浅野弥衛には一群の「縞」の作品がある。「縞」の太さにはヴァリエーションがあるが、いずれも、他の鉛筆にする作品群と同じ手法で制作されたモノクロームの作である。すなわち、まず白紙の上に筆庄のみで線が引かれ、その上から鉛筆で黒く塗ることによって「縞」が生み出されている。ただし、魅力的な線の自在な戯れが姿を消し、代わりに線が全く規則的な動きを強いられている点が異質といえば異質である。縞の太さがいったん決まれば、後はただひたすらまっすぐな線が引き続けられる。縞を引くことは、ある意味で個性を消す、不自由な作業であり、手法をかなり限定してきた感のある浅野の作品のなかでも、最も禁欲的な制作態度がとられている作品群といえるように思われる。芸術制作における自由と作家の個性を最優先する近代芸術の志向とは逆転した姿勢ともいえよう。にもかかわらず不思議なのは、浅野の個性と自在な精神が決して縞のなかに封印されていないことである。実に見事な逆転がここに演じられていることを認めざるを得ない。 絵画を離れるが、江戸後期、庶民の間に縞が大流行したことがあった。彼らが好んだのは、縞の中でも色のコントラストが際だった派手な縞ではなく、遠目にはほとんど無地に近い地味な縞であった。その名のとおり嶋伝いにインドからもたらされた「縞=嶋木綿」であるが、日本に入ってくるものは、江戸庶民の嗜好をそのまま反映したものが多く、またそうした縞木綿はすぐに国内でも生産される・謔、になった。その背景には度重なる奢侈禁止令の発布という外からの要因も作用していたが、同時にそこには、その不自由さを逆手にとり、「底至り」という独特の美意識を芽生えさせるだけの文化的土壌がしっかりと形成されていた。表面は地味で目立たず、そのくせ見えないところに神経を行き届かせる美意識が「底至り」とすれば、小紋と並んで縞はその代表格である。庶民の生活に不自由を強いたはずの奢侈禁止令は、逆に、その不自由に対して自由かつしたたかな精神をもって臨んだ庶民の美意識を育み、縞という最も単純なパターンのうちに無限のヴァリエーションを生み出していった。わずかな違いのなかにこそ自己を表現する洗練された感覚は、理屈や知識によるのではない、あくまで生活に根ざしたそれであった。 「縞」ということだけで、この江戸の美意識と浅野の作品を結びつけてしまうのは単純にすぎるであろうが、不自由を自由に、無個性を個性に転じる見事なやり口に、何か両者に通底するものを見て取ることができないだろうか。一見何の変哲もない浅野の作品に理屈抜きに惹かれる部分があるとすれば、それは、我々がすでに失ってしまったと考えている「底至り」の感覚が、実は我々の無意識下で確実に生き続けている証といえるのかもしれない。 (土田真紀・学芸員) |