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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 大正、昭和初期の工芸と新井謹也 白石和己 三重県立美術館所蔵作品選集

大正、昭和初期の工芸と新井謹也

大正時代中ごろ以降、日本の工芸界は大きな変革の時期を迎えた。それは作家としての確立、つまり創作ということを工芸制作の基本としなければならないとするものだった。明治末ころから、富本憲吉(1886-1963)や藤井達吉(1881-1964)、あるいは津田青楓(1880-1978)、岡田三郎助(1869-1939)ら他分野の美術家による工芸制作、発表によって、技術的精緻さに工芸の魅力を求めるのではなく,作者の美的感覚を、美意識を表現した制作を強く提唱していた。そうした動きが次第に実を結んで、帝展参加の要求とも重なって、このころようやく工芸界の趨勢となってくるのである。東京では富本や藤井の活動、主張に刺激され、また東京美術学校で学んだ、高村豊周(1890-1972)、西村敏彦(1889-1947)、広川松五郎(1889-1952)といった若手の工芸家をはじめとする人たちによって、次第に大きな動きを見せていった。こうした動きは全国に広まっていったが、京都でも新進の工芸家たちが、革新の運動を展開している。1919(大正8)年に結成された楠部彌弌(1897-1984)[157]、河合榮之助(1893-1962)、八木一艸(1894-1973)らによる赤土はそのひとつで、京都市陶磁器試験場を卒業した若者たちが、旧態依然とした伝統や因習を打ち破ろうと結成したグループである。この団体は1922(大正11)年、消滅してしまうが、メンバーのほとんどは、1927(昭和2)年、ふたたび耀々会を結成する。新井謹也(1884-1966)はこれに参加することになる。

浅井忠[9]の門下生として、画家として活躍していた新井謹也は、1920(大正9)年、京都に工房を設けて陶芸活動に専念するようになる。ちょうど、赤土の結成と前後する年代で、京都でもうねりは確実に新しい時代を予感させていた。彼は早くも翌年から作品を意欲的に発表している。発表の舞台は京都や大阪での個展、そして農展(農商務省工芸展)への出品などである。農展は1913(大正2)年、当時行き詰まっていた工芸品輸出を促進するために、デザインの改良を目的として、計画されたものである。しかし、文展から除外されていた工芸家たちは、文展にかわるものとして積極的に出品するようになった。産業工芸と美術工芸のいわば二重構造の状態だったのだが、全国規模の工芸展として大正時代の工芸の発展に大きな役割を果たした。作陶に専念して間もない新井が、この展覧会に数点の入選を果たしたことは、彼の画家として培った描写力とともに、自然の草花などをもとにした、デザイン[153]の新鮮さが高く評価されたのだろう。

大正末から昭和初期にかけて、さまざまな工芸団体が結成され、盛り上がりを見せるようになるのだが、なかでも高村豊周らによる无型は華々しい活躍を見せ、大きな影響を与えた。1927(昭和2)年、全国の工芸家が切望していた帝展(文展の後身)に工芸部門が設置され、ますます大きな盛り上がりを示した。京都でも1924(大正13)年、華曼艸社、1927(昭和2)年には耀々会など、数多くの団体が結成された。新井はこれらの団体に加わって活動し、さらに1935(昭和10)年結成された、東京の革新的な工芸家を中心とした団体、実在工芸美術会にも加わっている。これら新井の所属したグループは工芸革新を標榜する団体がほとんどであり、彼の制作に対する周囲の見方がうかがえる。しかし、新井の作品はこうした団体のほかの人たちほど、欧米の新しい美術思潮を取り入れようとしたものではなく、むしろ、自分の美意識を素直にあらわした素朴な、実用的な作品がほとんどだった[154]

(白石和己)


[153]新井謹也《白釉草花模様燭台》(左側)、
《呉須染付燭台》(手前)、《緑耀釉燭立》(右側)
大正期

[155]楠部彌弌《染付珈琲揃》(6客組)制作年不詳


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