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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.21-30) > ひる・ういんど 第25号 福地復一のこと

研究ノート

福地復一のこと 

毛利伊知郎

 かつて筆者は、三重出身で明治半ばに美術界で活躍した平子鐸嶺早崎●(こう)吉について本誌に紹介したが、今回は、彼らとほぼ同時代に活躍した福地復一(ふくち・またいち、号は天香)のことを紹介してみたい。

 

 平子や早崎と同様、福地もまた実作家というよりは美術研究の分野で活躍した人物であった。福地については、現在では、明治31年(1898)東京美術学校長の職を辞した岡倉天心にかかわる一連のスキャンダルの黒幕として取り上げられることが多く、彼が発表した多くの論文や図案界での活動への言及は殆ど見ることができない。本稿では従来触れられることのなかった彼の活動に比重を置いて、福地復一の生涯をたどってみることとしたい

 

 福地復一は、文久2年(1862)3月12日、伊勢の山田町出身(後年彼が反目することとなる岡倉天心と同年齢)。家系については明らかではない。明治9年(1876)に曽爾小学校を卒業し、三重県津師範学校に入学、その後、伊勢宮川小学校を初めとして、幾つかの小学校に勤務したが、明治18年(1885)8月には教員生活を終えて上京、三田英学校に入学し、英語を学びながら、歴史・哲学などを研究している。

 

 明治19年(1886)9月に、教育書出版所普及舎に入って編集に携わるなどした後、明治22年(1889)4月、伊勢神苑会嘱託として、歴史博物館設計に関係し、同年8月、東京帝国博物館美術部雇となり、明治25年(1892)からは臨時全国宝物取調局掛員を務めていた。

 

 その後、明治27年(1894)11月に、彼は東京美術学校教授に任ぜられて、東洋美術史の他、図案、図案法などを担当した。明治29年(1896)7月、東京美術学校に工芸図案家・建築装飾図案家養成を目的とする図案科が創設されると、同科主任教授の地位に就いたが、同僚教官たちとの折り合いが悪く、また岡倉天心とも不仲となり、翌明治30年(1897)4月には、依願免官している。

 

 美術学校を退職した福地は、明治30年9月から帝国博物館で始められた『日本帝国美術略史』編纂の調査官をつとめていたが、明治31年(1898)3月、岡倉天心が帝国博物館理事兼美術部長を辞任すると、天心の跡を襲って、同書編纂の主任となった。

 

 また福地は、明治33年(1900)のパリ万博や明治37年(1904)のセントルイス万博の際には、農商務省嘱託として意匠図案調査のために現地に赴き、その間、明治34年(1901)に日本図案会を設立、明治40年(1907)には北京公使館の室内装飾図案を制作するなどの活動を行い、多くの研究論文も発表したが、明治42年(1909)7月22日、胃癌のために48歳の生涯を閉じ、谷中天王寺に葬られた。

 

 彼の活動は、日本東洋美術史の研究と日本図案会を中心に行った装飾図案の創作・研究との二つに分けられる。福地が美術や図案に関する知識を身につけた詳しい経緯は明らかでない。おそらくそれは、彼の略歴が示すように、上京後、三田英学校に通いながらの独学によるもので、明治22年頃から接触があった岡倉天心の強い影響を受けていたことは間違いない。

 

 彼の美術史研究は、古代から近世に至る絵画・彫刻など広い分野にわたり、その地域も日本のみならず中国、インドにまで及んでいる。ここで彼の論考を詳しく検討する余裕はないが、明治半ばにあって、かなり広範な視野を彼が持っていたことは明らかで、その精力的な執筆活動は注目に価する。

 次に、被のもう一つの専門領域であった図案での足跡を見ることにしよう。先述したように、福地は明治29年(1896)新設の東京美術学校図案科主任教授に天心によって抜擢され、工芸図案を担当していた。

 

 

 福地自身の談話によると、第一に日本各時代の図案の様式・その源流たる中国の各時代の様式を、第二に日本各家各地各国の嗜好を、第三に建築装飾研究を行うのが図案科の授業方針であった。彼の授業に出席していた金工家香取秀真の回想によると、古代模様や古器物の模写を時代別に編集した資料を用いて、その授業態度は極めて親切丁寧であったという。

 

 美術学校を辞職した福地は、斬新な図案模様研究を目的に日本図案会を設立する。同会は明治34年(1901)11月7日、日本橋常盤倶楽部で発会式を開き、以後、毎月の例会で、会員所蔵の参考資料・新作などを展示する他、懸賞図案の募集、作品公募による展覧会開催などの活動を行うことになる。

 

 明治30年代には、工芸界の不振を打破するために、斬新な図案研究への要望が高まり、日本図案会だけでなく、多くの図案関係の団体が創設された。そうした中で、天心によって図案研究の必要性を説かれて、早くから図案研究を行っていた福地は、当時の図案界にあって大きな役割を果たしていたと考えられる。

 

 そうした図案における福地の役割が説かれることは従来ほとんどなかったが、天心スキャンダルの黒幕としてのみ福地を語るのではなく、明治中期の工芸史をみる上で、ここに触れた福地の活動は軽視できないと思われるのである。**

 

(もうり・いちろう 学芸員)

*註1

 福地復一を紹介して最も詳しいのは、松本清張氏「岡倉天心とその『敵』V」(『芸術新潮』1982年5月号)である。その他、明治31年の東京美術学校騒動に関連して、下記の文献に福地の名は紹介されているが、松本氏の論考も含めて、いずれにも彼の美術史研究・図案研究に関する記事は多く見られない。

 

 

磯崎康彦・吉田千鶴子『東京美術学校の歴史』77、104p 1977年

清見陸郎『天心岡倉覚三』(新版)135p 1980年

『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第1巻』 317-319、373-395、460-464、476p  1987年

**註2

 本稿では、福地の図案作品の具体的な姿について触れることはできなかったが、現在のところ彼が遺した図案作品の姿を具体的に知ることは困難である。この点ついては、今後さらに調査を進めることとしたい。

 

 

 なお、東京芸術大学附属図書館には、福地天香遺物と称される福地関係の資料が一括所蔵されるが、筆者はまだ実見していない。ただ、その多くは、彼が講義の際に用いた標本・図面の類で、創作的な作品は少ないようである。

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