牧野研一郎 第一室「藤島武二とその周辺」に長原孝太郎(1861~1930)の「牛肉屋の二階」、「焼芋屋」など水彩画四点が展示されている。この二点は第一回白馬会展(1896)に「森川町遠望」(水彩)らと共に狂画として出品されたもので昨年多くの油彩画と共に御遺族の長原坦氏から本館に寄贈を受けたもののヴァリエーションである。「牛肉屋の二階」は白馬会の目録では「牛屋」となっているもので、当時大盛況であった牛鍋尾の座敷風景を活写したもののである。長原孝太郎の事蹟は、東京美術学校教授で文展審査員をつとめるなどしたわりには語られること少ないので、ここで少し述べてみたい。 長原孝太郎は元治元年(1861)二月、美濃国不破郡に生まれている。父、長原武は竹中藩士で、江戸で山鹿素行の後裔、山鹿素水に帥事し軍学に長ずると共に、本草学にも関心を示し、自ら植物標本写生帳を残し、その画技は秀れたものであったという。また吉田松蔭とも親交があり、止尤と号したが孝太郎の幼年期に没している。孝太郎は後に帝国大学の技手として動植物の写生に従事し、また生物学にも造詣が深かったというが、父の血を承け継いだというべきか。明治九年(1872)十一歳時より叔父山田雲叟に漢学と画学を学んでいる。明治九年(1876)父の親友であった神田孝平の援助を受け、 四月に神戸を出て英語を学び、同年の十月に東京に移り翌年二月共立学校に入学している。神田孝平(1830~1898)は美濃国不破郡の生まれ十七歳の時京都で漢学を学び、嘉永二年(1849)江戸に出て松崎慊堂に帥事したが、同年杉田成卿・伊藤玄朴らより蘭学を学びはじめ、文久二年(1862)に蕃書調所教授出役となり、数学・文法・翻訳作文を教授している。神田は明治維新後も新政府に重用され兵庫県令、元老院議官、憲法取調委員等を歴任し、明治二十三年の国会開設時に貴族院議員に勅選されている。数学から経済学・法学・考古学にわたる幅広い識見を有し、多くの著・訳書を残し学士院会員にも勅選されている。ま仁明六社に参加、「明六雑誌」に啓蒙的文章を発表するなど明治の先覚者であっ。長原孝太郎がはじめ神戸に出て英字を学んだのも神田孝平が兵庫県令であった関係であろう。明治十三年(1880)九月、長原は東京大学予備門に進むが、翌十四年二月郷里の母が病弱であるゆえをもって予備門を退学し、大垣に帰っているが、明治十六年に再び上京、神田孝平の斡旋で小山正太郎に師事し、西洋画を学びはじめている。 小山正太郎は明治五年(1872)川上冬崖の聴香読画館に入門、陸軍士官学校図画教授掛を経て、明治九年(1876)工部美術学校が開校されるとこれに入学、フォンタネージの指導を受けるが、フォンタネージ帰国後、後任のフエレッティの教授に不満を抱き、明治十一年浅井忠、松岡寿らと共に退学し、十一字会を結成、その研究所を神田今川小路に設立している。この研究所が明治二十年(1887)不同舎として拡張され、そこから多くの門弟が巣立っていくことになる。長原が神田孝平の斡旋で小山正太郎に師事するようになった経緯については神田孝平が蓄書調所で小山の師川上冬崖と同僚であったこともその背景として考慮しなければならないかもしれない。ただ長原が小山に入門する前々年の明治十四年に冬崖は熱海の客舎でその生涯を閉じている。 また明治十六年には工部美術学校が閉校となっており、後明治二十九年(1896)に東京美術学校に西洋画部が設けられるまで、洋画教育は私塾にその多くを負うことになる。長原はこの年から、明治二十二年(1889)帝国大学理科雇となるまでの六年間を、研究所に通うわけだが、この間、明治十七年(1884)と明治二十一年の二回古代美術研究のため京阪地方を旅行している。長原の古くからの友人で、東京美術学校の同僚でもあった小林万吾によると、「この神田さんが浮世絵や骨董の蒐集家であったので、長原君はその整理を委任されたりした関係から、自分も非常に書画骨董を愛し、殊に浮世絵に対する愛着が深かった」とのことである。(「思い出片々」アトリ工昭和六年一月号)。長原の古代美術研究が、ひとつには上記のように神田孝平の感化であるにしても、最初の京阪旅行の年、明治十七年という年を考えると、明治十年代の国粋主義の興隆とそれに伴う古美術品への愛好熱のかたまりという時代思潮にも起因していることは明らかだろう。明治十二年(1879)には「本会ノ目的ハ本邦固有ノ美術ヲ振興シ広ク万国二其声誉ヲ永存セシムルニ在り」とする龍池会が結成され、十七年(1884)にはフェノロサを中心として鑑画会が組織されている。古美術の調査はキヨソネの進言にもとづき大蔵省印刷局が明治十二年五月から十月こかけておこなったのが最初で、この際調査団一行は津、松阪、山田にも立ち寄っている。明治十七年にはフェノロサ、岡倉覚三らによる古美術調査が実施され法隆寺の夢殿か開扉されている。長原かこのフェノロサらの調査団に同行したのか、あるいは単独行であったのかは詳らかではないが、明治二十一年の際は九鬼隆一、フェノロサらに随行したものである。 (続く)
(学芸員) |
自画像|1900年|油彩・キャンバス|45.5×33.5cm
雨降り|水彩・紙|22.8×30.5cm
牛肉屋の二階|1892年|ペン・彩色・紙
焼芋屋|水彩・紙|23.0×30.6cm |