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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.71-74) > 高橋由一作《光安守道像》と《丁髷姿の自画像》

研究ノート

高橋由一作《光安守道像》と《丁髷姿の自画像》

田中善明

個人作家の展覧会の開催が予定されたとき、その準備の段階では、あらゆる情報を頼りにその作家の作品所在調査をすることになる。それでもいざ展覧会がはじまると、開催以後に作品が発見されることがたびたびある。そのほとんどは個人蔵の作品で、過去の展覧会に一度も出品されたことがないか、あるいは市場には出ずに保管されていたもので、所蔵者が展覧会の情報を聞きつけ開催中に報告してくださることで初めてわかることが多い。《光安守道像》(fig.1)も当館で1994年に開催した「没後100年 高橋由一展」の会期終わり頃にご夫婦で来館された方がご所蔵の旨をお教えくださり、後日ご自宅にお伺いして現物を拝見、元は洋画家岡田三郎助のアトリエに長く飾ってあったらしく、現在は当館に寄託していただいている。

 

状態および表現方法

 

本作品は、1平方cmあたり平均縦糸17本、横糸19本で、天地方向が縦糸、中目に属する麻布に白色の地塗りが施されている。裏面(fig.2)を見ると、中桟のない木枠の左中央やや下には毛筆で「高橋由一」の署名(fig.3)、下の木枠中央にも少し略字体だが同人物の筆記(毛筆)で右から左にかけて横書きで「高橋由一」の署名(fig.4)がある。さらに右の木枠中央やや上部には「光安」とあり、署名の筆記と同一人物であることに疑いはない。写生帖や石版画などに見られる高橋由一の字体は、楷書体から草書体までさまざまなバリエーションがあるが、「橋」の木偏部第四画目を省略するところなど、これらの署名は由一の書体と一致する(fig.5)

 

キャンヴァス裏面の、木枠に覆われていない麻布の左側には「光安守道」と縦書きされているが、他の字体とは明らかに異なる。木枠の四隅に楔の穴がそれぞれ2箇所ずつ合計8箇所開いているが、現存する楔は右上の2箇所と右下の奥1箇所である。左側の木枠上下の楔穴は左側の木枠だけに楔穴が開いていて上下の枠にはないのが不自然である。しかし、この不自然さには理由があった。キャンヴァスの側面を観察すると、先ほどの左側の木枠側面にのみ絵柄が続き(fig.6)、他の3側面は地塗りのままであること、さらに、左側の木枠に接する上下の木枠の裁断部が職人ではないものがおこなったと思われるいびつな断面をしていること、そして左側木枠の上下には5箇所ずつ釘が打たれ、明らかに上下の木枠と左側の木枠を接合・固定する目的で打たれていることである。つまり、描いた画像のバランス、あるいは額縁の大きさを考え、画面向かって右側を割愛するために、木枠の上下を切断して縮め、張り直したに違いない。裏面の木枠に2箇所も「高橋由一」の署名があるのはこの改造によるものなのだろう。また、キャンヴァスを張る際、四隅に余った布を折り込む方法は、それぞれの画家やメーカーにより異なることが多いが、本作品は、右側と左側では折り込み方が異なっている。由一自身が改造したとなれば、改造部分の、余った布を一旦内側にねじ込み、上下の辺で折りたたむこの方法は高橋由一作品であるかどうかの決め手のひとつとなるかもしれない(fig.7)

 

紫外線蛍光灯による蛍光反応を観察すると、ほぼ全面に緑黄色を呈しているので、マスティックやダマールなどの天然樹脂ワニスが塗布されているものと考えられる。ワニスは、髪から着物の左半分にかけての大部分が艶を失っている。頬の一部では、まったく蛍光反応を示さず黒く見えた。キャンヴァス裏面の、ちょうど人物の頬にあたる部分には黒い、水性のしみがあることから、特にワニスの分解が進んでいるものと思われる。補彩ではないだろう。

 

エックス線写真(fig.8)と本作品を比較観察すると、人物の背景はかなり暗めの灰色でありながらエックス線像では白く浮き上がっている。これは鉛白を混ぜ合わせた絵具が比較的厚めに塗られたことによるもので、背景と接する後頭部や衣服よりも厚くなっているため、相対的に人物像の周囲の絵具層が薄く手前は厚く見え、人物の立体感を増している。鉛白を使用した明暗の組み立て方はおおむね的確であり、描き直しがない。耳の描き方など稚拙なところも残るが、油絵の描き方をある程度習熟した頃の作品であろう。羽織の紐に見られる絵具の粘りを生かした部分は、金刀比羅宮所蔵の静物画にも通じる。頭部には髷のような突起がかろうじてうかがえるものの、エックス線像や赤外線画像では確定することができなかった。

 

本作品に用いられている額縁は、木の土台に石膏で地塗りがされ、その上に褐色の塗料、最も表面には金泥が施され、研ぎ出しにより下の褐色がところどころ見える。相当古いものであるが、制作当初のものであるかどうかは不明である。額裏左上には円形のシールが貼られていて、「TSUKASA」の文字と獅子らしき画像が印刷してある。前述の「没後100年高橋由一展」では同じ形状の額縁はなかった。

 

「光安守道」という人物については、さまざまな人物事典などを参照してみたが、全く不明である。羽織の家紋「丸に梅鉢」は、全国的に多くの姓で用いられているため、手がかりにはならなかった。

 

《丁髷姿の自画像》との比較

 

前述のように、この肖像画のエックス線像では、鉛白を用いた明暗表現の巧みな組み立てが観察されたが、実際の作品を表面から観察すると、陰影部の表現にぎこちなさを感じる。1881(明治14)年作の《上杉鷹山像》や《大久保甲東像》では絵や写真をもとに描いたために、由一の持ち味である材質感への執拗なこだわりを発揮できていないが、それでも油絵を何十枚も描いた経験を感じさせる、手馴れた運筆が観察でき、《光安守道像》とは一線を画している。近年発見された《琴陵宥常像》(1881)にしても、人物の立体的な把握は光安像以上に的確である。より制作年代がさかのぼるとなると、同様に人物像であり、由一最初期の重要な作品である《丁髷姿の自画像》(fig.9)と比べてみるとどうなるだろうか。

 

ふたつの作品は描かれた人物こそ異なるが、どちらも右向きであり、斜めから捉えたその角度までがほぼ同じである。技術的な点では、油絵具の透明性を生かした描き方を駆使している点、立体としての人物像の把握、大胆な筆裁きと細部の描きこみが画面上で均衡を保っているかどうかという点において《丁髷姿の自画像》がわずかに勝っているように思える。ただし、《丁髷姿の自画像》は綿布に白い地塗りを施したキャンヴァスに対し《光安守道像》は既製の麻布キャンヴァスに描かれているという点もあり、後者が前者よりも古い時代に描かれたと単純には断定できない。かなり近い時期である可能性が高いが、ここで問題となってくるのは、《丁髷姿の自画像》自体の位置づけである。

 

《丁髷姿の自画像》の制作年代は、現在1866~67年となっているが、再考の余地がないわけではない。制作年決定に大きく影響していると思われる高橋たかによる裏書「これは/高橋由一の四十才ころの/肖像なり/源吉妻/高橋たか/七十才」を信じるとすると、由一が40歳ころのときは1867年ころとなるが、70歳の高橋たかがはるか昔のことをどの程度の精度をもって記憶し、裏面に記述したのだろうか*1。また、この肖像画は、一旦完成したのちに肩の線など、墨線でかたちの修正がおこなわれており、この修正について坂本一道は「師であるワーグマンの手である可能性もなくはない」*2と言及している。たしかに、これほどの的確な修正はワーグマンと考えるのが妥当であるだろうが、1866年のワーグマンとの邂逅の年あるいはその次の年に由一が描きワーグマンが修正した根拠とはならない。明治に入ってもワーグマンとの親交がつづいていたことは、1869年由一が東京府役所に同居願を申請したことからも明らかである。さらに、この肖像が「丁髷姿」であることが、慶応期に制作年代をおちつかせる吸引力のひとつになっているのかもしれないが、散髪脱刀令は1871(明治4)年で、天皇が散髪した1973(明治6)年にはようやく東京人の75%が散髪をしたというから、丁髷姿の人物を明治に入ってから描くことは可能であった。近年発見され、制作年代が1872年と判明している《小幡耳休之肖像》(fig.10)と比べてみると、支持体の綿布(《丁髷姿の自画像》)と麻布という差はあるとしても、褐色の油絵具による下素描を生かした陰影表現でありながら、濃い褐色で顔面の陰を描き直し、結果として陰がしみのように顔にくっついている印象を与える少し稚拙なテクニックは共通しており、より近接した制作年としてもおかしくはないだろう。

 

横道にそれてしまうが、はたして丁髷姿は由一自身なのだろうか。高橋たかによる《丁髷姿の自画像》裏面の文字「これは/高橋由一の四十才ころの/肖像なり/・・・」は、この作品が由一の自画像とされる根拠とはなっているようだが、この文字は「高橋由一が四十才の頃に描いた別の人物の肖像」と読み取ることも可能である。さらに、裏面右上には「高橋由一/丁髷姿の自画像/日本初期洋画研究所」と書かれたシールが貼られているが、日本初期洋画研究所は、詩人であり数寄屋橋で三笠画廊を経営していた広瀬操吉(1895~1968)が自宅で開設していた研究所であり、当然広瀬は高橋由一と関係がなく、高橋たかの文字を単に自画像と解釈してしまった可能性もある。

 

この肖像と、『写生帖Ⅱ』(東京藝術大学大学美術館蔵)に綴られている明治15年55歳の時に写された自画像(fig.11)を比べてみると、年齢こそ異なるものの、《丁髷姿の自画像》では由一の特徴的な大きな耳たぶがそれほど大きく表現されていないこと、瞼上部の形状が異なることなど、もし《丁髷姿の自画像》が本当に由一の自画像であったとするならば、明らかに異なっているもみ上げから額上部にかけての髪の生え際の角度は老化現象を多少考慮するとしても、10数年で容貌が劇的に変化したとしか考えられない*3。2枚の鏡を駆使して描いたか、もしくは写真をもとに自画像を描いたかという説もあるが*4、この肖像画には、筆のタッチを効果的に利用しながら懸命に質感を写し取ろうとする真摯な姿勢が見て取れることからも、片方の鏡を斜めにしてのぞき込んで描くことや、カラーではない写真を描き起こしたと考えるのは不自然である。

 

上記の点から、《丁髷姿の自画像》は現存する由一の最初期の油絵でありながら多くの解決されていない問題が残されているように思われる。今後《光安守道像》の位置をさぐるためには、制作年代の確定している《小幡耳休之肖像》、あるいは肖像画ではないが金刀比羅宮収蔵の初期静物画、風景画などを綿密に比較観察する必要があるだろう。

 

(たなかよしあき・学芸員)

 

 

高橋由一「左官」「月下隅田川」修復報告(2010.1)

 

(fig.1)

(fig.1)

 

(fig.2)

(fig.2)

 

(fig.3)

(fig.3)

 

(fig.4)

(fig.4)

 

(fig.5)

(fig.5)由一の書体

(部分『写生帖 Ⅳ』より

 

東京藝術大学大学美術館蔵)

 

 

(fig.6)

(fig.6)

 

(fig.7)

(fig.7)張り直された方の

キャンヴァス角の折りたたみ部分

 

 

(fig.8)

(fig.8)右上と右下に見えるそれぞれ5個の白い点は裏面から打たれた釘の像。

 

(fig.9)

(fig.9) 《丁髷姿の自画像》

(笠間日動美術館蔵)

 

 

*1 青木茂(同氏編『高橋由一油画史料』p.488 1984年)によると、高橋たかは関東大震災の翌年、被災者用のバラックで死亡。年は66、7であったらしい。《丁髷姿の自画像》裏面文字と年齢が一致しないことはさておき、制作年と高橋たかの死亡は50年以上の隔たりがある。

 

(fig.10)

(fig.10)

 

*2 坂本一道『高橋由一』新潮日本美術文庫23 1998年 新潮社

(fig.11)

(fig.11)

 

*3 最近刊行された「高橋由一開国ものがたり」(『週刊日本の美をめぐる』no.42 p.5 2003年 小学館)では、「つりあがった眉や頬骨の張り、突き出た唇などの特徴は晩年のスケッチとも一致」と書かれているが下唇の形状など厳密には一致していない。

 

*4 荒木康子「作品解説《丁髷姿の自画像》」 『没後100年 高橋由一展』p.221 1994-95年

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