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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 戦後日本の抽象彫刻 毛利伊知郎 三重県立美術館所蔵作品選集

戦後日本の抽象彫刻

わが国における抽象彫刻の歴史は、大正期1920年代に新興美術運動に参加した作家たちによる作品に遡る。未来派美術協会展や「アクション」などに参加した浅野孟府(1900-1984)、三科展にダダ風のオブジェやキュビスム的作品を発表した仲田定之助(1888-1970)、未来派美術協会結成の中心であった普門暁(1896-1972)らの名を挙げることができる他、村山知義(1901-1977)らが手がけた構成物なども知られている。しかし、彼らの運動が後の時代に発展的に引き継がれることはなかった。

1930年代、東京美術学校彫刻科学生たちの中には、舟越保武(1912-2002)のように一方でロダンに始まるフランス近代彫刻に傾倒する一方で、シュルレアリスム的作品を試みたりする者もあったが、現存する作品は皆無であり、抑圧的な社会情勢の中で制作もままならず、結局わが国における抽象彫刻の成立は第二次大戦後に持ち越されることとなる。

1951(昭和26)年開催のロン・ド・メ東京展は、同時代フランス美術を紹介して日本人作家に強い刺激を与えた他、五年後の1956(昭和31)年開催の「世界・今日の美術展」も少なからぬ影響を彫刻家たちに与えた。

このように、1950年代以降わが国でも抽象彫刻が本格的に制作されるようになったが、1950(昭和25)年に創設された行動美術協会彫刻部には、建畠覚造(1919- )、向井良吉(1918- )〔145〕らが参加して抽象的傾向の強い作品を発表していった。

建畠は戦前から官展に具象彫刻を出品していたが、戦後は官展を離れて人体をモチーフとした抽象的作風に転じ、以後幾度かスタイルを変えながら行動美術協会彫刻部の中心メンバーとして活動を続けてきた。

また、東京美術学校で建畠と同期の向井は、過酷な戦争体験を通じて深めた生命や人間の本質についての洞察を造形化した《蟻の城》シリーズによって高い評価を得て、後には野外彫刻展や現代建築を活動の場として、現代文明に対する強い風刺を込めたスケールの大きな作品を制作する一方で、繊細な感性を窺わせる詩的な作品を発表した。

1950年代後半になるとサンパウロやヴェネツィアのビエンナーレなど海外美術展への出品も行われて、次第に彫刻界で抽象作品が占める位置も次第に大きくなっていった。さらに、この時期に開館した神奈川県立近代美術館や国立近代美術館が開催した同時代美術を紹介する展覧会、1961(昭和36)年の宇部市野外彫刻展などの野外彫刻展等は、抽象彫刻家たちにとって大きな活動の場となった。

建畠、向井以外で当館が所蔵する井上武吉(1930-1997)〔143〕、江口週(1932- )、澄川喜一(1931- )、多田美波(1924- )、豊福知徳(1925- )、堀内正和(1911-2001)、最上壽之(1936- )、湯原和夫(1930- )らはいずれも1950年代後半から60年代前半に活動を開始した作家たちで、金属、木、ガラスなど各作家固有の素材を用いて独自の造形世界を築いた。また、彼らより少し遅れて1960年代後半には陶芸から彫刻に転じた清水九兵衞(1922- )〔146〕、ヨーロッパから帰国した飯田善國(1923- )〔142〕、保田春彦(1930- )〔144〕らが活動を開始している。

戦後日本の経済成長に伴う都市の再開発等と関連して、これら作家たちは展覧会での作品発表の他に屋外モニュメントや建築関連作品を手掛けることも少なくなかったが、中でも井上、多田、清水、向井らはこうした分野で積極的に活動し、スケールの大きな作品を多数残している。

(毛利伊知郎)


[142]飯田善國《SONZAI》1967(昭和42)年

[144]保田春彦《都市1・試作(1)》(左)、
《都市2・試作(2)》(右)1985(昭和60)年
[143]井上武吉《my sky hole 85-6》1985(昭和60)年

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