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美術館 > 刊行物 > 所蔵品目録 > 柳原義達-生のあかしとしての彫刻 毛利伊知郎 柳原義達作品集

柳原義達-生のあかしとしての彫刻

毛利伊知郎

はじめに

三重県立美術館は、彫刻家柳原義達氏から主要作品と関連資料等の寄贈を受け、柳原義達記念館を新設して紹介していくこととなった。神戸市出身である柳原氏は、三重県と取り立ててゆかりがあるわけではない。しかし、当館が折に触れてこの彫刻家に注目して紹介を行ってきたこと、日本の近現代美術を主たる対象とする当館の活動等が背景となって、開館20周年の機会に今回の受贈が実現することとなった。

柳原義達は、日本の具象彫刻界を代表する作家の一人として、近年に限っても1993年、1995年、2000年と三度にわたる大規模な個展が各地の美術館で開催され、その人となり、作品等に言及した評伝・評論も数多い。今回、新しく付け加えることは少ないが、ここでは柳原義達の歩みをたどりつつ、この彫刻家の特質について紹介を試みたい。


生い立ち

柳原義達は1910(明治43)年、神戸市で父達次郎、母みねの第三子として生まれている。父達次郎は奈良県大和郡山出身であったが、江戸時代に大和郡山藩主となった柳沢家が甲州の地から移転してきた際に、柳原家も同行して奈良に移ってきたという。

少年時代から柳原は父から日本画を勧められ、兵庫県立第三中学校(現長田高等学校)時代には日本画家村上華岳門下で国画創作協会展に属して、後に洋画へ転向した経歴を持つ藤村良友(1901-1968)に日本画の指導を受け、中学校卒業後は京都市立絵画専門学校への入学をめざして京都に移り住み、日本画家福田平八郎(1892-1974)からも指導を受けるようになったという。

 大きな転機が訪れたのは、この頃のことである。柳原が伝えるところでは、彼の絵を見た福田から「君のこのみかん色は黄色という色だ。みかんは、この火鉢のなかに燃えている、あの炎の美しさだ」と指摘されて、日本画の難しさを実感し始めていた時に『世界美術全集』でブールデルの《騎馬像》を見て、「突然変異」がおきて彫刻家になりたいと思うようになったというのである。(註1、挿図1

 父の郷里が奈良県であったことから、たびたび奈良を訪れて少年期から仏像に親しみを持ち、法隆寺の仏像には心打たれることがあったと柳原は回想しているが、この最初の転機についてはこれ以上詳しいことは明らかではない(註2)
註記

1.柳原義達『柳原義達美術論集 孤独なる彫刻』(1985年 筑摩書房)187-188頁


2.『奈良ゆかりの現代作家展』カタログ(1993年 奈良県立美術館)

彫刻家をめざして

 彫刻家志望に心を決めた柳原は上京して、東京美術学校の受験準備として同舟舎で素描を学び、1931(昭和6)年に東京美術学校彫刻科に入学することとなった。彫刻科では吉田芳夫、峰孝らが同期で、日本画科の高山辰雄、油画科の香月泰男らも同学年であった。学科は違ったが、香月との間には親しい交遊があったという。ちなみに、彫刻科の二級下には西常雄、三年後輩には佐藤忠良、舟越保武がいた。

 美術学校在校中、第13回帝展で《女の首》(挿図2)が入選、翌年の第8回国画会展では《女の首》挿図3が奨学賞を受賞するなど、早くから柳原は頭角を現した。当時の美術学校彫刻科は建畠大夢(1880-1942)、朝倉文夫(1883-1964)、北村西望(1884-1987)ら官展系の彫刻家たちが指導に当たっていた。しかし、この頃柳原を強くとらえていたのは、美術学校で教授されるアカデミズムからいかにして逃れるかということであった。

 柳原によると、1923(大正12)年に渡仏してパリでブールデルに師事して、1928(昭和3)年に帰国した彫刻家清水多嘉示から美術学校時代に指導を受け、反官展的性格を強く持っていた国画会展への出品するようになったのも清水の勧めによるものであったという。しかし、柳原自身は後年この当時を「私は学生時代から、在野的な精神に生きようと心がけながら、それでも目は誰かの形骸をおっかけていた。清水さんから教わることも実は不消化のまま、デスピオやブールデルの表面にあらわれた、それは結局は外形模倣でしなかなった。・・・在野的生き方といいながら、実は第二のアカデミズムにおちていた」と回想している(註3)。反アカデミズムの立場で、自分自身で独自の彫刻世界を築くこと、これこそが現在に至るまで柳原の彫刻家人生をかけて追い求めてきたものであった。

 1936(昭和11)年3月、美術学校を卒業した柳原は、その後も国画会展に出品を続けて、翌年には国画会会員となった。1939(昭和14)年には、国画会彫刻部の会員とともに新制作派協会彫刻部の創立に参加し、以後新制作派協会が主たる活動の舞台となる。

 その頃、柳原が深い敬意を抱き強い影響を受けていたのが、高村光太郎であった。周知のように、高村はわが国におけるロダンの紹介者として多くの青年彫刻家たちの尊敬を集め、作品出品は行わなかったものの、国画会に会員として名前を連ねていた。

 柳原が1938(昭和13)年の国画会展で国画会賞を受賞した小品《仔山羊》は、高村の勧めで行われた頒布会の作品となったが、その頒布会の推薦文に高村は「彫刻でしかお前は活きられないのだ」と書き記したという。以後の長い柳原義達の彫刻人生を暗示する言葉であった(註4)
3.柳原義達著前掲書 188-189頁


4.柳原義達著前掲書 195頁

戦争前後

 柳原が東京美術学校を卒業した年には二・二六事件が起こるなど、1930年代以降日本は戦争に向かって突き進んでいったが、その中で柳原の意識は「放心的空間の中をさまよっていた」という。戦争が激しさを増すとともに、その影響は柳原の周辺にも及んできた。学徒動員でニューギニアに出兵した実弟が戦死した体験、召集令状を受け取り入隊する部隊へ出発しようとしたその日に終戦となったという特異な体験の中で感じた「自嘲と空虚、割り切れぬ屈辱」感、さらに戦後間もない時に銀座の路上で突然アメリカ兵に殴られた時の「あきらめの心と、[何だ]が重なった」体験。こうした戦争前後の体験を振り返って、「戦争の無意味さの自覚に生きて、その戦争に対する私のアイロニーとレジスタンスの精神が、この自己への芸術生活への支柱になるだろうことを願っている」と柳原は記している(註5)

 また、1946(昭和21)年、柳原は佐藤忠良とともに作品を預けていた家が火災にあって、それまでに制作した作品のほとんど全てを焼失してしまう。これを「もうどうすることも出来ない記憶喪失者のように、私の過去の制作はなくなった」、「とりかえしのつかない災難」と自覚した柳原は、「私なりのレジスタンスとして[犬の唄]という主題で作品をつくることになった」という(註6)

 「犬の唄」(シャンソン・ド・シャン)とは、直接的には印象主義の画家エドガー・ドガの水彩作品《犬の唄》(1876-77年頃)に由来している。それは、普仏戦争後のパリのカフェ・コンセールに出演していた歌姫エンマ・ヴァラドンがうたった、戦争に敗れたフランス人のレジスタンス精神を込めたシャンソンであったという。敗戦後のやり場のない屈辱、不満、自嘲、虚しさを柳原は、《犬の唄》に託したのである(註7)

 このように、美術学校時代から終戦までの柳原周辺の出来事たどってみると、1930年代後半から日本が戦争に敗れた1945年頃までの約10年間に、戦争にまつわる様々な体験を通じて、彫刻家として生きていく上での信条、倫理観が成熟していったということができるだろう。
5.柳原義達著前掲書 202-205頁


6.柳原義達著前掲書 192-193頁、195-196頁


7.柳原義達著前掲書 205頁、荒屋鋪透「水の緑ー《犬の唄》試論」『柳原義達展』カタログ所収(1995年 柳原義達展実行委員会)

彫刻家としての再出発

 こうして自己の人間認識、世界観を深めていた柳原に第二の大きな転機が訪れた。それは、1951(昭和26)年2月に東京で開催されたフランス現代美術展(サロン・ド・メ東京展)であった。この展覧会には第二次世界大戦後のフランスで活動する作家たちの絵画30点、彫刻9点、素描・版画17点が展観されたが、柳原の回想によると「戦争という美的な心の空白のなかに突然現われて、現実の世界の美の流れを見せつけ」、そこで「目まいがしそうな感動をうけた」という(註8)

 この展覧会で受けた大きな衝撃から、柳原は1953(昭和28)年末にパリへ赴くことになる。乗船した日本郵船の粟田丸では版画家浜口陽三と一緒であったというが、それは、それまでの彫刻家としての経験や仕事など一切を無として、一から再出発するための再修業に他ならなかった。

 柳原の言葉を借りると、「パリの街は凍りついた大きな岩石の街並みだった。これが、まだ焼けあとのままのバラック的東京からやってきた[おのぼりさん]の私の第一印象だった。・・・この感動が日本文化と西洋文化の違いにつながるのだと、私の立体感の本質的な考えを揺れ動かすことになる。・・・アンフォルメルの運動が熾烈に燃えかけていた。こんな・梠繧ノ私は四十の手習いをやっていた」ということになる(註9)

 では、パリ滞在によって、柳原義達はどのように変わったのだろうか。その変化の大きさを確認するために、滞欧作品を見る前にほとんど唯一現存する戦前作である《山本恪二さんの首》を見ておくことにしよう。

 この作品は、美術学校の後輩であった山本恪二(1915-2000)と互いにモデルになりながら制作した作品であるというが、ここでは青年の容貌が何ら演出や誇張が加えられることなく素直で的確な肉付けによって表現されている。清潔感漂うこの日本青年の顔は、たとえば佐藤忠良の最初期の作品の一つ《母の顔》(1942年)、同じく舟越保武の初期作《つやこ》(1935年)などとも近く、この時期の青年彫刻家たちが抱いていた生命感あふれる彫刻に対する心のあり様を私たちに感じさせてくれる。

 戦後も《アンヌの首》(1947年)、《高瀬さんの首》(1948年)を初めとする頭像、あるいは《犬の唄》(1950年)、《婦人像(トルソ)》(1951年)などのように、基本的にはむしろ控えめな肉付けによる作意の少ない、端正な人物像が続くことになる。

 それでは、柳原義達がパリで制作した作品はどのようなものであったのか。パリでの作《黒人の女》《赤毛の女》《バルザックのモデルたりし男》になると、渡仏以前の像に見られた、オーソドックスなモデリングは、全く影を潜めている。人物の容貌は、大まかに目鼻立ちの要所が肉付けされるだけで、具体的な表情を表そうとする意識はほとんど認められない。作家の意識は、そうした人物の表情を表現することではなく、モデルの人体がつくり出すバランス、空間の中での構成といったところに向けられている。

 たとえば、《赤毛の女》では、両手を胸に当てて、うつ向き気味に、右膝を曲げて立つ女性の身体がつくり出す上昇感のある構成が見られ、また《黒人の女》では、小さめの頭部、左腰に当てた両腕、張り出した腰、前後に開いた両脚とから生まれる屈曲した身体が、鋭く切り取ったように空間を占めている。さらに、制作に最も時間を要したという《バルザックのモデルたりし男》では、上向きに顔をあげ、両脚を開いて腰をおろした太り気味の老人の体躯によって、堂々たる安定感が生まれている。これら3作を見るだけでも、作家の意識に大きな変化が生じたことは誰の目にも明らかである。

 また、この時期のデッサンも再修業の有り様と柳原のめざすところ、対象への視線の向け方などを示している。パリ時代の柳原義達は最初は独学で勉強を始めたが、やがてグランド・ショミエールのエマニュエル・オリコストの教室に通い、午前中はデッサン、午後は彫刻制作を行う毎日であったという。研究所で描かれたデッサンには、比較的丁寧な描写を示すものもあるが、短時間のうちに次々とポーズを変えていくモデルを早い筆使いで描き留めたものが数多く含まれている。

 そこでは、作家の目は空間の中で様々に体勢を変えていくモデルの全体像を描き留めることに集中しており、細部の描写は重視されていない。平面と立体の相違はあるが、これらのデッサンに見られる対象把握のあり方は、彫刻作品と軌を一にしているということができるだろう。

 「パリのこの研究所で、私は今まで持っていた日本的な自分の過去をぬぐうために、大変な努力をしなければならなかった。パリでの生活は、平面的な自分の目を、立体的な量の目にすることに費やされた」(註10)といい、「当時の私はいかにして、ロダン、あるいはブールデルの重圧からのがれ、独自の美を創造するのかが自分をうちたてる道でしかなかった。しかし自然に生命があるかぎり、根源的な自然の法則はいかなることがあっても変えられない」と述べる柳原の心情がいかばかりであったか、余人の想像を超える内なる闘いがあったのである(註11)

 パリでの様々な経験、多くの彫刻家たちとの交流を通して、柳原は「根源的な自然の法則」に従い、「プラン(面)による構成」、「プランの螺旋構造」、「生命の力の移動」、といったロダンの言葉に示される造形理念を尊重しつつ、日本人として独自の彫刻世界を確立していった。
8.柳原義達著前掲書 181頁


9.柳原義達著前掲書 197頁


10.柳原義達著前掲書 191頁


11.柳原義達著前掲書 184頁

帰国後の活躍

 4年ほどのパリ滞在は、柳原が彫刻の本質について思索し、独自の彫刻世界を築いた時期であり、まさにこのとき彫刻家柳原義達は第二の誕生を果たしたということができる。

 1957(昭和32)年、4年余りの滞欧を終えて帰国した柳原は滞欧作を新制作派協会展、日本国際美術展などで発表、以後も旺盛な制作活動が行われることになる。帰国の翌年には、前年に発表した滞欧作等によって第1回高村光太郎賞を受賞した他、第3回現代日本美術展でも《座る(女)》が優秀賞を受けるなど、その作品は高い評価を受けた。

 以後、1960年代前半期に発表された《坐る》(1960年)・《犬の唄》(1961年)等に代表される人物像を中心とする作品群は、半世紀以上に及ぶ長い活動期間の中で、前半期の頂点を形成するものということができるだろう。

 この当時の人物像には、いずれも重心の置き方によって変化する人体の微妙なバランスに対する作者の強い関心が窺え、肉体の量塊はしばしば荒々しい肉付けによって表される。また、背面等に大きくえぐり取られたかのような孔を見ることができるのも大きな特徴である。この時期の人物像に見られるこうした孔の意味は今一つ明らかでない。しかし、柳原がヘンリー・ムーアやジェルメーヌ・リシェの作品と関連して「ムーアは実の空間と虚の空間の問題を提起している。古木のほら孔がその木の壮大さをさまたげないように、虚と実との空間に包含されて、無ではなく有なのである」(註12)。「またプランに対しても、実の空間をいかに大きくとらえるかではなく、虚の空間と実の空間との密度への思考があり、・・・」(註13)と述べている文章は、1960年代の柳原作品を見る上で示唆的である。

 また、柳原にはジャコメッティについて記した随筆で次のように述べている。「抽象などというものは、彼の芸術には全然ない。しかし、具象を追求していくうえで抽象化はあった。抽象化せざるを得なかった。芸術というものが自然をコピーすることであれば話は別だが、芸術においてはなんらかの意味で抽象化していくことは当然のことである」(註14)。さらに、リシェを評して「彼女はまた型を抽象的に見る。しかも、それは自然の内部にある抽象的生命を抽出することであって、抽象を作ろうというのではない」(註15)。柳原作品がしばしば見せる抽象化された造形の背後には、こうした思考があるのである。
12柳原義達著前掲書 39頁


13.柳原義達著前掲書 60頁


14.柳原義達著前掲書 57頁


15.柳原義達著前掲書 62頁

野外彫刻との関わり

 ところで、戦後間もない1948(昭和23)年頃からしばらくの間、東京や神戸、仙台などの飲食店、宿泊施設、学校、公園、博覧会場などで、柳原は建築装飾やモニュメント等の制作に携わった経験がある(註16)。こうした活動は他の作家との共同制作として行われる場合も多かったが、そこには当時の作家たちの経済的事情、戦後の復興期における建築ラッシュなど現実的な背景もあったが、新素材や新しい活動の場に対する作家たちの意欲が働いていたことも見逃せない。また、この時期に新しく登場した白色セメントを普及させようとした企業の後援によって、野外彫刻展が開催されるようになったことも忘れることができない。建築関連の制作は短期間で終わり、作家自ら当時の仕事を振り返って「私も、建築家と一緒に仕事をしましたが、結局はお飾りをさせられてしまうのですね」(註17)と否定的な発言を行うことにもなるが、野外彫刻制作はその後の柳原義達の活動において少なからぬ役割を持つことになる。

 柳原と野外彫刻との関わりは、1951(昭和26)年に開催された日比谷公園野外彫刻展が最初で、以後同展には4回ほど出品している。また、1953(昭和28)には広島市平和大通りに《ラ・パンセ》、仙台市青葉城址に《伊達政宗立像》が設置されている(註18)。白色セメントによる《伊達政宗立像》は柳原作品としては特異なものであるが、こうした歴史上の人物像としては、1968(昭和43)年にも《僧形平清盛》が発表されていて、この彫刻家の懐の深さを示す作例となっている。その後も、1961(昭和36)年には第1回宇部市野外彫刻展に運営委員として参画、わが国を代表する野外彫刻展の育成につとめてきた。

 パリから帰国した後、柳原の主要な作品発表の場は新制作展、現代日本美術展、日本国際美術展等をはじめとする展覧会であったが、その一方で1960年代以降は野外彫刻の制作も行われた。

 その嚆矢は1960(昭和35)年の《トリ(国鉄技術研究所のためのモニュマン)》で、1964(昭和39)年から翌年にかけては、《フラワー・エンジェル》(1964年、向ケ丘遊園)《花と人間と機械の対話》(1965年頃、向ケ丘遊園)《風見の鶏》(1965年、愛鷹学園)《耕す人々のために(にわとり)》(1965年、山口県農協会館)などが設置されている。これらの作品はいずれも抽象的な表現・ヲすと同時に、当時普及し始めたアルミニウムを素材とする作品、制作過程で溶接技法を用いた作品もあるなど、一つの固定した型におさまることなく表現・技法・素材など作品の諸要素に新しい世界を開こうとする柳原の果敢な姿勢をみることができる。特に、彫刻の素材について柳原は「素材の木、石、金属等の生命感の力をかりて、このような自然の内奥の美を刻むことが私の戦後の仕事であり・・・」(註19)と記し、素材固有の表現特性を重視していたが、1950年代から60年代にかけての柳原が示した新素材への関心は、彫刻において素材が持つ意味を確認しようとする強い意志の現れであったということができるだろう。
16.木田拓也「柳原義達の戦後のバラックの装飾」、芳野明「もう一つの[道標]」『柳原義達展』カタログ所収(1995年 柳原義達展実行委員会)


17.向井良吉、柳原義達、針生一郎「<座談会 現代日本美術の底流>戦後美術 彫刻と社会の場」『美術ジャーナル』1963年5月号 28頁


18.《伊達政宗像》は、現在宮城県岩出山町岩出山城址に移されている。


19.柳原義達著前掲書 185頁

「道標」

 このように、1960年代は柳原がパリで開眼した独自の彫刻観に基づく作品発表を続ける一方、野外彫刻でも積極的な活動を開始した時期であったが、この時期の後半期には「道標」と名づけられることになる鴉、鳩を主題とした新しいシリーズが生まれることになった。彫刻家というにとどまらず、一人の芸術家としての在り方に繋がる重要な作品領域が生まれたという意味で、1960年代は非常に大きな意義を持つ時期であったのである。

 鴉が柳原作品にはじめて登場したのは1966(昭和41)年、神戸市に設置された《愛「仔馬の像)》、第7回現代日本美術展出品作《風と鴉》であった。その前年に柳原は鶏を主題とする作品を制作していたが、鴉が主題として選ばれたのは、「昭和四十年、神戸市の動物愛護協会から動物愛護にちなんだ記念碑の制作を依頼されたのがきっかけ」という(註20)。この記念碑(《愛「仔馬の像)》)を制作するための取材で、動物園の他、北海道へも足をのばした柳原は鴉に強い愛着を抱くようになり、自宅でも飼育するようになったという。

 一方の鳩は、現存作品を見ると1962年に制作されたのが最初である。この時の鳩はきじ鳩であったが、柳原は後に好んで孔雀鳩を主題とするようになり、1970(昭和45)年代以降に制作される道標シリーズに登場するのは全て孔雀鳩である。

 では、柳原は鴉や鳩に何を見たのか、またその姿に託して何を表現しようとしたのだろうか。柳原の言葉を引こう。

 「私のこの[道標]は、画家があまり表現出来ない、またあまりみる、あまり考えるこ ともない、自然に内在する量の移動、量と量とのひしめき、そんな自然のもつ不思議な 法則を縦や横に組合わせる。これだけは彫刻家でなければ出来ない唯一の喜びであると、 心ひそかに信じて喜びを持っており、持ちつづけたいと思う」(註21)

 「私の[道標・鴉]、[道標・鳩]は、私の自画像である。私が生と死の運命にたたされているように、仕事のなかに生を求めてめぐり廻り、私が生きている不思議さを仕事のなかに刻みたい。大自然のなかにいる鳥が、雨や、風や、嵐や、喜び、かなしみ、の運命にいるように」(註22)

 これらの文章以外にも柳原は、「道標」の意味を様々な比喩で繰り返し語っている。「道標」には彫刻表現自体のみならず、柳原の彫刻家としての生き方、人生そのものの意義が含まれているのである。

 また、注目されるのは、1980年代から90年代にかけて複数の「道標」が組み合わされて、一種のインスタレーションのように野外に設置された作例が見受けられることである。柳原による「道標」本来の意味からすれば、一つ一つの「道標」像は独立した存在であると考えられるが、複数の「道標」が組み合わされて配置されることによって、新しい空間、新しい世界がそこに生まれるのである。ここで「道標」は、本来の意味に加えた新たな意義を獲得したということができるだろう。
20.柳原義達著前掲書 169-170頁


21.柳原義達著前掲書 199頁


22.柳原義達著前掲書 200頁

生のあかし-彫刻と素描

 柳原は、80歳を過ぎても彫刻を制作し、1993(平成5)年には年齢を感じさせない清新な作品《靴下をはく女》を発表し、その後は体力の衰えと白内障による視力低下のために彫刻制作からは遠ざかることとなる。しかし、素描制作は以後も続けられた。生ある限り、倦むことなく素描を描くことはこの彫刻家にとっては当然の行為であった。

 この小論を終える前に、そうした柳原の素描に言及しておこう。戦前に描かれた素描は所在が確認できず、現存する素描で最も古いものは戦後のパリ時代のものである。以後、2001(平成13)年までに描かれた素描は膨大な量にのぼっている。初期にはコンテやインク等で描かれた素描もあるが、ある時期以降からは専ら黒いフェルトペン(サインペン)が使用されるようになった。また、近年はクレヨンやパステルで着彩された素描も見受けられる。

 そうした素描群には、「彫刻は触覚空間の芸術」と繰り返し強調する柳原の空間認識のありようを目の当たりにすることができる。柳原にとって、長い年月の間、素描は欠くことができない日々の日課であった。繰り返し素描を描き、頭の中に完全にテーマが入ってから彫刻制作に取りかかると柳原は述べているが、それは人物や鳩、鴉等の動き、ボリューム、プラン(面)などを完全に把握するという意味であろう(註23)

 また、すべての素描が彫刻に結びつくわけではない。素描を描くことは、柳原が言う自然法則ー量の移動、量と量のひしめき、プランの構成、均衡の美しさ等々ーを把握するための目と手の訓練ということができる。そうであれば、素描の画面構成、対象の細部描写、等々の絵画的要素が全く問題とならないのは容易に理解できるだろう。粘土による彫刻の制作がかなわなくとも、フェルトペンで素描することによって柳原は紙の上で彫刻を制作しているのである。

 柳原義達の人となりと作品は、しばしば「反省」という言葉で象徴的に語られることがある。それは、「反省の歴史」という自身の仕事を振り返った随想のタイトルにも示されているが、絶えず自身の仕事を振り返る作者の謙虚な姿勢、人間性にも強く現れている。柳原義達の生涯と作品は、反省、内省を通じて「自然」「人間」「彫刻」の本質に迫ろうとした間断ない営みの軌跡である。
23.岡泰正「せめぎあう動勢を見すえてー柳原義達のデッサン」『柳原義達展』カタログ所収(1995年 柳原義達展実行委員会)
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