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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.71-74) > 高村光雲《老猿》の周辺

高村光雲《老猿》の周辺

毛利伊知郎

 《老猿》はいうまでもなく、猿や矮鶏、猫、狆、鹿、栗鼠などを主題とする動物彫刻は、超人的な木彫技術と精緻な表現によって、数多い高村光雲の作品を代表するものである。しかも、それらは日本近代における「美術」の在り様(1)、光雲の中にある伝統的な要素と西洋的なものとの関係など、大きな時代の転換期を生きた光雲と関わる興味深い問題を提起してくれる。本稿では、そうした問題の一端を《老猿》を中心に検討しておきたいと思う。

 

 《老猿》を光雲の代表作とすることに異を唱える人はいないだろうし、近代彫刻としては数少ない重要文化財に指定され、その価値は既に公認されているといってよいだろう。しかし、本像の厳密な位置づけとなると、現状では論者によって振幅が認められるのは、以下に引いたいくつかの論評を見れば明らかだろう。

 

(1)「西洋彫刻の規範でははかれない独自の姿勢を感じさせる作品」(2)

(2)「新旧の諸要素があたかも交差点のように交じりあっている」(3) 

 

(3)「仏師として江戸時代から連続的に持ち越されてしまった部分が《老猿》の中にも、その構成という重要なところに現れている」(4)

 

(4)「近世以来の、いわゆる置物彫刻の要素を根づよく残した、「巨大な置物」ともいうべき一面をもっている」(5)

 

(5)「綿密な観察に基づく迫真的な表現を写実的に表したもの」

 

   「明治前半期における日本の伝統的木彫の進路を方向づけた優品」(6)

 

 

 これらの《老猿》評は、本像の写実表現が示す新しい要素をより重視する立場、それとは逆に伝統的な要素をより重視する立場、新旧両要素を同等に認める立場に大別してよいだろう。

 

 ところで、光雲によると《老猿》は、浅草奥山の猿茶屋から借り出した猿をモデルに制作したと光雲自身語っているが、そのスケッチが今も残っている(挿図1)。しかし、この写生と完成した彫刻との間には見過ごすことができない差異が認められる。最も大きな相違は、墨でスケッチされた猿が、むしろ実際の猿に近い姿と表情を示しているのに対して、完成作《老猿》の猿は、あたかも猿の姿をした人間であるかのような印象を私たちに与える点である。

 

 四肢の長さを含めて、全体のプロポーションも、猿というよりは人間のそれに近いように見受けられる。このことは、科学的な正確さを追究した写実のみでは《老猿》が生まれ得なかったことを示しているといえるだろう。

 

 見る者に強い印象を与えるために、光雲は猿の姿と表情を人間に擬するとともに、取り逃がした鷲を見やる猿という物語性を加える操作を行っている。

 

 《老猿》制作に際して、松雲元慶作の五百羅漢像など江戸時代仏教彫刻を光雲はヒントにした可能性が高いと田中修二は指摘している(7)。《老猿》が和洋混淆の上に成立している作品であり、仏師出身という光雲の出自を考えると、この指摘は興味深いものだが、《老猿》のヒントとなったのはそれだけではないことも確かだろう。

 

 「仏臭を脱して写生的に新しくやって見たい」と常々考えていた光雲は、「西洋から輸入してきたいろいろの摺り物、外字新聞の挿画のようなものや、広告類の色摺りの石版画とか、またはちょっとした鉛筆画のようなもの」を「いろいろの機会に見附け次第、買ったり借覧した」という(8)

 

 今も残るそうした摺り物などを光雲が貼り交ぜたスクラップ帳には動物をモチーフとした西洋の各種版画類、西洋彫刻を表した印刷物などを見ることができる。もっとも、片々たる印刷物や版画を基にして、直接に《老猿》のように大きな立体構成を行うのが不可能なことはいうまでもないが、西洋美術に対する貪欲ともいえる関心を持ち、また「仏臭」のない彫刻を追究していた当時の光雲が、立体表現の面で江戸期以前の仏像をどこまで参照したかはさらに議論すべき事柄ではあろう。

 

 これらスクラップ帳には、人間や動物を単純なかたちに当てはめたラフな構想図が多数描き込まれた頁があるが、これらの下図を見ていると、光雲が彫像のポーズ決定や立体構成に当たって、意外と新しい考え方を取り入れようとしていたことが窺われる(挿図2)

 

 もちろん、《老猿》制作に当たって、光雲が江戸期以前の木彫を参照していることも否定することはできないだろう。たとえば、《老猿》の瞳に嵌入された黒石がその例である(挿図3)。また、《老猿》以外の動物彫刻でも、《矮鶏》の眼にはガラスと黒石が、《葡萄に栗鼠(鏡縁)》では栗鼠の眼にガラスが嵌入されているのを見ることができる。

 

 こうした眼にガラスや鉱物を嵌入することからは、仏像彫刻における玉眼、あるいは黒石を使用する技法が連想されるであろう。光雲自身は、動物の眼にガラスや鉱物を使用した理由や目的については何も語っていないので断定はできないが、実際の眼に少しでも近い質感を示す素材としてガラスや鉱物が、仏像の玉眼からヒントを得て使用された可能性を想定することができよう。

 

 もっとも、光雲作品中で眼に鉱物もしくはガラスが使用された作品は、上記作品に限られ、後年多数制作される光雲の仏像類も全て彫眼である。《老猿》が政府から補助金を得て制作されたシカゴ万博への出品作、《矮鶏》と《葡萄に栗鼠(鏡縁)》とが皇室ゆかりの作品であるなど、これら3作品と他の作品とは制作の経緯が少しく異なっている。眼にガラスや鉱物を使用するに当たって、皇室もしくは政府という特殊な発注者からの依頼制作であることを光雲が意識した可能性は十分考えられるが、いわば特別誂えの作品を彫眼で仕上げなかったところに、彼が考える写実表現なるものの性格が現れているとみるべきだろう(9)

 

 また、《老猿》は木心を像の前方に外した栃材の一木造りで、光雲の談話によれば彫り始める時点で材の重量は「八、九十貫」あったという(10)。《老猿》は現在重量およそ百~百数十キログラム程度と想定される。当初の材の重量は確認しようもないが、重量を軽減するために光雲は像底から内刳を施している。内刳は重量軽減だけでなく、干割れ防止の効果を持つ。こうした構造上の工夫も伝統的な木彫技法に由来すると見ることができるだろう。

 

 以上のように、一木彫成像としての構造、あるいは眼という限定された部分の技法において、《老猿》は江戸時代以前の木彫の延長線上にあると考えることができるだろう。では、この作品の特質である「写実」表現については、どのようなことが言えるだろうか。

 

 前述したように、《老猿》は猿の姿形をありのままに写した像ではない。身体のプロポーションと顔貌は猿というより、むしろ人間のそれに近い。作品の効果を高めるためには、光雲が必ずしも科学的な正確さに固執しなかったことは、《西郷隆盛銅像》制作の際に犬の大きさをめぐって、実物通りの大きさにつくることを主張する後藤貞行と、実際よりも小形に表すことを主張する光雲との間に議論があったエピソード等によっても知られている(11)。《老猿》にも、そうした光雲の意識は強く働いていると見るべきだろう。

 

 《老猿》には、岩を彫り出した大振りの鑿使い、鑿あとを残さない顔面の本仕上げ、体毛の彫出に使用された細い鑿あとに見られるように、三種の鑿使いがある。そのうち、流れるような筋状に体毛を彫出した鑿使い(挿図4)は、《老猿》だけでなく、《矮鶏》《團扇に眠る猫》《鞠に遊ぶ狆》など明治期の動物彫刻の他、人間の頭髪や髭の表現にも見ることができる。

 

 この鑿使いによる体毛の表現は、《老猿》において少なからぬ役割を果たしていると思われるが、動物学者によると実際のニホンザルはこのような波打つ体毛ではなく直毛であるという(12)

 

 体毛の柔らかい質感と肉体の微妙な凹凸を、木という硬質の素材でいかに表現するかという課題を、光雲はこの鑿使いによって解決しようとしたのだが、それは科学的な実物描写ではなかったのである。そこに光雲が眼にした西洋の印刷物や石版画に見られる細密描写の影響を想定することも可能かもしれないが、このことは光雲の作品における写実表現の特質について大きな示唆を与えてくれる。

 

 また、《老猿》の大きなボリューム感は、頭部と両手両足、岩座等が形成する前後左右の複雑な凹凸に由来している。正面から見る限り、一木彫成像ではあっても、材の大きさが本像の空間構成に制約を与えているとは感じられない。光雲によれば、《老猿》の材となった栃の木は、直径「六七尺」の大木で、それを二等分した蒲鉾形の材から《老猿》は彫り出されたという。《老猿》の現寸法を基に考えると、元の材はかなり削り出されているが、こうした巨大な素材の使用も、《老猿》の表現に大きく関係していると考えられるだろう。

 

 もっとも、背面・側面からは、材の原形を想起させる輪郭線が見られ、光雲の意識は正面あるいは斜め正面の場合とは明らかに異なっている(挿図5)。こうしたことは、光雲が《老猿》をどのような視点から観照されることを想定していたか、また素材と表現との関係をどのように整理していたかを見る上で興味深い事柄と思われる(13)

 

 このように検討してくると、技法・表現の双方において、《老猿》は光雲が取り入れた様々な要素が混淆して成立している。本作品の「写実表現」の意味も、決して単純なものではない。

 

(もうりいちろう・学芸員)

(1) 大熊敏之「美術史と工芸史ー今、何を問題とすべきなのか」『工芸』3 1995年。大熊敏之「近代置物考」『近代日本彫刻の一潮流』所収 1996年 宮内庁三の丸尚蔵館。

 

(2) 山梨絵美子「老猿」『日本美術全集 第21巻 江戸から明治へ』 1991年 講談社

 

(3) 金子啓明「老猿」『國華』1169号 1992年

 

(4) 田中修二『近代日本最初の彫刻家』55頁  1994年 吉川弘文館

 

(5) 山本勉「老猿」解説 『海を渡った明治の美術』 1997年 東京国立博物館

 

(6) 文化庁文化財保護部「新指定の文化財(美術工芸品)」『月刊文化財』429号 1999年

 

fig.1

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(7) 田中修二『近代日本最初の彫刻家』54~55頁 1994年 吉川弘文館

 

(8) 高村光雲「実物写生ということのはなし」『光雲懐古談』183~184頁 1934年 萬里閣書房

 

fig.2

fig.2

 

fig.3

fig.3

 

(9) 馬を初めとする写実的な動物彫刻家として知られる後藤貞行が馬などの目にガラスなどをしばしば嵌入していることは、明治中期における光雲周辺の彫刻家たちが「写実」をどのように考えていたかを検討する上で示唆的である。

 

(10) 高村光雲「栃の木で老猿を彫った話」『光雲懐古談』443頁 1934年 萬里閣書房

 

(11) 高村豊周「あとがき」高村光雲『木彫七十年』435~436頁 1967年 中央公論美術出版

 

fig.4

fig.4

 

(12) 中川志郎「「老猿」を語る」『ART FORUM アートフォーラム』65 2002年 茨城県近代美術館

中川氏によると、《老猿》の毛並みはオランウータンに近いという。また口や鼻、爪や手等の細部は極めて正確に表されているという。また、この猿の体格や姿勢は、年老いた「老猿」のそれではなく、群れを率いるボス猿のような「壮猿」のものであるという。

 

 

fig.5

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(13) こうした《老猿》の立体構成は、光雲が重視したという木彫における「こなし」が、実際にはどのようなものであったのかを示唆しているのかもしれない。

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