをみることができる。また人物画においても、蕪村に紛うような疎荒な表現はみられ、蕪村画学習の形跡をうかがわせる。

当館蔵の《西王母図》〔100〕は、京都に移ったばかりの頃に描かれたと考えられるもので、雪館の影響を如実に示しており、月僊ならではの画風はまだ姿を現していない。一方「山水帰牧図」は、月僊様式の典型を示すものだが、そこには、応挙や蕪村の影響がみてとれ、月僊の先人学習の成果が反映されている。
田能村竹田(1777-1835)はその著『山中人饒舌』のなかで月僊を谷文晁(1763~1840)と比較して次のように評している。

溌墨惜まざるは谷文伍か、僧月仙は此れに反し、痩筆乾擦し、後淡墨を用ひて、少しく之を湊合す、蓋し谷子は、大に古法を存す、月仙(ルビ:ママ)に至りては、専ら新裁に出で古法全く尽く----(中略)----今、仙の画を観るに、人物簡にして疎朗、迫塞する処無し、多作に因ると雖も、漸く精熟を致せり、又是れ天趣、諸れを時輩に比するに、迥かに異れり、(原漢文)

「撥墨惜まざる」用筆遒勁な谷文晁に対して「痩筆乾擦、後淡墨を用」いてのちにそれを湊合(総合)したという草々とした筆墨に月僊の画風の特徴があるという竹田の指摘は、私たちが現在眼にする月僊の典型的な作風と一致している。また、「人物簡疎にして明、迫塞する処無し」という短い評言はたしかに月僊の人物画の様式的特質を鋭く衝いている。竹田はこのような特質を「多作に因」ると推断しているが、はたして多作を様式的特質の唯一の成因と言い切ってよいかどうかは別にしても、たしかに多作を可能にする簡明な表現であることは誰の目にも明らかであろう。しかし、月僊の素描的ともいってよい簡疎な表現様式は、竹田が「新裁」という言葉で表現したように、当時、きわめて斬新なものとして受けとめられていたことは知っておきたい。

(山口泰弘)


[96]月僊《僧形立像(自画像)》
制作年不詳
[97]月僊《蘭亭曲水図》1806(文化3)年 [98]月僊《十六羅漢図》
制作年不詳

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