1962年(大正15) 高6.5×幅43.2×奥行16.0センチ
ロダンを経由した高村光太郎のあたまが、彫刻というのは生命をおおきくにぎりしめればいいとかんがえるとき、かれの手のほうはもうすこし職人芸の冴えのほうに未練をしめしている。分裂しているわけではないが、統一されてもいない。そういうあたまと手がせめぎあう境界で光太郎の彫刻はうまれる。ただし、あたまと手がたすけあった幸福な瞬間はとても稀だ。おおきな作品はほとんどないし、だいいち作品の数がすくない。知性と感性のどちらをとっても、ひとなみをはるかに超えた高村に時代が強いた、これは悲劇であり不幸であったといえようか。 それでもかれは自分のことを詩人でも、批評家でもなくて、まづ彫刻家だといいつのっているのはなぜだろう。それにこたえるためのヒントはいくつかはあるとみえる。たとえば、なにが楽しいといって木彫のための彫刻刀を研ぐほど楽しいときはないと、高村がいっている。なるほどそういうエクスタシーは詩をつくるときでさえめったに彼をおとづれなかったし、粘土をいぢくっているときの手もたぶんこれほどの悦びをしらなかっただろう。この自発するよろこびはたしかに木彫にのりうつって、みるひとにもそれを感じさせずにいない。手でさわれればもっといい。ここにあげた『鯰』は、鯰ではない(背中をつらぬく→→型の木目)し、単なる木でもない(木の断面を透体脱落させた触感と生命のちから)。つまり芸の冴えをこえて芸術が、いいかえると『作品』がここにうまれたからだ。 (東俊郎・学芸員) |