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美術館 > 刊行物 > 学芸室だより > 三重県立美術館ではじめて担当した展覧会 > はじめて担当した展覧会(2) 田中善明 学芸室だより

お題:「三重県立美術館ではじめて担当した展覧会」

2005年8月(第2回)担当:田中善明

教育長から県庁で辞令を交付されたのが、今から13年前の7月1日。これからはじまる仕事について不安を抱きつつも、なんとかなるだろうと自分に言い聞かせ、きっと職場のみんながあたたかく迎えてくれるにちがいない、きっとそうだと信じていた自分が馬鹿でした。学芸室に足を踏み入れると、そこは緊迫した空気が充満。開館10周年の記念行事が目白押しで学芸員の誰ひとりとして余裕の表情がなく、ため息や怒鳴り声さえきこえてきました。

すっかりこちらも緊張してしまい、それと同時に「たいへんなところに行くことになったね。あそこの美術館には独自のきびしい三重方式というのがあるから心してかからないと・・・」と他館の学芸員から言われたことを思い出した。「やっぱり引き返そう、自分は場違いなところに来たのだから」と思った瞬間、陰里館長から「田中君、ちょっと来なさい。」と呼びつけられました。連れられた先は企画展示室。「韓国現代美術展」展示作業の真っ最中で、その仕事を見ることになりました。「まだ初日だから館長は、展示のなんたるかを教えてくださるに違いない」と少し安心し、館長が配列変更を指示する光景を他人事のような気持ちでながめていました。1時間ぐらいたったでしょうか、「田中君、これから僕たちは館内会議があるからあとよろしくね」。



それから2日ぐらい経ったでしょうか。福岡市美術館に作品返却に行くことになりました。まだ学芸員になりたてもいいところなのに一人での返却。しかも、毛利学芸課長から「福岡に行ってとんぼ返りなんかしたら承知しないぞ」といきなり叱られる始末。福岡市美術館の学芸員さんに、今近隣で開催している画廊などの展覧会の情報をいただき、急いで数件まわり、次の日は久留米の石橋美術館に行って帰ってきました。それから一月ぐらい経つと、曾我蕭白展の借用でお寺や個人宅を集荷。学生時代からアルバイトも含め、美術品の取り扱いはかなりの経験をもっていましたが、さすがにコレクターの前で掛け軸を巻き、点検することは緊張しました。

さきほど毛利が自分に叱ったと書きましたが、毛利は美術館準備室時代、室長から同じことを言われて叱られたことが後日判明しました。「出張したら最低3つの仕事をして帰ってこい!」と。



はじめて担当した展覧会ということですが、最初は常設展示を任され、そのあとに1993年度に開催の児島善三郎展を担当することになりました。これはいくつかの美術館を巡回する展覧会で、福岡市美術館(運命的)が幹事館で多くを切り盛りしてくださいました。こちらとしては、関西地域のいくつかの所蔵者の出品交渉と児島善三郎の年譜をつくることだけでよかったので、今となっては比較的楽な仕事でした。自分よりあとに三重県立美術館に入ってきた道田学芸員や生田学芸員に比べると、展覧会開催まで時間的に余裕があったという点(だけ)は幸せでした。たいへんだったのは、巡回先の美術館と全体の調整をとるために会議が何度かあったのですが、そのときに茨城の某近代美術館のKいずみさんと博多の夜を過ごさなくてはならなかったことです。Kいずみさんは、今はとっても穏やかになられ、水戸にお伺いするときにはKいずみさんにお会いするのがとても楽しみなのですが、その当時はまだKいずみさんも30台前半で、なんでもかんでもつっかかり、けんか腰になられる血気盛んな時期なのでした。このことは一部の方にしか理解していただけないことでしょうが、とにかくたいへんでした。ただ、シラフのときは、とことん文献などをお調べになり、その姿勢は見習うべきものでした。



展覧会のことはほとんど書きませんでした。あまりにもKいずみさんの印象が強かったもので・・・。

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