常設展示1996年度【第2期展示】 1996年6月25日(火)~9月23日(日)
第1室:明治・大正の洋画
明治・大正の洋画界を見渡せば、女性の作家はきわめてわずかしか数えることができない。これは、(人類の歴史上のほとんどの時代・地域同様)明治・大正の洋画もまた、自発的な表現意志の発露であるどころか、幾重にも重なり交差する社会的な条件(この場合は家父長制〉によって枠どられたものでしかないことの、ほんの一例である。
実際、近年の研究においては、日本の近代美術と呼ばれてきたものが、どのような条件下で成立したのかという点に焦点をあてたものが目をひく。たとえば北澤憲昭の『眼の神殿』(美術出版社、1989)によると、明治以前の日本においては、そもそも〈美術〉という概念が存在しなかった。このことばは明治5年(1872)はじめて翻訳語として作られたもので、しかも、これは明治以前から用いられてはいたが技術や学問を意味していたという〈藝術〉とあわせ、それらが今日使われているような意味に整理され定着するのは、明治20-30年代にいたる樽覧会、博物館、美術学校といった諸制度の確立の展開と歩みをともにしていたのである。美術成立前後の光景をかいま見るには、木下直之の『美術という見世物』(平凡社、1993)をひもとくにしくはない。そこでは、今日美術と呼ばれているものが、人形、写真、パノラマなどと同列の見世物として、見世物小屋や茶屋をにぎわしていたありさまが物語られている。また、川村清雄の『梅と椿の静物』のように、当時多かった縦長横長の油絵は、掛軸など同様、床の間や長押など、日本の伝統的な建築空間にかけることを想定したものだったという。
他方、ふたたび『眼の神殿』にもどると、日本洋画の創始者の一人とされる高橋由一が西欧の油彩に目を向けたものも、単にその写実性にひかれたばかりではなく、写実の綿密さが国家振興にとって有益な効用をもちうると考えられたからだった。そして彼らの活動によって、芸術はさまざまな諸技術から分離され、かつての〈書画〉から書、また茶やいけばなが分離される。近世西欧の美術の階級論にのっとる形で、絵画や彫刻に対し、応用芸術としての工芸は下位に位置づけられ、さらに、絵画の内部でも洋画と日本画の区別が生じることにもなった。
しかし皮肉なことに、展覧会や美術館を媒体とした美術が制度として根づくとともに、当初意識されていた美術の社会的な性格は、社会における他の諸領域から、少なくとも表面上は、相対的に自律した特権的なものとして宙に浮かされることになる。たとえば『白樺』が、一種の求道主義的な視点のもとに同時代の西欧の美術の状況を紹介し、柳宗悦らの民芸運動が無名の職人の手になる日常的な実用品を顕彰したとして、それはすでに、美術と社会の具体的直接的なつながりの喪失が前提になっていればこそなのかもしれない。日本近代の美術がよかれあしかれ公的な性格を前面に出すには、昭和中期のプロレタリア美術、戦争記録画、ルポルタージュ絵画等を待たなければならない。
視覚は、主体と客体との間の距離を前提とするがゆえに、知覚上の他の因子を排除し、見かけ上の中立性・純粋性を装う(それはあくまで見かけ上にすぎず、つねに対象を支配しようとする権力の欲望とからみあわずにはいないのだが)。展覧会や美術館など西欧近代に成立した美術という制度は、この視覚を軸にしたものだった。近代日本における美術は、近代天皇制や資本主義にからみつつ、こうした西欧のそれをなぞる形で成立したわけだが、現在、その成立の条件を問うた上でしか個々の表現の内実を斟酌しがたい、そして同時に、後者が前者に回収しきれない形でなりたちうるのかどうかが問題となる、そんな季節が到来しているようなのだ。
(石崎勝基)
作家名 | 生没年 | 作品名 | 制作年 | 材質 | 備考 |
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アントニオ・フォンタネージ | (1818-1882) | 沼の落日 | c.1876-78 | 油彩・キャンヴァス | (財)岡田文化財団寄贈 |
五姓田芳柳 | (1827-1892) | 婦人図 | 不詳 | 油彩・絹 | 寄託品 |
高橋 由一 | (1828-1894) | 光安守道像 | 不詳 | 油彩・キャンヴァス | 寄託品 |
岩橋 教章 | (1832-1883) | 鴨の静物 | 1875 | 水彩・紙 | |
川村 清雄 | (1852-1934) | ヴェネツィア風景 | c.1880 | 油彩・紙 | 井村二郎氏寄贈 |
川村 清雄 | (1852-1934) | 梅と椿の静物 | 不詳 | 油彩・絹 | 井村屋製菓寄贈 |
浅井 忠 | (1856-1907) | 小丹波村 | 1893 | 油彩・キャンヴァス | |
安藤仲太郎 | (1861-1912) | 梅花静物 | 1889 | 油彩・板 | |
中村 不折 | (1866-1943) | 裸婦立像 | c.1903 | 油彩・キャンヴァス | |
黒田 清輝 | (1866-1924) | 雪景 | 1919 | 油彩・キャンヴァス | |
藤島 武二 | (1867-1943) | 朝鮮風景 | 1913 | 油彩・キャンヴァス | |
藤島 武二 | (1867-1943) | 裸婦 | c.1917 | 油彩・キャンヴァス | |
岡田三郎助 | (1869-1939) | 岡部次郎像 | 1898 | 油彩・キャンヴァス | |
鹿子木孟郎 | (1874-1941) | 津の停車場(春子) | 1898 | 油彩・キャンヴァス | 鹿子木良子氏寄贈 |
鹿子木孟郎 | (1874-1941) | 狐のショールをまとえる婦人 | 1902 | 油彩・キャンヴァス | |
青木 繁 | (1882-1911) | 自画像 | 1905 | 油彩・紙 | |
萬 鐵五郎 | (1885-1927) | 山 | 1915 | 油彩・キャンヴァス | |
萬 鐵五郎 | (1885-1927) | 木の間よりの風景 | 1918 | 油彩・キャンヴァス | |
萬 鐵五郎 | (1885-1927) | 庭の花 | 不詳 | 油彩・キャンヴァス | 寄託品 |
清水 登之 | (1887-1945) | 風景 | 1921 | 油彩・キャンヴァス | |
清水 登之 | (1887-1945) | チャプスイ店にて | 1921 | 油彩・キャンヴァス | |
中村 彝 | (1887-1924) | 髑髏のある静物 | 1923 | 油彩・キャンヴァス | |
小出 楢重 | (1887-1931) | パリ・ソンムラールの宿 | 1922 | 油彩・板 | |
小出 楢重 | (1887-1931) | 裸女立像 | 1925 | 油彩・キャン・買@ス | |
安井曾太郎 | (1888-1955) | 女立像 | 1924 | 油彩・キャンヴァス | 第三相互銀行寄贈 |
岸田 劉生 | (1891-1926) | 麦二三寸 | 1920 | 油彩・キャンヴァス | |
村山 槐多 | (1896-1919) | 自画像 | c.1914-15 | 油彩・キャンヴァス | |
前田 寛治 | (1896-1930) | 風景 | c.1924 | 油彩・キャンヴァス | |
関根 正二 | (1899-1919) | 天使(部分) | c.1918 | 油彩・キャンヴァス | (財)岡田文化財団寄贈 |
若林 奮 | (1936- ) | 中に犬2 | 1968 | 鉄 |
第2室:月僊と三重の近世絵画
月僊は1741年(寛保元年)名古屋の生まれ。俗姓は丹家氏、商家で、一説には父は味噌商を営んでいたという。7歳の年に得度し、玄瑞の名を与えられる。十代で江戸の芝増上寺に入り、定月大僧正から月僊の号を賜った。修行のかたわら、桜井雪飴(山興)という雪舟派の画人に就て画技を学んだといわれる。1769年(明和6)、29歳のころ、江戸を離れ京都に移る。京都では知恩院の檀誉貞現大僧正に就き、その後同院の役僧となり、1774(安永3年)、34歳の年に檀誉の命で伊勢山田にある知恩院末寺の寂照寺に第8世の住持として遣わされることになった。
寂照寺は古市という歓楽街に近く、そのため破戒僧がつづき、当時衰微を極めていたという。月僊派遣の目的は同寺の再興にあったといわれるが、月僊もそれに応え、画料を寂照寺の復興や貧民救済に充てるなどした。
京都時代、一説に月僊は円山応挙に師事したといわれる。この説に対しては、月僊自身はなにも語らないし、積極的に支援する同時代資料にも欠けるが、山水や樹木、動物表現に応挙のきわめて大きな影響がみられるのは事実といえる。さらに『画乗要略』は、京都時代の月僊が応挙に師事する一方で、与謝蕪村に私淑することがあったと記している。たしかに月僊は山水画の分野に、応挙から借用したモチーフを蕪村風のやわらかい淡彩山水で包みこんだような、写生と南画の折衷のうえに立脚する固有の様式を造りあげているのをみることができる。また人物画においても、蕪村に紛うような疎荒な表現はみられ、蕪村画学習の形跡をうかがわせる。
今回出品されている「西王母図」は、京都に移ったばかりの頃に描かれたと考えられるもので、雪館の影響を如実に示しており、月僊ならではの画風はまだ姿を現していない。一方「山水帰牧図」は、月僊様式の典型を示すものだが、そこには、応挙や蕪村の影響がみてとれ、月僊の先人学習の成果が反映されていることがわかる。
田能村竹田はその著『山中人饒舌』のなかで月僊を谷文晁(1763~1840)と比較して次のように評している。
を用ひて、少しく之を湊合す、蓋し谷子は、大に古法を存す、月仙(マ
マ)に至りては、専ら新裁に出で古法全く尽く-(中略)-今、仙の
画を観るに、人物簡にして疎朗、迫塞する処無し、多作に因ると雖も、
漸く精熟を致せり、又是れ天趣、諸れを時輩に比するに、迥かに異れり、
(原漢文)
「撥墨惜まざる」用筆遒勁な谷文晁に対して「痩筆乾擦、後淡墨を用」いてのちにそれを湊合(総合)したという草々とした筆墨に月僊の画風の特徴があるという竹田の指摘は、私たちが現在眼にする月僊の典型的な作風と一致している。また、「人物簡疎にして明、迫塞する処無し」という短い評言はたしかに月僊の人物画の様式的特質をするどく衝いている。竹田はこのような特質を「多作に因る」と判断しているが、はたして多作を様式的特質の唯一の成因と言い切ってよいかどうかは別にしても、たしかに“多作”を可能にする簡明な表現であることは誰の目にもあきらかであろう。
しかし、月僊の素描的ともいってよい簡明な表現は、竹田が「新裁」という言葉で表現したように、当時、きわめて斬新なものとして受けとめられたものであったことは知っておく必要がある。
(山口泰弘)
作家名 | 生没年 | 作品名 | 制作年 | 材質 | 備考 |
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月 僊 | (1721-1809) | 西王母図 | 1770 | 絹本著色 | 小津家寄贈 |
月 僊 | (1721-1809) | 山水帰牧図 | 紙本墨画淡彩 | ||
鶴 亭 | (1722-1785) | 韓天寿賛点産奇葩図 | 紙本墨画 | ||
池 大 雅 | (1723-1776) | 山水図 | 紙本淡彩 | ||
曾我 蕭白 | (1730-1781) | 周茂叔愛蓮図 | 紙本墨画 | ||
曾我 蕭白 | (1730-1781) | 波濤群鶴図(旧永島家襖絵) | 紙本墨画淡彩 | ||
曾我 蕭白 | (1730-1781) | 許由巣父図 | 紙本墨画 | (財)岡田文化財団寄贈 | |
曾我 蕭白 | (1730-1781) | 夏景山水図 | 紙本墨画 | 寄託品 | |
青木 夙夜 | ( -1802) | 琴棋書画図 | 1795 | 紙本墨画淡彩 | |
青木 夙夜 | ( -1802) | 富嶽図 | 絹本著色 | ||
増山 雪斎 | (1754-1819) | 花鳥図 | 1814 | 絹本著色 | |
増山 雪斎 | (1754-1819) | 百合に猫図 | 絹本著色 | ||
歌川 広重 | (1797-1885) | 東海道五三次(丸清版) | 1847-51 | 木版画・紙 | |
小清水 漸 | (1944- ) | 作業台 水鏡 | 1981 | シナ合板、ウレタン塗装 | (財)岡田文化財団寄贈 |
第3室:ゴヤとスペイン美術
堅実な写実による軍人の肖像画と、戦争のあらゆる悲惨を劇的に描き出した版画集。三重県立美術館が所蔵するゴヤの二作品は、画家としてのあくまで冷静な視線に通底するものがあるものの、油彩画と銅版画という技法の相違を越えて、スペインが生んだ最も重要な画家の一人であるゴヤのうちに、ある種の断絶を感じざるを得ない二つの面が含まれていることを図らずも示している。一方は首席宮廷画家にまで登り詰め、大作「カルロス4世の家族」をはじめとする多くの肖像画を描いたゴヤ、他方は「黒い絵」と呼ばれるシリーズを遺した特異な想像力の画家としてのゴヤである。この分裂したゴヤ像は、その際だった才が、彼自身の複雑な生涯と当時スペインが置かれていた過酷な状況を背負ったとき、必然的に生み出されたものといえるかもしれない。
近代以前のほとんどの画家同様、ゴヤも一つの職業として画家を選んだ。初期には聖堂の壁画などに加え、タピスリーの原画を描くことで生計を立てていたが、やがて肖像画によって人気を得、念願の宮廷画家就任後も、様々な注文に応じて数多くの肖像画を制作している。「騎兵アルベルト・フォラステールの肖像」は、そうした肖像画の一つである。当時権勢を誇ったゴドイ将軍をはじめとする軍人の肖像画を同時期にゴヤは何点か描いている。フォラステールはゴドイの部下の司令官であった。ときに残酷なまでに肖像主の真実の姿を捕らえる彼の洞察力は、一見平凡なこの肖像画にも生きている。
ところが、1796年、50歳の頃から、ゴヤは注文制作のための準備習作とは性質の異なる素描、いわば自発的に描かれた素描を数多く遺すようになる。女性の様々なポーズや官能的な姿を素早い筆致で捕らえた素描に始まり、人間存在そのものに内在する複雑きわまりない多様性へとゴヤの関心は広がり、やがて『戦争の惨禍』のもとになる素描が描かれるようになる。注文に応じて制作する宮廷画家としてではなく、自らの止むに止まれぬ内からの力に従って、次第に表現の内容も技法も広げていくゴヤの姿がはっきりとそこには見て取れる。もちろん変化は素描に留まらなかったが、その背後では、ゴヤが生きてきた基盤をあらゆる意味で根底から覆すような事件が、ゴヤ個人にも、またスペインにも相次いで起きていた。すなわち、ゴヤは宮廷画家就任からわずか3年後の1792年に重病に罹って聴力を失い、また歴史的には、1808年に起きたナポレオン即位後のフランス軍によるスペイン侵攻に始まり、それに対するスペインの独立戦争、マドリードの飢饉、さらにその後の国王フェルナンド7世による反動的な政治などが次々と続いたのである。
ゴヤがナポレオン軍のスペイン侵攻を告発した絵画として「1808年5月3日」が名高い。しかし画面こそ小さいものの、国、時代を問わず、戦争と名の付くものにおいて必ず繰り返されるあらゆる「惨禍」を80点のうちに描き切ったかに思われる版画集(正確には、65番以降は反動政治に対する象徴的な諷刺が主題となっている)の力はさらに圧倒的であるように思われる。そのなかには、人間の最も野蛮で残酷な行為を正面から描いたものもあれば、闇のなかに顔を隠した人物が孤独に佇む静謐な画面もある。いずれにしてもゴヤは、当時としては珍しく、自ら銅版に取り組んで大胆に技法の実験を試み、モノクロームに潜む表現力を存分に引き出している。『戦争の惨禍』に正確なドキュメンタリーを越えた深味を与えているのは、この光と闇の多彩な表現である。
1810年から20年にかけて制作したと考えられるこの銅版画集をゴヤ自らが公表することはなかった。公刊されたのは彼の死後はるか後の1863年のことである。『戦争の惨禍』と並行する形で、またその後も、ゴヤの洞察力と想像力は留まるところを知らず、人間性の暗い闇を探り続けた。『戦争の惨禍』の第79番は「真理は死んだ」、第80番は「彼女(=真理)はよみがえるだろうか」である。ゴヤの生きた時代は「近代」誕生の前夜、フランス革命と啓蒙思想の時代でもあった。その近代の光を一旦垣間見たゴヤは、絶望の深い闇のなかでも、最後までそのかすかな光を探り当てようとしていたのだろうか。
(土田真紀)
作家名 | 生没年 | 作品名 | 制作年 | 材質 | 備考 |
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バルトロメー・エステバーン・ムリーリョ | (1617-1682) | アレクサンドリアの聖カタリナ | 1645-50 | 油彩・キャンヴァス | |
スルバラン派の画家 | 聖ロクス | 17世紀 | 油彩・キャンヴァス | 有川一三氏寄贈 | |
フランシスコ・デ・ゴヤ | (1746-1828) | 騎兵アルベルトフォラステール | 1804 | 油彩・キャ・塔買@ス | (財)岡田文化財団寄贈 |
フランシスコ・デ・ゴヤ | (1746-1828) | 戦争の惨禍 | c.1810-20 | 銅版画・紙 | |
パブロ・ピカソ | (1881-1973) | ロマの女 | 1900 | パステル、油彩・紙 | 寄託品 |
パブロ・ピカソ | (1881-1973) | ふたつの裸体 | 1909 | 銅版画・紙 | |
パブロ・ピカソ | (1881-1973) | 女の顔 | 不詳 | 陶版画 | 寄託品 |
ジョアン・ミロ | (1893-1985) | アルバム13 | 1948 | 石版画・紙 | |
ジョアン・ミロ | (1893-1985) | 岩壁の軌跡 | 1967 | 銅版画・紙 | |
ジョアン・ミロ | (1893-1985) | 女と鳥 | 1968 | 油彩・キャンヴァス | (財)岡田文化財団寄贈 |
アントニ・タピエス | (1923- ) | ひび割れた黒と白い十字 | 1976 | ミクストメディア・紙 | |
エドゥアルド・チリーダ | (1924- ) | ビカイナX Ⅵ | 1988 | 銅版画・紙 | |
エドゥアルド・チリーダ | (1924- ) | エルツ | 1988 | 銅版画・紙 | |
ホセ・ルイス・アレクサンコ | (1942- ) | ソルダイヴァー | 1990 | 油彩他・キャンヴァス | |
アルフォンソ・アルバセテ | (1950- ) | 幻影1 | 1990 | 油彩・キャンヴァス |
作家名 | 生没年 | 作品名 | 制作年 | 材質 | 備考 |
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イサム・ノグチ | (1904-1988) | スレート | 1945 | ブロンズ | |
浅野 弥衛 | (1914-1996) | 銅版画 | 1973-1994 | 銅版画・紙 | |
向井 良吉 | (1918- ) | レクイエム | 1987 | 白銅 | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題 | 1971 | 鉄・ステンレススティール | |
保田 春彦 | (1930- ) | 都市1・2/試作(1・2) | 1985 | 鉄・赤錆 | |
江口 週 | (1932- ) | 漂流と原形 | 1981 | 楠 | |
鈴木 道子 | (1954- ) | PLANT-C | 1995 | 銅版画・紙 | |
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オシップ・ザッキン | (1890-1967) | ヴィーナスの誕生 | 1930 | ブロンズ | 岡三証券寄贈 |
清水九兵衞 | (1922- ) | FIGURE-B | 1986 | アルミニウム | |
飯田 善國 | (1923- ) | Xのコンストラクション | 1987 | 木、着色麻ロープ | |
多田 美波 | (1924- ) | 曙 | 1982 | テラコッタ、ステンレススティール | |
江口 週 | (1932- ) | ふたたび翔べるか 柱上の鳥 | 1963 | 楠 |
作家名 | 生没年 | 作品名 | 制作年 | 材質 | 備考 |
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ジャコモ・マンズー | (1908-1991) | ジュリアとミレトの乗った大きな一輪車 | 1973 | ブロンズ | 百五銀行寄贈 |
多田 美波 | (1924- ) | 作品91 | 1991 | ステンレススティール | |
湯原 和夫 | (1930- ) | 無題 | 1982 | 鉄・ステンレススティール | 井村屋製菓寄贈 |
井上 武吉 | (1930-1997) | my sky hole 82 | 1982 | 鉄・ステンレススティール | |
井上 武吉 | (1930-1997) | my sky hole 85-6 | 1985 | 鉄 | |
番浦 有爾 | (1935- ) | 風 | 1990 | ブロンズ | |
田畑 進 | (1944- ) | NOKOSARETA-KATACHI | 1982 | ステンレススティール・黒御影石 | |
八ツ木 のぶ | (1946- ) | 象と人(異邦の夢) | 1988 | ステンレススティール・ウレタン塗装 | |
梶 滋 | (1951- ) | 円柱とその周辺 | 1986 | アルミニウム | |
石原 秀雄 | (1951- ) | 暗室の王 | 1994 | 白御影石 | |
松本 薫 | (1952- ) | Cycle-90° | 1992 | ステンレススティール |