作品目録解説
(◎は重要文化財)
長谷川久蔵「祇園祭礼図」(図1)、「韃靼人打毬図屏風」(図3)、狩野尚信「廐馬図屏風」(図12)、狩野常信「山水図屏風」(図13)、狩野洞雲「木庵賛釈迦三尊像」(図15)などは、本来この地方の風土と密接にかかわる作品ではないが、どれも少なくとも江戸時・纐魔ワでには、伊勢地方の豪商のもとに帰していた。
伊勢地方は、上方と江戸とを結ぶ交通の要衝にあり、また、民衆の信仰を集めていた伊勢神宮の膝元であったことなどから、江戸時代を通じて人や物の行き来の多い土地柄であったが、この地方を何にもまして活性化していたのは、伊勢商人と通称される豪商たちの本貫の地がここにあったことであろう。
彼らは江戸や大坂に店を出して幕府や諸藩の御用商人として大きな経済力を振るっていた。
三井家はその代表のひとつだが、ほかにも松坂の豪商のひとつ小津家には、かつて有名な李安忠の「鶉図」や本阿弥光悦「四季草花下絵書巻」をはじめおびただしい質量の古書画が収められていたといわれており、豪商たちの富の一端をうかがわせる。しかし、明治維新にともなう経済構造の変化や第二次世界大戦後の農地改革や税制の変化によって、彼らの集積した多くが散逸を余儀なくされた。
岩佐又兵衛「堀江物語絵巻」は、江戸時代末までに伊勢の御師(伊勢神宮に祈願する際に仲介をする祈祷師)の所蔵するところとなっていた。当初二十巻前後であったといわれているが、そのうち四巻が現存し、三巻が香雪美術館所蔵に帰し、残りの一巻(出品作品)も他家の所蔵となっている。
安濃津藩(津藩)初代藩主藤堂高虎(1556-1630)を像主とする肖像画は現在すくなくとも五種の存在が確認されている。本展にはそのうち津市四天王寺本・上野市西蓮寺本・久居市玉施寺本が出品されているが、ほかに藤堂家の末裔の所蔵本、上野市龍王寺本がある。津市の寒松院にももう一本あり重要文化財に指定されていたが、第二次世界大戦中の空襲で焼失している。四天王寺本は、なかでも初本かそれに近いものと思われ、容貌魁偉と評された像主を的確に表現している。また、夫人像と対幅をなすことでも他本と異なる。
九鬼嘉隆(1542-1600)は、熊野九鬼浦の出身といわれ、志摩地方一帯を支配下に置くとともに、織田信長・豊臣秀吉の揮下にあって水軍の総帥として活躍した。本図は嘉隆の孫で丹波国綾部の城主であった九鬼隆秀が、寛文12年(1672)に伊勢金剛証寺に寄進したものである。図上部には京都南禅寺の清韓文英の賛があり、慶長12年(1607)の加賛であることがわかり、図の制作はそれをいくらか遡る時期であろうと思われる。
(山口)
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池大雅、玉瀾、韓天寿、悟心元明、鶴亭、青木夙夜については、山口泰弘「伊孚九と池大雅の周辺」(巻頭論文)参照。 |
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曾我蕭白は、江戸時代中期に伊勢・伊賀地方で活躍し、創造的な作品を残した画家の筆頭といえよう。
京以外での蕭白画は各地に伝存するが、伊勢地方に残る多くの大作、あるいは蕭白の奇行に関するいくつかのエピソードは、この地方での蕭白の作画が単なる通りすがりの手すさびではなく、背後に蕭白と当地との積極的な関わりがあったことを示唆している。
そうした意味で、蕭白の伊勢地方での行動を明らかにすることは、蕭白という一人の画家の生涯と作品の秘密を解くだけではなく、江戸時代における都と地方との文化交渉のあり方を考える上でも、大きな手がかりになると考えられる。
蕭白の生涯には不明な点が多いが、伊勢歴遊の年次については、従来から知られていた1758年(宝暦8)頃と1764年(明和元)頃に加えて、1771年(明和8)頃にも三度目の伊勢歴遊が行われていたことが最近の研究によって明らかにされた。
京に住まいを定めていた蕭白であったが、彼が訪れたのは伊勢地方だけではない。他にも、近江、播磨、出雲など西日本各地を訪れて作品を残し、九州にも脚をのばしたと伝えられている。
では、蕭白はなぜこのように各地を旅行して作品を描いたのだろうか。また、京以外の地での制作は、蕭白にとってどのような意味をもっていたのだろうか。
蕭白の伊勢地方歴遊の背後にいた人物として、蕭白一族の墓所があり、蕭白も作品を残している京の輿聖寺の末寺である津の浄明院の住職で、蕭白門人とも伝えられる頑極を筆者は想定したことがある。
この仮説を補強する資料は未だ見い出されていないが、様々な階層の人々が現代とは比較にならぬほど仏教を中心とする宗教と関わりをもち、しかも寺院が信仰のみならず、政治や経済、文化など社会の多くの面と関わりを持っていた近代以前の時代であれば、画家の活動に仏教の一宗派や特定の社寺が大きく関わりを持つことも珍しいことではなかった。
また、伊勢地方で蕭白の屏風や襖絵などの大作が見出されているのは、四日市、鈴鹿、津および松阪とその周辺と伊賀上野の寺院や富裕家である。
そうした寺院や富裕家と蕭白は、どのようにして関係を結んだのだろうか。また、蕭白は、藤堂藩お抱えの儒者奥田三角、松坂継松寺の僧無倪、あるいは書家の韓天寿ら、伊勢地方ゆかりの文人たちと交友があったようだ。
こうした蕭白と伊勢地方との幅広く奥深い交渉は、蕭白がこの地方の人々にとって、単なる旅の絵師ではなかったことを意味していると思われる。ややもすれば、癖の強い画風と奇行のみが注目される蕭白だが、18世紀後半の時代と社会の中での蕭白の位置づけの作業が今後さらに必要となろう。
(毛利)
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尾張国出身の画僧月僊は、江戸や京で画を学び、その後伊勢古市の寂照寺に長く住し、当地で没した。月僊は、日本美術史の流れを左右するような大画家ではなかったけれども、画僧としては江戸時代を代表する一人であったといえよう。
月僊の生涯については、寂照寺に残る「寂照寺八世月仙上人碑銘」からその大要を知ることができる。それによると、月僊は1741年(寛保元)に尾張国名古屋の商家に生まれたが、7歳で得度し、10代で江戸の芝増上寺に入寺した。修行のかたわら桜井雪館に師事し、雪館高弟の一人と目されていたらしい。
その後、月僊は江戸を離れて、京の知恩院に移った。京における月僊の動向を詳しく伝える資料は見あたらないが、画史等の記事から推察すると、月僊は円山応挙に師事し、また与謝蕪村にも私淑していたようで、京東山妙法院障壁画制作に月僊は応挙門人の一人として参加している。
1774年(安永3)34歳の時に、月僊は当時荒廃していた寂照寺住持を命ぜられることとなった。以後、1809年(文化6)に69歳で没するまで、月僊は伊勢の地で寺院復興に尽くし、また貧民救済などの社会活動を積極的に行いながら、数多くの作品を描いた。
月僊は多作家として知られる。月僊ゆかりの地である尾張三河や京都にも月僊の作品が数多く伝えられ、月僊が30余年を過ごした伊勢地方でも、現在おびただしい数の月僊画を見ることができる。多作の故か、月僊の作品には短時間で描き上げたような小品が多いのに対し、画家としての技量が充分発揮された作品や、款記等から制作年代を特定できる作品はごく小数である。このことが月僊の様式展開をあとづけ、また画家としての真価を見定めるのを困難にしている。
こうした整理が困難な月僊画の中で、今回出品される寂照寺伝存の大作「仏涅槃図」、あるいは旧小津茂右衛門コレクションの「東方朔図」は、作品の完成度において、また月僊画の背景を探る上で貴重な作品であろう。
これら2作品には、牡丹の花びらや顔貌の描写に陰影法の使用が認められ、月僊と亜欧堂田善との関係や、司馬江漢『西遊日記』中の江漢と月僊との出合いのエピソード等から推察される月僊の洋風表現への関心を裏付ける作品ということができる。
また、「東方朔図」の樹木表現に沈南蘋風の描写が認められることなどから推察されるように、月僊は新来の明清画にも強い関心を寄せていた時期があったようで、数多く残る「痩筆乾擦」を主体とする様式化された月僊画が登場する以前に、諸流派の画風を取り入れて、それらを統合折衷して自己のスタイルを創造しようとした月僊の画家としての姿勢が、今回出品されるいくつかの作品から窺うことができる。
(毛利)
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京都嵯峨の清涼寺釈迦堂に安置される釈迦如来立像は、985年に入宋僧奝然がインドの優●(てん)王作と伝えられる釈迦像を台州開元寺で宋の仏師二人に模刻させ、986年(寛和2)にわが国に将来した像である。
この三国伝来の伝承を持つ清涼寺釈迦如来立像は、中世近世を通じて多くの人々の信仰を集めた。江戸時代になると、1700年(元禄13)5代将軍綱吉の命によって江戸護国寺で初の出開帳が行われた。これが契機となって、以来1860年(万延元)に至るまで、あわせて10回の出開帳が江戸で行われ、江戸以外でも九州や紀州、越後など全国各地で出開帳が催された。
照源寺伝来の「清涼寺釈迦如来像」は、1810年(文化7)江戸回向院での出開帳終了後、釈迦像が田安屋敷に移安された際に文晁が写生した図である。
本図は釈迦像の正面図と左右両側面図の計3幅からなり、特に正面図では細密で写実的な描写を見ることができる。一方、容貌特に横顔の描写にはやや観念的な表現が認められ、そこには江戸時代の人々が抱いていた古代・中世の仏教尊像に対するイメージがはからずも現れているようである。
照源寺は、1624年(寛永元)に没した桑名藩主松平定勝の菩提を弔うために子の松平定行が建立した浄土宗寺院で、松平家の菩提所として知られる。このため、当寺には、松平家関係の資料が多く伝わっており、谷文晁の筆になる本図も、文晁と近い関係にあった松平定信を介して当寺に入ったものと推察される。
(毛利)
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雪斎すなわち増山正賢は、宝暦4年(1754)10月14日、伊勢長島藩主増山対馬守正賢(まさよし)の長子として江戸に生まれ、父の死去とともに、安永5年(1776)23歳で遺領二万石を襲封し、河内守に任じられた。長島藩領は木曽川・長良川・揖斐川の三川が運ぶ土砂が堆積してできた三角州地帯を占め、その南端は伊勢湾に臨む。中世には河内といい、河内御堂と呼ばれた願証寺を本拠にした一向宗門徒が織田信長と争って壊滅に追い込まれたことで有名な、長島一揆の舞台として知られる。土地が水位より低く、そのため輪中を形成して開発が進められたが、水害の脅威にしばしばさいなまれ、治水は累代藩主の治政上の最大の課題であった。
48歳を迎えた享和元年(1801)、正賢は致仕して巣鴨の下屋敷に隠棲し、文政2年(1819)1月29日、66歳で病歿した。墓所は増山家累代の菩提所である上野東叡山勧善院に定められた。墓碑には正面中央に「慈雲院殿雪斎道智大居士」とあり、その下に葛西因是の撰文が誌されている。
雪斎はその号で、致仕ののち巣鴨に隠棲したことから巣丘隠人、石をことに愛でたことから石顛道人などと号し、ほかに君選、括嚢小隠、王園、灌園、雪旅、長洲(長州)、愚山、松秀園、蕪亭など多くの別号があった。在任中の治績の記録は乏しいが、生前はむしろ詩書、煎茶、囲碁、それに絵画などさまざまな文芸の分野に秀でた風流のひととして、尊敬を集めていた。
雪斎は博物学にも深い関心を示し、日頃から小虫の写生を怠らなかったといわれるが、その成果として残るのが、『虫豸帖』(東京国立博物館)として知られる写生帖である。
雪斎は一般に花鳥画家として知られ、「孔雀図」(図71)がその優れた作例としてあげられるが、今回の展覧会では、むしろそうした固着イメージとは異なるジャンルの作品をいくつか展示している。「山水図」(図72)・「青緑山水図」(図73)は雪斎としては比較的珍しい山水画であるが、いわゆる和臭の少ないその作風は、家臣で画人でもあった春木南湖や十時梅厓を長崎に派遣して修得させた最新の中国画の様式を取り入れたものと思われる。人物画も雪斎としては珍しいが、今展には「神農図」(図69)・「孔子像」(図70)の2点が出品されている。ことに「神農図」は、親しい交遊をもった月僊の人物表現に類似したところがみられ、その影響を思わせるものとして貴重である。
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風外本高(1779-1847)は、現在の度会都南島町押淵の農家に次子として生まれた。同村朽木竃の澄江庵徳岩曇瑞のもとで学び泰円と名乗った。8歳のとき和井野の円珠院安山泰穏について得度、やがて師に従って松坂の薬師寺に移った。このころ、伊勢の画僧月僊の粉本を入手してさかんにこれを模写したという。その後各地を行脚したのち、40歳で大坂天満の円通院に住した。55歳のときに三河足助の香積寺に招かれ、ここを拠点に尾張三河伊勢一帯に布教した。63歳で大坂の鳥鵲楼に隠退し、ここで示寂した(69歳)。
風外の画は年少のころから親しんだ月僊に似た草画で出発しているが、34歳のとき、出雲地方に旅し、このときを契機に画風が大きく変わる。出雲で、風外は簸川のデルタ地帯開発で財をなした勝部家に逗留するが、同家にはかつて池大雅も滞留したことがあり、大雅の作品が多く所蔵されていた。ここで大雅作品に親しく接するようになり、大雅に私淑すると同時に、その作品から多くを吸収したといわれている。
今回の展覧会に出品されているものでは、天保2年(1831)、53歳のときの「春景山水図」をはじめ、「山水図」(図76)、「山水図」(図82・永青文庫)などの山水画に、いずれも大雅の影響の跡が残る。
しかし、風外の特徴を最もよく示しているのは、「十六羅漢図」(図75・永平寺)で、金泥や鮮烈な彩色を駆使した幻想的な色彩空間は、風外独自のものである。
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画家や小説家など人気作家の手になる色紙や筆蹟を求める愛好家は現代も少なくないが、江戸時代にも高名な文人や画家たちの書画を熱心に蒐集する人たちがいた。
そうした人々は、目当ての画家たちが近くを訪れた際に自宅に招待してもてなし、また自ら画家たちのもとへ出向いて揮毫を依頼するなど様々な手を尽くしたようだ。
集められた書画は貼交屏風や画帖に仕立てられることが多く、それらは鑑賞の対象として、また蒐集家の文化性を他に示すものとして代々愛蔵されてきた。
飛騨高山の酒造家で長嘯亭と号した二木俊恭ら親子3代の蒐集になる「長嘯亨蒐集書画貼交屏風」6曲1双や、伊勢山田の古道具屋であった如意道人蒐集の書画集「如意道人蒐集書画帖」などが、こうした文人墨客たちの筆蹟集成としてよく知られている。
本展出品の書画帖と書画幅は、四日市市内の旧家に伝わった作例である。出品作以外にも、絵324点と書351点とからなる1792年(寛政4)から1827年(文化10)の間に蒐集された書画帖が残っている。
出品作の内、「諸名家合作書画」双幅は、1797年(寛政9)に制作されたことが箱書から知られる。他の「京城諸名人書画」双幅と「浪華諸名家合作書画」双幅には、制作時期を特定できる記事は伴わないが、京城篇は1807年(文化4)を遡る時期に、また浪華篇右幅は1799年(寛政11)頃、左幅は1823年(文政6)頃に制作されたらしいことが、書画幅中の年紀や箱書から推定される。
また、「諸家書画帖」は、1794年(寛政6)に京でつくられたことが序文から知られ、「諸家書画巻」は、1818年(文化15)に制作されたものという。
これらの書画集成では、画家では谷文晁、大原呑響、岡田米山人・半江父子、浦上玉堂・春琴父子、中林竹洞らの南画家に加えて司馬江漢や岡本豊彦らの名を挙げることができ、また書では菅茶山、大窪詩仏、皆川淇園、篠崎小竹、福原五岳、村瀬栲亭、亀田鵬斎ら当時の名高い文人学者たちが数多く参加している。
ここに残された作品は、いずれも蒐集家の求めに応じて短時間に描かれた小品で、肩肘張らない作者の自由な筆使いを見ることができるという点で鑑賞上も興味深いものであるが、より重要なのはこうした書画帖や画幅が、江戸および上方の文化の地方への普及のあり方の一端を示していることであろう。
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本居宣長画像については、1990年10月30日から11月25日まで松阪市の本居宣長記念館で「特別展示 宣長像のすべて」が開催され、13点の宣長像が出品されている。同館研究員吉田悦之氏によってその報告書(「本居宣長の画像について」『須受能屋』第5号 平成3年 財団法人鈴屋道蹟保存会本居宣長記念館)がまとめられており、同展に出品されなかったものも含めて31点にのぼる宣長像について、委曲を尽くして論じられている。
吉田氏によると、宣長像は大きく次の4種に分類することができる。①四十四歳像、②六十一歳像、③七十二歳像、④その他(歌仙図系・歴史画系・四大大人系・その他)。①、②には、宣長自身による自画像も含まれている。
今回出品のものは、そのうち③七十二歳像のひとつである。弟子のひとり殿村安守が宣長本人の許しを得て京都の画工祇園井特に制作を依頼したことが、箱書きなどからあきらかになる。
井特は、京都祇園に住み、一説によると青楼井筒屋を経営し、特右衛門と名乗ったため、号を井特と称したといわれる。円山派を学んだといわれるが、独特の豊麗であくの強い美人画で知られる。この宣長像は、いかにも井特らしいあくの強さが宣長像の理想化を抑え、その人間味を引き出すことに成功した佳作といえる。
また、宣長愛用の鈴屋ごろもの色や衣紋を忠実に再現していることで、資料的にも貴重なものといわれる。
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以下の作品は、この地方に伝えられている江戸時代の洋風画の作例である。
松平家の菩提寺照源寺伝来の「日本風景図」は、秋田蘭画の代表画家小田野直武の作で、近年の研究により、金沢八景と江ノ島とが描かれていることが明らかになった。本図は、使用されている印章や伝来などから、秋田藩主で画家としても知られる佐竹曙山の子義和から贈答品として松平定信に贈られた作品の可能性も指摘されている。
わが国で初めてエッチングを制作したことで知られる司馬江漢は、1798年(寛政8)に江戸愛宕山祠に油彩による懸額「相州七里浜図」を奉納し、江戸中の評判を集めた。これを契機に、江漢は描いた風景図のいくつかを懸額として各地の神社等に奉納した。
それ以前に、江漢は1788年(天明8)から翌年にかけて江戸から長崎への旅行を行ったが、その往路に伊勢地方に立ち寄り、画憎月僊に出会ったり、二見が浦を訪れたりしている。
こうしたことから神戸宗社・神館飯野高市神社伝来の「二見が浦図」は、江漢が各地の社寺に奉納した懸額の一つで、長崎旅行の際の写生をもとに寛政年間後期に制作されたものと考えられている。
また、先年亡くなったコレタターによって収集され、現在津市の某家に所蔵される江戸時代後期の洋風画および洋学関係の資料は、貴重な内容のコレクションとして研究者によって早くから注目されてきた。今回出品されるのは、絵画関係の主要な資料であるが、洋風画関係では江漢筆「泥炭掘図」「蝋燭作図扇面」、江漢絵付けによる「品川富士図盃台」などを初めとして、他にもいくつかの作品が蒐集されている。
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