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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > Hill Wind (vol.11~24) > 金刀比羅宮と高橋由一 美術館ニュース Hill Wind 18(2008年3月)

金刀比羅宮と高橋由一

荒縄に吊り下げられた鮭の油絵で知られる高橋由一。明治時代のはじめ、西洋画法の普及に尽力した彼は、まさしく日本の油絵の父ともいえる存在です。江戸時代の嘉永年間、偶然目にした西洋の石版画を見て感動し、西洋画技法の習得を目指しますがその機会はなかなか訪れず、ようやく35歳のときに幕府の洋学教育機関だった洋書調所画学局に入局。しかし、そこでも由一の目指すものとはかけ離れたものでした。明治維新を間近に控えた1866(慶応元)年、イギリス人のニュース特派員チャールズ・ワーグマンが横浜にいることを知り、本格的に油絵を学び、1876(明治9)年には政府のお雇い外国人として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージから高度な油絵技術を教わり、由一の表現は飛躍的に上達しました。

 

こうした貪欲な技法摂取の一方で、由一は画塾経営にも乗り出し後進の指導を怠りませんでした。彼の指導を受けた生徒たちのなかには原田直次郎や安藤仲太郎といった画家のほか、図画教師として全国の学校で活躍した人も多く、明治期の美術教育に重要な役割を果たしました。志が高く、損得よりも日本の文化や社会向上のために尽くそうとした由一でしたが、画塾の応募者は日増しに多くなり、その拡張資金が必要となりました。そこで由一が目をつけたのは、文化のパトロン金刀比羅宮です。1878(明治11)年の夏、由一は伊勢神宮にほど近い《二見ヶ浦》を描いた油絵を金刀比羅宮へ送りつけ、金刀比羅側は由一の絵を評価、翌年には35点を奉納し、その見返りとして拡張資金の一部を受けとることができました。

 

現在金刀比羅宮所蔵の高橋由一の油絵は27点にのぼります。それらは初期から絶頂期のものを含み、西洋の絵画技術に日本人の情緒を織り交ぜた、由一の油絵の魅力を語るのに十分といえる質と量を誇っています。(Ty)

 

年報:高橋由一展(1994)

 

高橋由一「左官」「月下隅田川」修復報告(2010.1)

 

※この記事は2008年3月15日発行「Hill Wind 18」に掲載されたものです。
 
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