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美術館 > 刊行物 > HILL WIND > ひる・うぃんど(vol.11-20) > 萬鐵五郎・大下藤次郎の周辺

資料紹介

萬鐵五郎・大下藤次郎の周辺

牧野 研一郎

 

  萬鐵五郎が大下藤次郎の『水彩画の栞』によって、習画の方向を、日本画というよりもより正確には「つくね芋山水」と酷評されるような末期症状にあった南画学習から、水彩画を介して西洋画の学習へと大きく転じたことはよく知られている。1901年(明治34)、萬が16歳のときにあたる。大下のこの本の、当時の青年に与えた影響は、萬の例に限らず、大きなものであり、明治30年代後半の日本の津々浦々にいたるまでの水彩画ブームをひきおこしたことは周知のとおりであり、萬と同様、その影響を受けた画家予備軍も、坂本繁二郎、森田恒友など多くの名が挙げられる。大下はこの後、『みづゑ』の創刊(明治38年)、水彩画講習会の開講(明治39年)、日本水彩画会研究所の設立(明治40年)と、水彩画の普及と後進の指導に情熱を傾け、明治44年夏の松江、敦賀とめぐった水彩画講習会から帰京後、病床に伏し、秋に不帰の人となっている。

 

 大下の最後の夏の様子は、大下自身が「裏日本」と題して、その旅日記を『みづゑ』第80号に寄せている。そして、その同じ号の投稿欄に敦賀での水彩画講習会に参加した若者の感想文が載せられている。ここで紹介しようとするのは、その一片の感想文である。投稿者の名は長谷川利行。昭和2年の二科展で樗牛賞を受賞した奇矯・放浪の画家として知られ、昭和15年三河島の路上に行き倒れ、板橋養育院でその凄惨な49年の生を閉じている。没後、その遺作展も数多く開かれ、画集も天城俊彦編『長谷川利行画集』(昭和17年)をはじめとして数点刊行されている。昭和56年には矢野文夫氏によって『長谷川利行全文集』が編まれている。しかしその前半生の軌跡は、矢野氏の情熱的な追跡調査にも拘らず、明治24年に京都に生まれたこと、明治40年和歌山の耐久学舎に学び、その学報に作文「快楽と悲哀」が掲載されていることの二点以外には殆んど知られておらず、その年譜は大正8年まで空白のままである。明治末年から大正の前半という利行の原形が形成されたと思われる青年期のことが殆んどわかっていないのである。以下に紹介する利行の文章は萬展を準備している際に見出し、そのときは、ああ利行までも大下藤次郎の影響下にあったのかと意外に思った程度であったが、その後利行の年譜を調べる機会に、不思議と諸本にこのことが記載されていないことを知った。あえて全文を転載する次第である。文中にあるように、長谷川利行もまた、萬に10年遅れて、「水彩画そのものに愛着やみがたい、憧がれ人の文明の恩浴をも新らしく知覚した」のである。

 

敦賀の所感

長谷川 利行

 幼い時敦賀で両親と一年程生活したといふ、しかし私にはそんな記憶はさらさらない。畫を描く人の幸福は、敦賀の町と敦賀の海と懐しい海のトレモロを聞くことを、北国のローカルカラーを景色の曲線美と色彩に富めることを賞美措く能はすであらう、事實は平面でない立體、圓錐形の三角術によらずとも敦賀は實に飲用水の清らなる丈でも私は充分である、何かそこに充實したものを捉へた気分に生きて居る、斯く言ふは夏期水彩畫の講習へ一過間出席した趣味性の青年であるに相違ない。

 水彩畫の講習の成蹟はどうであろうと、私には敦賀の風景畫を讃美せずには居られない、私にデッサンを充分ならしめよ、自然に忠害であるはづの私に少くとも繒筆を持つことのいま少しく親しみたく思ひ到った、未熟な画生はいたづらに奔走するよりも檜畫の根本的研究をやり、色彩を離れて自然の肖像を畫き。とる丈の素養を養成して置きたく切に思った。アマチュアで結構凡人畫工で結構、或はペンキ屋の畫工でもよい、私には尊重すべき品性問題より創考した水彩畫そのものに愛着やみがたい、憧がれ人の文明の恩浴をもの新らしく知覺したのである。

 

 講習生の合宿所にはさまざまの自然の造詣者、自然の肖像畫をかく滑稽に高める人、風采すでに脱俗な人、よく喋る人の十人十色の珍物畫を構成製作にワカゲンという家根の下に大家気取に寝たり起きたりして気随気儘に繒筆を握って振って居た、髯の人には眼鏡がない、眼鏡の人には頭髪のふさふさしいのがないけれども、何にも不足はない趣味性の充實した品性の人こそのぞましけれである。

 

 合宿所の姉さんには愛嬌があったごとく、敦賀の町の女にはデリケートな表情に富めるのが多かった、殊にテンジンサンの一夜は北國の海のトレモロと、いつの日か溺死の女と、白粉やけのした年増の藝者とを思はしめる、あの凄い感じのする夕昏の彩調には私の心が捉はれてローマンスにならうとする。

 

 文明の期待に背かず敦賀の町の夜も電気の光に明るい透明色の気分を感覚せしめる、そこには不思議な夢と、奇怪と多くの物語が神秘的に人に言はれぬ秘密もあるだろう、飢えた眞黒な犬が海岸通りをとぼとぽと辿って行くやに、佗しい謎の世界もあるだろう。

 

 ポーポーと鳴る汽笛に大きい黒船は敦賀湾のコバルトにレモンを常に含味した海の彩調の上を静かに滑走してとまる、浦塩通ひであらう、眞畫の静寂を破った汽笛に眼を驚かして金ヶ崎の城跡に展望すれば、さまざまの色と匂ひを齎らしてくるのである。金ヶ崎には巌壁自然松の配合水射の濕り、とりどりに自然はしつと四季の着物を華美ならしめ、賓石たらしめずして、瓦右に等しいものであったらば案外つまらぬものだと思ふ。

 

 金ヶ崎の頂上に月見亭あり、42年皇太子御台臨の場所として風景は開展して、静かなる眞畫の暑き海景の一日なれば、波の動揺は白くくづれて沖は眞帆片帆、コハルト、オリブの穏い山よりかけて近景の緑岩、此方には岩のくづれの華色の温味、水のさわり、ふと彼方の陰より白鳥の羽音なくスート飜へれば近代人は夢より自分を見出すに相違ない。

 

 パッションの強い私には、赤さ船腹の鐵錆をそぎとる幾多の女のカンカンと響く眞畫の一時間だけでも強烈な太陽の直射のもとにはよくも眩暈せないことだと、人生の死を極端に思はしめる、女の死骸と鶴の死骸といふことは南國の悲哀であったごとく、夏の日本海岸の赤き印象を思ふのである。死に伴ふ赤き印象のフェ-スは忘れられぬ事實の話柄となるであらう。

 

 敦賀の色彩と私の感じはブランピンクの慣用色を誇ることが出来ない哀感であったらう、近代人の色彩にたとひ個人主義が伴ふとも過激なパッションはあるはづだ。敦賀の町には洋舘めいた建築と外國の気分が全失して居ることは裏日本のローカ・ルカラーであらう。舶來な化粧品は少く共、地肌の白い女は多くあらう、文明の進歩に伴ふ風土の関係は文明の学者が考究して居るが敦賀の人情は風土の関係上大差は無からう、比較的田舎ぢみて物事に穏健の處置をとって居ると思ふ。塵挨の多い町には私等の健康状態を浸害しようとしたが、朝夕の寒暖計の狂ひに皮膚を犯されやうとしたが、敦賀の清らなる水は永久私等の心持を透明の固體として安全ならしめたのであった。

(8月28日朝)

 

(まきの けんいちろう・学芸員)

 

年報/萬鐵五郎展

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