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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.1-10) > ひる・ういんど 第8号 平子鐸嶺――美術研究の先達

シリーズ・三重の作家たち(2)

平子鐸嶺――美術研究の先達

毛利伊知郎

 今回から、実作家ではないが、三重県にゆかりある美術関係者の一人で、明治後期に法隆寺論争を中心に活躍した仏教美術研究の先達・平子鐸嶺(1877-1911)について紹介してみよう。

 

 我国において、好事家達による趣味的研究の域を抜け出て、実証的な美術研究が開始されたのは、明治中期以降であった。しばしば指摘されるように、大日本帝国憲法の発布された明治22年(1889)は、我国の美術研究・美術行政史上注目すべき年である。すなわち、この年2月には東京美術学校(明治20年設置)で第1回入学生を迎えて授業が始まり、また5月には宮内省直属機関として帝国博物館が設置され、岡倉天心が美術部長に就任している。更に、天心・高橋健三らを中心に美術雑誌『國華』が創刊されたのも、同年10月のことである。このように、古美術保存や美術教育等のため必要な機構・組織が整備され始めた明治中・後期は、一方では美術史学の揺藍期とも称すべき時期であった。

 

 この明治中・後期に美術史関係の研究を発表していた人々には、岡倉天心とフエノロサという、当時この分野で指導的役割を果たした両人の他に、黒川真頼(1824-1906)、小杉榲邨(1834-1910)真頼らよりかなり若い世代では、伊東忠太(1867-1954)、関野貞(1867-1935)らのように、建築史を専門としながら、日本や中国の古代彫刻史に関する研究を続ける人々もいた。更に東京美術学校が開校されると、画家や彫刻家を志して同校に入学し、後年、実技から美術研究へと転じて、多くの論著を発表した人々がいた。

 

 例えば、同校彫刻科の第1回卒業生である大村西崖(1868-1927)は、東洋美術史研究を志して『東洋美術大観』・『真美大観』・『支那美術史 彫塑篇』などを初めとする大著を遺した。また、日本画科の卒業生では、関保之助(1868-1945)や溝口?次郎(1872-1945)らが、帝室博物館に勤務して文化財の収集・保存に尽力した。

 

 本稿の主人公である平子鐸嶺は、明治30年(1897)美術学校日本画科を卒業した後、西洋画科に再入学し、明治34年(1901)7月に同科を卒業している。また、この鐸嶺が日本画科を終えた年の同窓生の中には、岡倉天心を補助してボストン美術館東洋部の充実に努めた、鐸嶺と同郷の早崎梗吉(1874-1956)がいる。

 

 以上が、鐸嶺が美術研究を始めた頃の日本の美術史学界の状況であった。

 

 以下では、鐸嶺の生涯を追いつつ、彼が果した役割と彼の学説の意義について記して行くこととしたい。

 

 平子鐸嶺は、明治10年(1877)5月某日(一説に4日)三重県津市片浜町(現在の津市東丸之内)で、父尚次郎、母かうの長男として生まれている。本名尚。鐸嶺は号で、彼には他に昔瓦・鈴岱子・鈴岱・古柏艸堂主人・古柏陳人・塵庵などの号がある。

 

 鐸領は、津市養生尋常小学柊(明治16年入学)、励精館(明治14年設立の旧藤堂藩士子第のための私塾、明治22年入学)を経て、明治26年(1893)9月、東京美術学校日本画科に入学している。そして明治30年(1897)同校日本画科を終えた鐸領は、同校西洋画科に再入学し、同科を明治34年(1901)7月に卒業している。

 

 当時の美術学校は、岡倉天心が校長をつとめ(明治31年3月まで)、今泉雄作・黒川真頼・塚本靖・福地復一らが美術史関係の講義を行っていた。また、後に无声合や金鈴社を結成して活躍し、歌人としても有名な結城素明(1875-1957)や平福百穂(1877-1933)らが、鐸領の親しい存在であったようだ。鐸嶺は、日本画科の卒業製作として松竹梅の四曲屏風を描き、また明治33年(1900)には白馬会にも出品したと伝えられるが、製作面にはあまり熱意を示さず、在学中から美術研究に向かうことになる。

 

 明治32年(1899)、美術学校在学中に23歳の若さで、鐸嶺は『佛教』誌上に、飛鳥・奈良時代の古墳から鎌倉・室町期の板碑に至る墳墓の諸相を論じた、「本邦墳墓の沿革」と題する長篇の論文を発表している。今日我々が目にす ることのできる鐸嶺の最も早い時期の論文はこれで、彼の博識ぶりの知られる、幅の広い内容を持った論考である。

 

 美術学校卒業後の鐸嶺は、日本古代の仏教美術を主要テーマとする研究と精力的に取組み、多い年は20篇以上に及ぶ論文を執筆し、明治44年(1911)35歳で亡くなるまでに彼が発表した論文は100篇を越えている。

 

 その間、明治35年(1902)には出版社金港堂につとめながら、哲学館(現在の東洋大学)専修科で仏典・漢学・梵文を学んでいる。翌明治36年には研究に専念するため金港堂を退社して、彼は東京帝室博物館嘱託兼内務省嘱託となった。また、この明治36年から伊藤左千夫が中心となって発刊された短歌雑誌『馬酔木』の編集同人となり、同誌に美術批評等を発表している。

 

 明治37年(1904)、鐸嶺は、歴史家・喜田貞吉の主宰する雑誌『歴史地理』(6の4・5)に「法興寺と元興寺」と題する論文を発表している。この論文は、我国最古の本格的仏教寺院である飛鳥寺に就き、『日本書記』に記され る法興寺・飛鳥寺・元興寺が同一寺院であることを別寺説への反論として論証したものである。その論証法は、『日本書紀』の各記述内容を、批判的な眼で読み取り、合理的な歴史の流れを構築しようとする説得力に満ちたものであった。鐸嶺没後、喜田貞吉は、平子説への反論をやはり『歴史地理』(19の 1・2)に「元興寺考諾」として発表したが、『日本書紀』等の史料に対する喜田の信頼は絶対的なものであった。その結果、喜田の論文では、矛盾する内容の史料を無理に解釈しようとしたための牽強附合が各所に生じている。

 

 この「法興寺と元興寺」を発表した明治37年頃から、当時の歴史界には珍しい史料批判に基く鐸嶺の論文発表が数多くなるが、その頃既に彼は喀血し、肺結核に罹っていた。また、前年から続けられていた『馬酔木』への投稿は、この年で終っているようである。

続く

 

 

 本稿をなすに当っては、平子鐸嶺著・平子恵美編『増訂 佛教藝術の研究』 (昭和51年 国書刊行会)及び野田允太『鐸嶺平子尚先生著作年表・略歴』 (昭和49年 焚丑会)を参照した。

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