岸田劉生の日記を読む
(六) 一九二一年が終わって一九二二年にはいる。ささやかだった流れは勢いがついて骨董蒐集の喜び、というより気苦労がようやく日記の中心になりはじめる。劉生の絵は当時すでに相当高値だったようだが、それだけでは資産ゆたかな当代一流のコレクターとは太刀打ちすべくもない。精一杯背伸びをして買ったのはいいが、その資金繰りをどうするか、そのことがそれまでの質素な生活を狂わせるまでになるのは時間のもんだいだった。 又郎さんは中々いゝ陶器を持つてゐる。その中一つさして良いのでないといふのを一つもらつたが中々いゝ。…又いろいろ珍藏の支那畫などみせてもらつたが、花や孔雀に中々いゝものがあつた。(二月十八日)*55 今日は美術倶樂部に支那の五代より清朝の末までの一千年間の美術二百點程をならべて見せる由、…中でも趙子昂の大徳八駿圖といふ馬を八匹かいた畫や、米元暉の南畫水墨山水が二つあつたが二つともよかつた。毛益の虎も實物僞筆に關せず畫としていゝと思つた。…とも角支那といふ國につくづく感心した。(四月二十五日)*56 志賀の持つてゐる支那の畫と余の半切(…)とを交換する約束なり、半切を渡す。(五月十九日)*57 志賀から來た、花鳥畫(音乎圖)床にかけてあるが中々いゝ。支那の畫が二つになつたがこれから追々にいゝものが集まるとい ゝ。(五月三十一日)*58 近來美術品を所有したい氣、眺めたい氣が中々して來た。(七月一日)*59 更に又、自分は、近來ますます古支那の美術に引かれてゐる、*60 この頃古い時代の支那の畫に感心してゐる。畫ばかりではない。古い支那といふものに感心してゐる。尤も古い支那についての知識は殆どないと云つていゝが、まあ感心してゐる。…唐宋時代が殊にいゝ樣だ、歴史の事は無智だが、元時代もいゝ樣だが、とに角唐宋とおぼへてゐるものが殊にいゝ樣だ。…實際、七八年前には、東洋畫などは皆さう大したものではないときめ込んでゐたのだから。そして今感心し切つてゐる、北畫の人物畫、仙人などの變な味の畫なども、終二年前迄はさつぱり分らなかつた…*61 沈南蘋を持つて來たのだ。…とも角も沈南蘋だけは確かに手に入つたのだ。自分は一二年前からどうかして支那畫の花鳥は一枚手に・・黷スいと思つてゐたが及ばぬ事とも思つてゐた。それがかうして割に早くしかも可なり完全な、そして畫としてもいゝ南蘋が手に入り、自分のものとならうとは思はなかつた。實にうれしい、いゝ畫を所有する事は大なる喜び幸福の一つだ、*62 探幽の布袋か何かの畫を持つて來てみせたが氣に入らず。岡崎と二階で畫の話などしたがミレー、レンブラントなどをまだ感心してゐるのに驚いた。(九月七日)*63 子昂、八大山人、南蘋、舜擧、其他音乎圖などみせる。南蘋はたしかだといふ、八大山人は少しあやしんでゐる…今度三の谷でいろいろ大雅や竹田などみせてもらはうと思ふ。何しろ目がこえる必要がある。(九月十日)*64 私は永年油繪の筆をとつて、自然を觀て來た、そしてそれによつて、得た審美によつて、不圖東洋美術の深い「心」が分つた。*65 食後、所藏の浮世畫を上中下の三つに分ける。(十月二十六日)*66 そして、いよいよ十一月九日にさきにあげた旧原三溪蔵『鳩圖』入手のことがあって、その日の日記に、 余のコレクションもこれで中々しつかりしたものになつた。*67 という文字が出現するにいたるわけであるが、ここでまづ注目したいのは、日記十月二十六日の「所藏の浮世畫を上中下の三つに分ける」という記述である。この日浮世畫刊行会の上村益郎が来訪して、劉生は北齋富岳三十六景の『山下白雨』と「廣重の芝居の表の景」を入手している。そして夕食後この分類をこころみはじめた。この日まで、「土呂畫」をふくめて二十数点の浮世絵を劉生はすでに所蔵している。*68とりわけ眼につくのは、八月三十一日には「展覧会などで買ふと十五六圓はするといふ清滿の元禄暫と象引の二枚」*69を、そして「歌川豐春の深川八幡の圖」「北壽の岩と舟の畫」「北齋の日本橋の畫(富士三十六景の一つ)」*70の三点を九月六日に、ともに上村益郎から購入していることだ。それらの価格のうち、九月二十九日に「例の松坂屋の角のところを曲つた家」でみて、翌日百七十円で買うことにした「春章の暫のいゝの」*71がもっとも高かった。 しかしこれはこれとして、西洋画できたえた「自然を觀る」眼が成熟しつつ自ずと向かっていったのは先づ「古い支那といふもの」であり、その文明の精華としての宋元の寫生畫への傾倒であった。肉筆浮世絵の世界はまだはるか遠くにある。そういう遠近法のなかで「支那の畫が二つになつた」と劉生は喜んでいるのである。引用した五月三十一日日記にいうその二点とは、文中にいう志賀直哉旧蔵の「音乎圖」と、その数日前に入手したばかりの趙子昴「駱駝の圖」*72のことである。ところが、それから三カ月もたたぬ九月十日にはすでにこの子昂と音乎圖の他に「八大山人、南蘋、舜擧」も劉生所藏となっている。そしてこの三点の入手にはどれもみな画商「蒹葭堂」がかかわっていた。蒹葭堂こと佐藤隆三の日記上の初見はそのわずか二カ月ほど前六月二十三日でしかない。*73七月二日来訪の際、携えてきた「錢舜擧の花鳥の小品」*74にまづ飛びついた劉生は、さらに七月二十日の日記に次のようにかいた。 蒹葭堂の佐藤隆三君が俥でやつて來る。…早速みせてもらつたところ、沈南蘋の素敵な花鳥畫でよく保存されてあつたものとみへ傷んでゐず色もよく殘り畫も可成いゝ、山鳩の樣な鳥が二羽桃の木にとまりバラの花がかいてあるが實にいゝ。鳩?は實に生きてゐる。欲しいけれど五百圓の由、いろいろ迷つたが西郷さんに畫を少し安くして買つてもらつて買はうといふことに腹できめる。…實に欲しいのだ、 *75 錢舜擧、沈南蘋はこんな経緯で劉生のもとにやってきたのだが、三点のうち残る「八大山人」は、七月十四日に劉生がはじめて蒹葭堂を訪れたとき披見し、おそくとも七月末にはコレクションの仲間入りしたものと推測できる。*76 これ以後劉生の蒐集慾はさらに弾みがついて加速してゆくわけだが、ここでちょっと話題をかえよう。花鳥畫道釈畫など中国絵畫に次第にのめりこんでゆく経験が、かれの作品という場においてなんの痕跡も残さなかったか、といえば、摸倣の天才児である劉生において、それはありえない仮定である。じっさいその顕著な例は娘麗子をモチーフにした作品にさえみてとれる。さきに引用した、「更に又、自分は、近來ますます古支那の美術に引かれてゐる、」*77という文は、一九二二年四月小石川竹早町野島煕正邸でひらかれた劉生展にちなんで艸されたものであり、さらにこう言っている。 出品中の、野童女野童三笑等は、畫因を北畫の寒山等から得てゐる。その他、浮世畫ことに初代又兵衞あたりの大味な一種のミスチックな、味にもかなり引かれてゐる、童女飾髪、麗子立像の畫因は幾分そこに負ふところがある。*78 たとえば一九二二年作『野童女』をみよう。モデルは麗子にまちがいないが、頬擦りしたくなるほどの愛情をそそいだはずの少女はそこにいない。不気味な笑いを浮かべた異常に手の細い人物はまるで深い闇からふと現れたように他界の空気をまとっているようで、この印象を「神秘感」などといえば劉生はそれこそわがことなれりと北叟笑むだろう。劉生が日記にかきつけた文章をよむまでもなく*79、これと伝顔輝の『寒山拾得』の「寒山」親炙の類縁はあまりにも明らかだ。 そもそも劉生の藝術をかたろうとすれば、いまいうところの「神秘」「神秘感」がもっとも重要なキーワードであるのはたしかであるとして、しかしそれを性急にまとめようとすると、てがるな形而上学的な存在論にすりかわってしまう。そのとき例の静物畫をめぐる「在るてふ事の不思議」*80を引用したりすれば、やっかいなことになる。無理にこぢつけたりせず、眼にみえる印象からはなれないこと。たしかに劉生の頭腦の鋭さは抽象的な思考に十分耐えうるとしても、ここではやはり具体的生理的な感覚のほうに注目してゆくべきであろう。たとえば、もう少し後の『初期肉筆浮世繪』のなかで初期風俗畫にふれて、 諸君がもしまぢまぢと自分の足や耳を見てみるならば、それはさながら異樣なる生きもののやうな不氣味さを感じるであらう。そしてその感銘は實にミスチックである。*81 というときにみえる「ミスチック」という言葉から出発したほうがいいということである。劉生固有の感覚がそこに顔をだしかけているからだ。視覚の起源のようなこの触覚的とも内臓的な感能ともいえる微妙さにもうすこし別のことばで接近しようとするとどうなるか。ひとつあげるなら、 この盛花のかゝれてある籠でもいろいろの花でも、色も線も不思議にかつちりとした、そしてやわらかみのある味で、へんに生きてゐたと思ふ。*82 やはり支那獨特のミスチックさでへんに生きてゐる。*83 しかし馬はへんに生きてゐた。それは現實にみる馬とはちがふ。一種「仙」といふ味がある。どこか間がぬけてゐて、へんに底から生きた神秘的なところがある。*84 支那の、さう大したものでない花鳥畫程にでも眼を生かしたものが日本の有名な花鳥畫にでもさう澤山はあるまい、無論目ばかりではなく、線といひ、色といひ筆といひすべてがへんに生きてはいるが、しかし眼は又別である、へんに生きてゐる。*85 などという風に『閑雅録』のなかで劉生が多用している「へんに生きてゐる」ということばなどはまさにそうだろう。ひとたび絵に積極的な価値評価をくだす勘所にくると必ずといっていいほど劉生の口元からとびだすこのことばは、さきにあげた「神秘」や「稚拙」ということばを吸ったり吐いたりしてそれらに生気をあたえつつ、劉生の絵心の究極のありか、創作の核心をあとちょっとで手が届きそうなところにちかづける。 しかしそういうことなら、当時の美術界の趨勢に背をむけるかのように美術史をさかのぼり東西の古畫へ傾倒してゆく劉生は、初心をのこした草土社の過去から、激変していったようでその実たいして変わっていないともいえる。魂も心もないはずの土や草や影からたちのぼってくるような精とか気とかが屈伸し呼吸する、姿を隠しつつそこに在るものの気配をかんじさせずにいない『切り通しの寫生』は「へんに生きてゐる」からであり、『静物(湯呑と茶碗と林檎三つ)』の林檎もまた肩をよせあうひとの姿を宿して「へんに生きてゐる」からである。*86 みるひとに否応なくせまってきたそのなんともいえぬ力の感覚は、宋元畫を愛でる劉生の視力にそのまま残って、というか「自然を深く見る」訓練によってますますつよめられ、描くためにみるという視覚の堰をこえて溢れて絵をなでまわす欲望のじつは原動力でもあった。そのおなじ力が描くことの表層から内にかくれてしまっただけだった。 惚れっぽくて飽きっぽい、表面はカメレオン的に豹変する劉生の内部のみえないところではたらく不変のちから。この力の重心が移動してゆく通過点のひとつが、この年から翌年までを頂点とする宋元畫にむけた忘我の眼差しになっているので、もちろん通過点はこのまえにもあったし、この後にもある。ゆきどまりではないのだ。さきに出会ったのはレオナルド、デューラー、ファン・アイクの圏であり、あとに来るべきは初期肉筆浮世繪の圏である。つくるよりみる。ただ気分のいい絵をみたいというだけの純粋な欲望がデューラーやファン・アイクの複製ではもはや満足できなくなった劉生の眼のまえに、本当の一流とはいえなくても、また真贋が疑わしくとも、写真でも複製でもなく、とにかく実物であることで渇を癒せることにちがいない宋元畫をたたせたのは、ほとんど必然的だといっていいだろう。 さてこういったところでもう一度一九二二年の日記にかえることにしよう。この年の暮れにちかい十二月二十二日のこととして、次のように劉生はかいている。 朝食後、原田、田島たちに愛藏幅をみせる。葵、鳩を終りとして段々いゝものをみせた。葵、鳩はやはり實にいゝ。鳩をそのまゝかけておくことにする。これ等の繪は全く寶である。無事ならん事を祈る。二階に南田と「暫」をかける。*87 この日までに劉生の蒐集品は「支那畫」の十七点をふくめて、約八十点にふくれあがっていた。*88このうちの最尤品は、もちろん『鳩圖』と『葵圖』である。十月二十日入手の『葵圖』は、次の日の日記に「昨日の舜擧葵圖を床にかける。實によろし、今更うれしく幸福を感ず。」*89とかいたのを手始めに、くりかえし日記に登場している。 やはり俺の葵と鳩にかなふものはない…*90 余の鳩や葵の方がずつといゝ、鳩や葵は實によいものを手に入れたものだと思ふ。*91 久しくかけておいて氣になつてゐた鳩の畫を床からはづして、葵の畫をかける。これも實にいゝ。*92 階下へ葵の畫や、水仙の畫などかけて長與たちと眺める。*93 なかなか使うことができない「眼福」ということばが思いだされるほど、純粋にみることの喜びにひたっている劉生が日記の行間からたちあがってくる。そして稚気愛すべき劉生はこの『葵圖』を中川一政や河野通勢に自慢し*94、武者小路がひさしぶりに来訪するとみせびらかし*95、また三溪園では主人原三溪の所蔵する舜擧の『葵』にも負けていないと勝手な競争心をもやしている。*96 気にいればすぐ筆をとって真似してみたくなるのもいつもの癖で、それを日記にかくこともわすれなかった。 大漉紙の横物にほゝづきを舜擧風にかく。三枚程かく。一番おしまひには舜擧の葵をわきにおいて半分模寫の樣にしてかく。*97 |
*55 日記、一九二二年二月十八日 『繪日記』1-p.67 「又郎さん」は長與善郎の兄長與又郎のこと。この日劉生は内幸町の又郎邸を長與善郎、梅原龍三郎、椿貞雄とともに訪れた。長與又郎は劉生の作品も所持し、「久しぶりに舊作「冬」「代々木御料地の竹藪」「壺」などみてなつかしかつた。」とも記している。またこのときもらったという陶器は、さっそく『二人麗子圖(童女飾髪圖)』に取入れられた。 |
(七) 一九二三年になった。この年に劉生は幸にも不幸にも生涯最大の転機の日をやがて迎えることになるが、その日、つまり関東大震災に襲われる九月一日までの日常は一九二二年から、というか鵠沼移住以来の順風をえて暮れることのない遅々たる春日にちかかった。その中心が恋心に似た古畫蒐集熱であるのはいうまでもない。三月二十九日には梅原龍三郎が劉生を来訪した。 屏風や支那の畫をみせる。二階の壁に鳩、葵、八大山人、野菜、明畫花鳥、牡丹、水仙、花籠圖、黄鳥圖、暫圖、玉堂、鹿圖等かけてみせる。*98 この年新たに入手した約三十点をふくめて、この三月末までの自慢の蒐集を惜しげなく開帳しているようである。まだ梅原龍三郎と岸田の往来ははじまって間もなく*99、だからかえって梅原の関心をこれで引こうという下心があったかもしれない。*100 ここに二月十八日入手の名品『蓮』がぬけているのは不思議だが、手許になかったのか。それならこの時期の劉生愛蔵品の大体を窺うためには、もうひとつ、 藤澤の神田寫眞館が支那の畫を撮影に來る。二階で本箱をずらして鳩、葵、八大山人、蓮、子昭、野菜、明畫花鳥、牡丹、の八點と李迪の狗の版のをうつさせる。支那美術の挿繪也。*101 を引いておくほうがいいかもしれない。ともかく一九二三年にはいって三カ月たらずのうちに「支那畫」はさらに十点ほどふえた。けれどそのこと以上に、又兵衞風四曲屏風*102のような初期肉筆浮世繪の大物獲得があったことを特記しておくべきだろう。実はこれまでの蒐集も数のうえでは浮世絵のほうが多かったものの、関心の深さからみれば、全然古い中国の絵画にかなわない。そういうときあらわれた又兵衞風屏風は、やがて京都移住後宋元花鳥畫の席を奪うものへの変化の予兆だからである。が、それはともあれ、この時期の劉生の身体からあふれでるような絵をみることの喜びは、それが極まったときだけにしても、ついうっかりと、 僕は今は、まだ、「觀る」可きものを澤山先に持つてゐる。觀ても觀ても、先にある。一つの深さは又更にもう一つ先きの深さを知らす。/或は一生、自分の生涯は、「観る」生涯かもしれない。 *103 といわせるまでになっている。勇み足のようにみえるこの感想だが、案外本心なのかもしれない。みることと描くことはそんなに違った行為ではない。そう思わせる言葉には後でまた出会うだろう。しかしこの年の五月六日付けの文章ではもうすこし穏やかである。 私は今、宋元を一番尊敬し、又おそろしいと思つてゐます。西洋の古典も尊敬しますがしかし、心から恐ろしいと思ひません、自分がもし宋元に至れたらどんなにうれしいでせう。私の新しい目標は宋元にあります。これから又うんと勉強しやうと思つてゐます。*104 明治の洋画家のなかにも、心中ではやっぱりこう思っていたひとは案外少なくなかったような気もする。ただ時代の異常な外圧のたかさが、それをまともな声とすることを禁じていた。むしろ積極的に荷担していたから、劉生といえどもこの外圧をはじめはほとんど自然として受けいれていたはずである。しかし彼の感覚の生理からでたなにかがついに劉生の本心のありかに気づかせてしまった。或いはこれは劉生の隠れた率直さというべきだろうか。ところでこの「勉強」ということばは創作を意味するだけではなかった。というのは日記八月十日にこんな文章がみつかるからである。 今日は白樺のために宋元畫の原稿をかく。三四枚しかかけぬが、近日かいてしまはうと思ふ。*105 このちょっとした感想はやがて『東西の美術を論じて宋元の寫生畫に及ぶ』という題で一九二四年一月の雜誌『改造』に掲載された畫論に結晶する。さらに後になって『宋元の寫生畫』*106として出版されるにいたった。ところで関東大震災被災前の劉生は、いったいいつ最後の古畫を求めたか。つまらないことのようだが、日記でさぐってみるかぎりではそれは七月十二日になる。この時点で劉生の蒐集点数は概算で約百十七点余。*107そのうち浮世繪五十点余、宋元畫三十点余で、その他陶磁器漆器・扇面などである。ようするにこれが京都移住前の劉生所蔵のほぼ全貌というわけだ。くりかえすことになるが、その中心は数では劣っていても宋元明などの古画だったと考えていいとすると、ここで一見不可解ともみえる記述にでくわすことになる。それはなにかというと、「自分は去年頃から支那の古い畫、主に花鳥靜物の小品を集めてゐるが、少々整理のため賣り度いものがあるので御希望の方に御ゆづりしたい。」にはじまる『白樺』八月号に掲載された一種の広告文のことで、*108そこには、つい先日まで手放しそうにもなかったはずの古画が突然「賣り度い」絵として列記されているではないか。 ○趙子昴筆王昭君圖 八十圓 売りたかった理由はごく自然なことかもしれない。ここに掲載された古畫の日記初出をしらべると、不明の一点をのぞく全部が一九二二年である。*109 いったい、畫を買う経験をかさねてゆけば、買った際の感激がうすれて逆にその欠点が眼につくのは自然のなりゆきというものだろう。眼は肥える一方で、しかもほんとうに欲しいものが買えない不満ばかりが募ってくる。たとえばいま引用したばかりの「明畫唐子白狗遊戯圖」をとりあげてみようか。この畫は十月十四日、両国の美術倶楽部の売立で入札し、十月十七日落札入手。四十六圓三十銭だったと日記にある。*110劉生はかねてから「舊赤星氏藏の、宋李迪筆の狗の圖」に感心しきっていたが、それと同型の犬を描いたものというのが入札に応じた最大の理由らしい。 名のない明の一畫工が、日頃からこの李迪の狗に感じてゐて、その形だけを帳面にでも模して來てこの畫を、愛するあまりに描いた小品ではないかと思ふ。唐子がついてゐるのは一層その感じを増させる。とも角、さういふ感じで、私は李迪の犬はとても手に入らぬから、せめてこの李迪の犬に對する、一畫工の愛を想像出來る、この畫を手に入れた譯である。そしてその畫工の樣な心になつて、やはりこの畫を愛玩してゐる譯である。*111 疑いなく劉生はこの絵を愛しているが、そうする一方で、しかしその眼のほうは非情にもそのこころを追い越してしまう。次々に超えてゆくこの眼を満足させるためには渋々でも「少々整理」してそれを次の購入にあてるのはやむをえない、と。このやりかたが劉生でなくともほとんどの蒐集家の常道であるのはわかるのだが、それでもなにか納得できない気分がのこるのはわたしだけだろうか。たとえばそこにあげた「明畫音乎圖」が旧志賀直哉蔵だとすると、日記の初出からはまだ一年有半のことにすぎない。はやくも萌した浮世畫、それも初期肉筆浮世畫への関心の移動。ふりかえってみれば、一九二三年三月二十四日の又兵衞風四曲屏風の入手はまさにその象徴的なできごとだった。この屏風は日記にも次々と登場する。 木村は蓮、八大山人、屏風、皆感心してゐた由、… *112 朝食後、美術寫眞畫報の桃山時代の美術の事などひろひよみする。例の浮世畫屏風手に入れたので、一寸その方に興味が動いてゐるのだ。*113 清宮はこの正月來なかつたので、鳩、葵、李唐、蓮、子昭野菜、八大山人等余の所藏中の佳品を皆知らぬ。河野は蓮、屏風、八大山人、寫樂を知らぬ。清宮はことごとく感心してゐた。*114 ひよつこり武者がやつて來る。長唄を切り上げて一階で話す。鳩、子昭の野菜、蓮、黄鳥圖、牡丹其他をみせる。屏風もみせる。皆感心してゐた。*115 とにかく驚く顔がみたい、誰にも感心してもらうことが劉生の喜びなので、弟子たち友人たちが感心すればするほど今度は逆に劉生にその熱気が反射し、歓びはさらに増幅して祝祭的な気分につつまれる。そんな繰り返しのうちに九月一日を迎えることになった。 |
*98 日記、一九二三年三月二十九日 『繪日記』2-pp.106/10 |
(八) 劉生の日記は一九二三年九月一日の関東大震災の大混乱にもかかわらず、一日も休まずつけられていて身辺の情況がよくわかる。*116家は倒壊したものの家族は全員無事で、愛蔵の古畫も奇跡的にほとんど無傷だった。*117劉生一家はひとまづ難を名古屋へ避けるための準備にかかるが、日記によれば何を措いても「支那の畫四つ、鳩、牡丹、薑、野菜」はもってゆくことにした。*118九月十八日名古屋に到着早々から、京都に家を捜しはじめて、京都南禅寺草川町の新居に移ったのは十月三日のことだった。 床の間に鳩をかけ、二階の床に薑をかける。大へんよろし。*119 その初日の様子はまるで家神を迎える恭しい儀式のようで、これではじめて劉生の日常生活は旧に復し連続性をとりもどしたようにみえる。地震の恐怖が去って、古畫にかこまれた日々のくらしがもどってきたあとでまず劉生が気にしたのは、自分の作品の亡失よりも、かけがえのない古美術名品の安否だった。 博物館焼けた等聞く。安全とも聞いてゐたが心配也。どうぞ無事を祈る。東京にあつた古美術品の出來るだけ被害の少い事を切に切に祈るものだ。*120 と書いた二週間ばかりあとの日記に劉生はこうもかいている。 ○新聞に、彦根屏風が焼けた樣に出てゐたが本當ならかへすがへすも惜しい。しかし井伊家が焼けたからといふ事からの推定であつて、本當でなかつたらどんなにうれしいだらう、…*121 当時又兵衞作とされていた彦根屏風はつとに劉生が感心してやまなかった作品の尤なるもので、『麗子弾絃圖』の発想もそこにあるほどだったから*122、それが焼亡でもすればとりかえしのつかない国家的な損失だと気をもんだのが杞憂にすぎないとわかったのは、京都に移ってからのことだった。 都新聞も來たがその中に彦根屏風が助かつた由出てゐた。實に實にうれしい。*123 このうれしさは通り一遍のものではなかった。「彦根屏風が助かつた」という部分には大層にも白丸の圏点がうってあるし、その記事を切り抜いて保管までしている。*124そんなところから劉生の心からの安堵と感謝の念が伝わってきて、美の守護聖徒劉生の面目躍如たるものがある。いったい、それまで存在していたものが不意になくなる、ぽっかりあいた虚無への怖れに人一倍敏感だった劉生だったから、彦根屏風その他滅盡の想像に美の儚さということもしたたか味わったはずで、物にこだわる蒐集熱など或は一気に冷めてもおかしくなかった。しかし実際にそういうことはなく、むしろ事態はその逆で、京都という絶好の地の利をえることにより古美術狂いは又新たな次元を迎え、一段と烈しさを増していった。 |
*116 ただし、八月三十一日から九月四日の分を実際にかいたのは九月五日。 |
(九) 京都へは昨年の十月三日に越して來ました。京都へ越してくると同時に例の古畫漁りの慾が出まして、以前より一層強くなりました、そして案外にも京都に古い浮世繪肉筆の多い事を知り、寫眞版を見てかねてから立派なものだと思つてゐた寛永時代の風俗屏風を發見しこれを手に入れる等、これ等は全く地震のおかげとでも申しませうか、とも角こちらへ來て、古い浮世繪に關する知識を得又多少とも蒐集し得た事は地震がもたらしてくれた大きな賜もので又、一つのよき地震記念とでもいへませう。*125 関東大震災からちょうど一年後に掲載されたこんな新聞談話が、その当時の劉生の古美術によせるこころのありどころを遺憾なく語っている。ここであらためて一九二三年をふりかえってみてもいい。宋元の花鳥畫にひきつづき熱中するかとみえる一方、「浮世繪大家畫集の浮世繪に關する研究を少しよんでみる。この頃かういふ學問をしたい氣がしてゐる。」*126 と日記にしるした劉生は、さらに松方幸次郎所蔵の浮世畫展覧会で「豫想以上結構、春信の中に數點、春章、寫樂等殊によかつた。もう一度みたく思つた。」とかたった*127その言葉どおり、四日後に再び展覧会を尋ねて、その余韻さめやらぬままに浮世畫の清水源泉堂をはじめて訪れている。*128また七月には政信の芝居図を上村から手にいれたりして*129、京都時代の方向がみえはじめてきている。なにしろ京都に肉筆風俗画の尤品が集まっていた時代だった。京都移住の翌々日さっそく古美術商「松木」を捜し尋ねたことが日記からわかるが*130、「松木」訪問はこれが最初なのではなかった。そこから日記をすこし遡ると、まだ名古屋に客となりつつ京の貸家を物色中の九月二十一日にこうあるのが眼につく。 志賀に別れ、古門前へ行き、松木へ行き、又錦繪の古いところ、うるし畫等みせてもらひ、欲しいのを別にして、その中、北齋などとかへてもらふ事にする。*131 この「松木」こそ劉生が京都でもっとも早くから知り、もっともよく出入りする店になってゆくのだが、先の引用で「寫眞版を見てかねてから立派なものだと思つてゐた寛永時代の風俗屏風を發見しこれを手に入れ」たと語った屏風も、じつはこの「松木」で見初め、ほぼ七カ月の交渉の末手に入れた「又兵衞風四曲屏風」のことだと断定していい。そして千載一遇と直観したこの名品を獲得するにいたる劉生の執着ぶりに、京都時代の度をこえた骨董狂いの実態がそっくりあらわになってくる。予想をはるかに超えた美の一領域の扉が俄然ひらいて、宋元花鳥畫とはまた趣を異にした「深さ」をのぞきこんだ「海鯛先生」の眼福をこえた眼の欲望にそこで立ち会えることになるわけで、しばらくその跡を日記に追ってみたいと思う。劉生が生涯愛着していたこの古畫にはじめて出会ったのは一九二三年十二月十四日のことである。 何か又兵衞風の屏風はありませんかと云つたらしばらく考へてゐたが一寸決した樣子して奥から小さい屏風を持つて來た。袋から出し、ひろげかゝる。相當いゝものか、いゝものが出てくれるといゝと思ひつゝみると、これは又驚いた、今年二月三日に河野通勢君を訪ねた時、河野がみせた例の又兵衞といふ花見屏風、強いミスチックなすてきな屏風の寫眞があつて、それを河野に無心を云つてもらつて來、もう片方の方の版を其の十二日に新良君が持つて來てくれた畫が今其所にひろげられたのである。全く驚く。一時はうつしものかと思つた。全く驚いた。二千五百圓といふ。どうしてもこの畫は欲しい。…何所の誰の所藏か本物がみたいものだと常に思つてゐたのだが今こゝにかうして賣りものとしてみやうとは思はなかつた。京都へ來た事はこれだけでもよかつた。實にうれしい。どうかしてこれを手に入れたい。*132 ○屏風どうかして買ひたい。内貴さんに話して二千圓つくらうと思ふ。どうぞ都合よく行きます樣神よ御守り下さい。(十二月十五日)*133 例の松木氏の屏風、とも角千圓内貴さんから來たから、それで渡したら受取つて來やうと出かける。(十二月二十一日)*134 松木へ行き、年内に屏風を買ふ事は一時み合せ、來春といふ約束をして承知してもらふ。(十二月二十三日)*135 蓁と買物かたがた松木へ屏風の手つけ少しばかり(百圓)持つて行つて蓁にも例の屏風みせてやる事にし出かける。電車にて古門前迄、松木へ行つたら主人居て、例の屏風みせてもらふ。やはりよい、どうしても買ひ度いと思ふ。百圓渡す。(十二月三十一日) *136 松木にていろいろみせてもらつたが、其中談がいつぞや一寸みた又兵衞風の二枚折屏風の事に及び、あれは鈍な下手のものと思つてゐたところ、主人はあれはめつたにない逸品のつもりだといふ。暮にみせた四枚折よりいゝ位と云ふ。(一九二四年一月二十八日) *137 松木で例の二つの屏風を出してもらつて河野にみせる。河野大に感心する。但しあまりほめては困ると云つてあるので内心にて感心してもらふ。呵々。…男女舞の二枚折は是非近い中に買はうかと思ふ。買へる事を祈るものだ。(二月八日)*138 朝食してゐたら松木の爺さんが來るといふ電話の由、例の屏風のさいそくかと一寸心配したがぢきやつて來る。一昨日の表具の相談にてホッとする。しかし屏風も一寸さいそくされたり。五月迄と約す。とも角あの二つとも五月迄に買へる樣切に祈るものだ。神よ守り給へ。(三月二十五日)*139 夕方梅原が來る。又兵衞其他出してみせる。松木にある屏風の寫眞などみせたりする。(三月二十九日)*140 今日は松木へ寄り、屏風の價をきめて、それから三角堂へ行つたりいろいろの用あり。松木へ行く。清水から余に話した例の又兵衞も來てゐたが、一寸したものなれど高過ぎる。…屏風は三千圓などどうしてもせず、他に高くうれると云はれるのには困つたが結局二つで三千五百圓にし、今月は千圓払ふといふ約束にきめる。 (五月二十四日)*141 松木へ行き千圓渡す。右から左也、呵々。四枚折と二枚折をださせてみる。四枚折の方をとも角渡して貰はうとかけ合つたら、渡すは渡すが來月あと分をおさめてくれといふ。なあにとつてしまつて來月千圓も渡せばいゝのだがしかし二枚折の方が又非常によく、何しろ手まりの屏風をとられてゐるのでかへつて二枚折の方が今は手に入れたい位なので、これをもらつて歸る事にし、俥に乘つて屏風をかかへて歸宅。この方が手まりの畫より數等いゝ、(五月二十八日)*142 九時頃おきる。四枚折屏風のこと氣になるので斎藤君に相談に行くことになる。…斎藤君は丁度ゐてくれて話氣持よく聞いてくれ二千圓借りることになる。どうか都合よくこれもかへす事の出來ることを祈るものだ。何分今月も松木から催促が來るだらうし今日拂はぬと可なり具合わるい。他にやりたくないもの故、とも角一生懸命にこの金は返し、齋藤君の好意にむくいたく思ふ、神よ守り給へ、あの屏風がとも角手に入る事になつたのだと思ふと興奮する、感謝する。(七月二十二日)*143 あれもこれも欲しいという劉生の火がついたような慾には分別がなく、いくつも同時に進行してからまりあっている。あとに知った男女舞二曲屏風のほうを先に買うことにもなるし、名品を逃しかけた鬱憤のあまり別の畫にいっそう執着したり、日記をよんでいると、いったい本職のほうはと、余計な心配までしてしまいそうなやりとりがつづいているわけだが、ともかく一九二四年七月二十三日は劉生にとって大願成就の日になった。ようやくこの又兵衞風四枚折屏風をもって我が家に凱旋することができたからである。 松木へ電話かけたら待つてゐるといふのだ。俥にて出かける。綱引、四浪人、花見、傘ある風俗畫、座敷人物二點(内一點、齋藤君への分)の表具たのむため持參、中々まけたくもなかつたが余が一寸強氣に出たので結局二千三百圓でと言つてゐたが、二千圓にする。…屏風持つて歸る事になり、俥にのせて歸る。去年の暮この畫を發見して半歳以上たつた今日、とも角もこれを手に入れて歸る事が出來る。何といふ幸福であらうか、深く深くこの事を神よ感謝するものである。*144 ついでにかいておくと、「綱引、四浪人、花見、傘ある風俗畫」はおそらく四月二十七日に吉川觀方に譲ってもらい、その表装のし直しを松木に依頼したのである。*145 それよりこの日の圧巻はこれからはじまる一種の戦捷祝賀風景にあった。自分一人でこっそり楽しむよりは家族知友郎党と喜びをわかちたがるのは、劉生が意外に淋しがりやだったことの証拠でもあるが、ともあれこんな大騒ぎはちょっと他の畫家にはかんがえられないものである。 家へ歸り二階へひろげる。蓁、麗子、下村君、寺島君等集ひ來る。山岸、照子も來る。皆喜ぶ、感謝に耐えない。夕方福西君來訪、夜は御祝ひ事とて中村屋より御膳をとり、座敷へかざりお酒のむ。福西、寺島、其他家のもの皆して祝ふ。本當に喜ばしい、これから大にさわがうとしてゐたら吉田君、東山書房主人來訪、屏風みて大に感心してゐた。*146 相好をくづしつつ得意になって入手の経緯を吹聴する劉生の声がきこえてきそうである。これがどれだけ嬉しいことだったか、劉生さえ自分でも予想外のことだったのかもしれない。たとえば、この年十月の雜誌『不二』に劉生自身「插畫説明 寛永時代女歌舞伎屏風に就て」*147と題してかなり長い解説文をかいているが、いうまでもなくこの「寛永時代女歌舞伎屏風」は日記の「又兵衞風四枚折屏風」のことだったからである。しかもこれは単なる插畫説明などでなく、のちの『初期肉筆浮世繪』の筆だめし的デッサンともみえるほど力がこもって、かれの初期肉筆浮世畫観はここでもうすでに完成しかかっているとみえる。 やはり支那獨特のミスチックさでへんに生きてゐる。*148 というふうに伝毛益の虎を評したその劉生の感覚と、ここで、 初期浮世繪に描かれた人物は、不思議なミスチックさを持つ。そのミスチックさは、生きものとしての人間の生々しさの描出から來る。*149 と要約されている劉生の浮世畫観は精神的にはほとんど同型だとみなすことが許される。「ミスチック」であること、「へんに生きてゐる」こと。それは両者を架橋するための不変の骨子であり、さらに遡れば、草土社時代にえがいた油畫に秘められていた力の感覚にまでゆきつくのだ。例えば、以下の文にあらわれているような。 この頃、道を見ると、その力に驚いたものだ。地軸から上へと押し上げてゐる樣な力が、人の足に踏まれ踏まれて堅くなつた道の面に充ちてゐるのを感じた。赤土の原などを見てもそれを感じた。そこに生へてる草は土に根を張つて、日の方へのびてゐる。その力を見た。*150 劉生に宿る美にあってはその内面の力の感覚のようなもの、或いはその力の感覚のためにはその美をあえて醜と呼んでもかまわないという思考が初期からここまでずっと一貫してとぎれることはなかった。劉生の心は、西洋畫も支那畫も日本畫も同じ距離にあるこの感覚のうえに乗っていた。こういう生理に根ざした不変の内臓感覚を裏切ることなく、かれは自己の感覚の根拠をさらに美術史的な必然性にまでたかめようとしているふしさえある。古畫蒐集の対象が「花鳥畫」から「肉筆浮世畫」に、「支那」から「日本」にかわってきたのは、なによりまず自身の生理の自然だと十分承知したうえのこととことわったあと、いったい浮世畫の特徴はなにかといえば、 「浮き世」に對する深いリアリズムである *151 のだが、「世相への深いリアリズム」とか「世態へのリアリズム」とか言いかえてもいるその「リアリズム」が生まれたのは偶然ではなく、このことだけは言っておいたほうがいいと、やや居ずまいを正しながら、さらにこう続けているのだ。 それは正統系の美術の或る完成期の次に生ず可きものと見る事が出來る。即ち東洋に於ては、唐宋に於て正統系の美術は完成したが、元明に至つてそれは衰滅に向つた。丁度その完成期に日本に於て、大和畫が興隆し、浮世繪の第一歩と云ふ可き多くの畫巻物が作られた。日本に於ける、日本美術の第一歩はかくて浮世繪によつて興ると云ふ事が出來る。*152 ながく中国にあった東洋美術の血脈はその頂点に達した唐から宋を経て衰退し、かわって日本民族がその使命を継承したと劉生は言いたがっている。これは、劉生を知るものには思いがけない発想ではない。かれの生きた明治期日本で、ナショナリズム一般が膨張したのはごく自然だから、たとえば内村鑑三や岡倉天心の場合とくらべて、その同一性をさがすことはむずかしくないが、それよりもまづ白樺経由の「人類」の意志を胸深くに秘めた日本主義とかんがえたほうがいいかもしれない。しかしもっと根本的には、かれの日本への愛は近代日本的というより、文明開化嫌いの旧幕臣に親近感をもって判官贔屓したがる、歌舞音曲など遊芸好きの町人の感性にちかい点からみて、むしろ「江戸的」といっていいような気がする。*153つまり劉生を知らず知らずに浮世畫に引きよせたもっともおおきな理由をさがすとすれば、欧化に急な明治政府主導の文明の軽佻と粗野にたいする、成熟した江戸の感性からの反発だったかもしれない。頭の、ではない。ふだんは隠れている土地の霊が生涯の要所要所で劉生の身体をゆるがせて、うわついた流行とみるものに対して懐疑拒否のみぶりを無意識にとらせたのだ、と。 |
*125 岸田劉生(談)「地震が齎した大きな賜もの」『大阪毎日新聞京都滋賀附録』大正十三年九月一日(→『全集』3-p.485) |
(十) しかしさきを急ぎすぎてはいけない。京都時代における劉生の内面におこったこの大きな流れをさらに確かめるために、もういちどはなしを一九二四年の年頭にもどすことにしよう。この年の一月二日に劉生はこう日記にかいた。 午後川端君を對手に陶雅堂藏寶の目録を造つてみる。唐畫の逸品が九點、次のものが二點、其他合せて唐畫が總てで十七、日本畫が又兵衞をはじめとして十一、浮世畫木版畫清元丹畫其他をはじめとして十七、總數四十五點、其他いろいろあはせたら五十幾點になる。價格も五六千圓のものとなる。*154 ここだけ読むと劉生所蔵品が全体で「五十幾點」といっているようにみえるが、そうではない。日記から検索することができる数は、移住後一括して売却した北齋作品などを差し引いても百三十点はくだらないし、すこしあとのことになるが、一月二十七日に東京から久しぶりに蒹葭堂が訪れた際、「地震後の余の蒐集の多く又いゝのに驚いてゐた。」*155くらいだからである。してみるとこれは、劉生が目利きの名誉にかけて、誰がみても恥ずかしくないもの、ながく手許に残しておきたいものだけに限った点数とかんがえたほうがいい。「陶雅堂藏寶」目録とする所以である。また、この頃のことだろうか、劉生は木村荘八にむかって、絵を制作するよりは絵をずっとみていたいというようなことをいっているのだが*156、これは間歇的にあらわれる劉生の退休のこころのあらわれかもしれない。「みる」ことは描くこととはまた別の境地があるとして鑑賞を重視する、制作者にはいそうでいない、意外にめずらしい姿勢が劉生にあったことはすでに指摘したことでもあるが、*157 さらに一歩すすめて、世間から隠れたいという意外な望みならぬ望みがないわけではなかったということは、精力的な活動の蔭にかくれてなかなかみえにくいものの、しかし無視することのできない劉生の半面だったことを、ここから推測していいようである。 それから約半年たった一九二四年七月二十三日、例の又兵衞風歌舞図が手に入ったその時点で試算してみると、所蔵点数はさらにふえて恐らく二百点をこえている。*158ようするに京都移住以後、あらたに百点ちかく手にいれた勘定になる。その量もすごいが、それより大事なのは、そのほとんどが初期肉筆をはじめとする種々の浮世畫で占められ、あれだけ夢中になっていたはずの花鳥畫のほうはみるべき成果として、かろうじて「雁圖」*159、「胡(金)+賛の狗圖*160、「唐子傀儡圖」*161趙伯駒「圓窓花鳥」*162をあげることができるくらい、寥々たる状態になっていることのほうである。ここに至ってようやく「唐畫」に対する倦厭倦怠の情がやっと表面化して、たとえばそれは、こんなところにも暗に顔をだしている。 午後、佐竹來訪、…畫會の事たのみ、畫帖に繪入で面白い主意書をかく事にして、晩それをかく。古賀海鯛唐江賀瓜鯛といふ序文を書いたりする。*163 「唐江賀瓜鯛」は「カラエガウリタイ」を洒落ていったもので、「カラエ」はもちろん「唐畫」。見飽きた手持ちをそろそろ売りにだす。宋元古畫に関しては、もはやそういう心境に劉生はなっている。たとえば、 木村君にともかく子昭の蓮を貸す。もしかしたらゆづり度くも思つてゐる。*164 子昂の王昭君、南畫馬人物其他を二百圓で買へといふのにこれも承知せず、*165 木村斯光君より便あり、グチのみそづけをもらふ。唐畫犬と唐子かへして來る。*166 など、日記のなかにさりげなく「唐江賀瓜鯛」劉生の畫策ぶりが散見するようになった。ただし、これはあくまで「売りたい」のであって、「売った」のでも「売れた」のでもなかった。北齋をまとめて売り払ったように「唐畫」を処分したかったわけではないのが面倒なところで、「もしかしたらゆづり度」いという、奇妙な表現に劉生の逡巡ぶりが見え隠れしていて、そこを注意深くみわけないと、劉生の心をあやまって極端な日本回帰の典型にさえしてしまいかねない。かれの「日本」は新興明治国家に背をむけても、古雅な「支那」に愛想づかしをしたわけではなかった。かれが夙に名品とみとめたものに抱く尊崇の念はゆるぎなく、あいかわらず大切にあつかっている気配である。 出かける前、藤岡が來て、黄鳥圖と花楮の表装出來持つて來る、よくなつた。*167 夜、藤岡が來る。明畫花鳥の表装出來、金らんにて大さう引きたつた。*168 などというように、滋味掬すべき小品を自分好みに仕立てなおすことにまた別種の楽しみをみつけ、その小さな壺中天に心から遊んでいる劉生を日記から拾いだすことは、だからそうむづかしくないのである。また十二月十九日の日記にはこういう記述がみつかる。 尾高君が一番上の兄さんと來訪、いろいろ出版の話など出、一つ三十圓位の本で筆耕園の樣な色刷を入れた唐畫集を出さうかといふ話も出る。*169 どうもこれは『筆耕園』の体裁にならって、劉生愛蔵の「支那古畫」による画集をつくろうというはなしらしい。結局実現しなかったとはいえ、こんな企てが、ある程度の達成感の後を訪れる回顧的な姿勢ともみえることを劉生自身はよくわかっていただろう。 |
*154 日記、一九二四年一月二日 『繪日記』3-p.3「川端」は川端信一(茅舎)。畫家 川端龍子の異母弟。藤島武二に師事した後、武者小路実篤の「新しき村」の会員でもあったことから劉生に就き、草土社展にも出品。京都時代の「日記」に頻出。「陶雅堂」は唐畫をもじって名づけた劉生の堂号で、のち銀座に同名の店があることがわかって「唐芽堂」「塘芽堂」と代えた。「清元」は「漆え」「漆ゑ」の読み違いか? |