岸田劉生の日記を読む
(十一) そもそも劉生は眼の性がきわめていい、判断力の冴えた人だった。歌舞伎の本質が忠孝を悪どく仕立てた筋などでなく、やはり因習的と軽視される「型」そのものにあって、その「型」こそが命であることを、わずかな経験からたちまち見切ってしまったのはその感性の一端だろうが、そういう自身の眼力についても、骨董漁りという修羅場の経験をつめばつむほど自負の念はつよまってゆく。これがややもすれば独断とみられるところは北大路魯山人にも似て、他人の審美眼にめったに感服しなかったから、非があるとしたらそれは相手のほうなのである。土田麦僊に蒐集品を披露したときの感想など、そのいい例かもしれない。 唐畫及び又兵衞風のもの繪巻等いろいろみせる。感心してゐた。いろいろ畫の事など話したが、この人畫事はまるで駄目、いゝ人ながら本當の事は分る力のない人也。*170 けれども骨董漁りに深くはいりこめば、どんな目利きも怪我をしてしまうのがこの道の自然である。つまり贋物をつかむ。そんな失敗が劉生にもないわけではなかった。日記はそのことも隠してはいない。いくつかあげよう。その一例は「餓鬼草紙繪巻殘缺」*171であり、もうひとつは「又兵衞風二枚折屏風」*172である。どちらも入手後しばらくして原作の模写あるいは贋物とわかったのだが、そういうときの反応も、特別他のひととかわりはない。 さう言はれると、前々からどうも口に出さずに物足りず思つてゐたのが、ぴつたりする。余も見へない譯ではないのだが、つまり引きかゝつたのだ。…あまりものを欲しがる事つゝしむ可し、つゝしむ可し。*173 などと神妙になるのはそのときだけで、それでもやはり本当に力がこもっているのは「余も見へない譯ではない」という不本意のつぶやきがきこえそうなところなのである。 |
*170 日記、一九二四年五月十二日 (→『繪日記』3-p.172) |
(十二) それはともかく名品「又兵衞風四枚折屏風」を手にいれた七月二十三日を頂点とした劉生の一九二四年は、あらためて「又兵衞」の年といいかえることができる。日記には「又兵衞」という言葉が三日とあげずに登場して、しかもそれは作品のことだけではなかったからである。 大切りがドンツク、宗之助のドンツクは實によかつた。この芝居はへんな卑近美が味濃く出たもので、今日の芝居の中一番よかつたとも云へる。ドンツクがおかめをかぶつておどるところは實によかつた。又兵衞である。ともかくもかういふ古いものはいゝ。久しぶりで醉つた氣持になつて出る。*174 圓山へ行く道は衣をかへた美しい人でうづまり、京の春は又なく美しい。まるで浮世繪である、…醉つぱらいが大きな長い赤い風船をいくつも背負ってふざけながら歩いて行く等實に又兵衞である。*175 東山線を通る時分からもう奉祝おどりが居て、だんだん盛んになり縄手へ出たら大騒ぎ也。チョロや、鹿、チャリネ、すみよしおどり其他いろいろの趣向して、男女がエライヤッチャ、萬歳萬歳、おどれやおどれやおどらにやあかんで等と三味太鼓其他で囃し立て群をなしておどりくるつて歩いて居る。紅提燈其他で町は美くしく異常の感あり、又兵衞又兵衞と思ふ。 *176 南座でみた歌舞伎にたっぷり「又兵衞」趣味を味わい、花見ではどこもかしこも春爛漫の「又兵衞」風であることに酔いしれ、奉祝踊りのさんざめきの空気に瀰漫する「・舶コ衞」を堪能する。ようするに劉生の京都生活のなかで非日常的祝祭的な感興につつまれる時間があったとき、それをかれはためらわずに「又兵衞」的とか「又兵衞」風と呼んでいる。いうまでもなく最大級の誉め言葉として。そしてそのとき実は劉生の「又兵衞」は当時美術界で通用していた所謂「又兵衞」像から蝉脱しようとしているのだが、それはもうすこしさきのことにして、ともかく確かなのは古畫の魅力をかたるとき「又兵衞」が評価の基準となっているということに他ならない。もうすっかり宋元花鳥畫は劉生が支配する美の舞台の脇にしりぞいてしまった。作品のこととして、これを別の言葉でいうと、すぐれた藝術とは必ずしも一幅の畫が「作品」として完結した「世界」をつくっていなくてもいいのである。「又兵衞風」と劉生が名指すところの美なら美は現実から超然と孤立した世界ではなくて、もうすこし作品と現実とが融即したなにかであった。それは劉生のいう「内なる美」と融即しているといってもおなじことになる。それは、やがて発刊される『初期肉筆浮世繪』のなかで、いっそう確信をもちつつ、 形そのものの美ではなく、形によつて表されたる「世の中」又は「人事」といふ「事」の持つ魅惑、即ち美*177 自然物象描寫の道の、描寫の對象なり美的内容なりが、純粋の「形」に属してゐるのに對し、浮世繪の對象は「形」を通じて感じられる「事象」にある。*178 「事象」の美 *179 麗子立像の仕事にかゝる。昨日のポーズはどうも少し聖徳太子御八歳の像みた樣にへんにかたくるしいので、手をあげ扇を持つてゐるところ、幾分舞姿の樣にする。かうするとずつと浮世畫風の味が加はる。松木でみてある二枚折の方の屏風の左の方の女舞に似たもの、感じも似たものになる。*181 と、麗子像のうえに影をおとしているのは明かにわかると、いまは指摘するだけにとどめておこう。このあたりで再び日記のほうにかえる準備がととのった。 |
*174 日記、一九二四年二月十四日 →『繪日記』3-pp.62-63 |
(十三) 一九二四年七月二十三日から、日記の連続記録がついにとぎれる一九二五年七月九日まではあと一年たらず、この間に劉生があらたに入手したものは約三十点で、一時の勢いは衰えたものの、すでに累計では二百五十点をこえてしまった。*182 この三十点ばかりにざっと眼を通してみると、又兵衞尊しと叫んでいるわりには、「又兵衞」風でなさそうなのが多いようにみえる。単なる表記のもんだいだけなのか。いうまでもないが、いくら飽きっぽい劉生といえど、はやくも「又兵衞」に食傷してしまったわけはない。むしろ逆だろう。当時世間一般で「又兵衞」とよばれていた作品に親しみ愛玩しているうちに、どうやら劉生のほうである変化が、あえていえばある発見があった、ということに係わる。のめりこむことによってみえてきたもの。又兵衞の真作は意外にアカデミックでおもしろくないと劉生は考えはじめていた。面白くみえる又兵衞は、じつは真の又兵衞ではないのではないか。 つまり、又兵衞又兵衞と云はれてゐたが實は又兵衞でなかつたといふ作品の中に、又兵衞の眞跡よりは實は數等立派な作品があるといふ譯なのである。*183 ようするに、劉生が高く評価した「又兵衞」というのは、「又兵衞といわれているが本当は又兵衞ではない又兵衞風の又兵衞」といえばいいのだろうか。ともあれこの一年ほどのあいだの蒐集の尤なるものはといえば、一度は断腸の思いであきらめたものの奇跡的にとりもどすことができた「まりつきの屏風」*184と、吉川觀方を口説きおとしてわが有とした「紋唐紙風俗畫」*185、それに「職人盡二曲屏風」*186などをあげることができるが、いまはこれらについて詳述するときではない。そうではなく別の二つのことにいまは注意をむけたい。その一つは一九二四年十二月二十七日の日記の次のような記述である。 油繪がかけないので少々味氣ない心持す、…*187 たしかにこの年劉生は殆ど油絵をかいていない。すくなくとも『日記』を読むかぎり、それにかわって登場するのは、 昨日來た人で鳩の畫に感心してゐた人、余にあの通りの鳩をかいてくれとの注文あり、よき事也。(九月二十二日)*188 歳寒三友圖が氣にいらなくなつたので夜又桃の實の折枝を半切にかき、たうとう十一時迄仕事する。(十一月二日)*189 村田君來訪、箱書きした墨が余つたので森川さんの持つて來た紙に又兵衞風の童女かく。面白く出來たり、(十一月十一日)*190 午後から仮ばりにはつた鳥の子紙へ又兵衞風童女圖三つかく。又兵衞風美人畫を参考とし、一つは骨董集中、狗引く童女を今様に寫す、あとは御手玉とるのと舞つて居るのと也。(十二月十九日)*191 十竹齋から春の弄脂調粉を摸し、秋は橙柿圖を摸す、夏は夏の果物をかく。(十二月二十三日)*192 というような記述である。油絵を描いていた頃の劉生は、日が暮れるとともに油絵の絵筆をおいた。今はもうそういう風に印象派的な外光にはしばられず、むしろ燈火のもと、お気に入りの『鳩』図を写し、古い画譜のなかから任意に選んだ画題を模写して、文人風の生活を送っているようだ。そしてこのこととまんざら無縁ではないもう一つの傾向が『日記』のなかで目立つようになってくる。 思想來る。餓鬼草紙の事上野氏の論文あり少しよむ。*193 源泉堂にて審美書院發行の浮世繪畫集の第一編五十五圓にてとる。…外に骨董集の元本ありこれもとる。*194 この頃骨董集がシゲキとなり徳川時代の年號を記憶してみやうといふかねての考を實行し、やりはじめてゐる。*195 古美術品目録と嘉永年間にかゝれた喜多川守貞の近世風俗史とをかりて歸宅。*196 近世世相誌をみてゐたら古い吉原通ひのうたに「小室」ぶしといふものあり、又、「土手」ぶしといふものあり、*197 夜、福西君來る。芥子園畫傳、山水と人物持つて來てくれる。*198 朝、江馬務氏の妖性變化の本少しみる、面白き本也。*199 文華堂へ行き福富草紙の複製と藤懸氏の浮世繪といふ本をとり歸宅。*200 文華堂にて芝居錦繪集成といふ本あり、いゝ本也。十五圓といふ、外に笹川氏の日本繪畫史を求め、…又丸太町へ行き、師宣畫の古今役者物語一圓二十錢にてとり、*201 昨日とつた日本の繪畫史讀んでみたが期待した程でなし、芝居に關して浮世繪の本は面白い。*202 夕方東山書房から使あり、山東京傳著浮繪類考の寫本、喜多川李荘著近世風俗史、浮世繪名家詳傳、小島烏水著浮世繪と風景畫等を貸してくれ、*203 汽車中、繪入浄瑠璃の歴史をよみふける、中々面白し、 *204 福西君、種彦の用捨箱(新本)持つて來てくれる。ひろひよみする、面白き本也。*205 朝、國華がとどく、村井吉兵衞氏藏の四条河原の風俗屏風大變によし。*206 古画を愛でる劉生の傍らにもう一人、本を読む劉生の姿があらわれてくる。しかもその姿は次第に研究的になってゆく。手にした古畫に引きこまれてそこにみつけた世界の像を、みずからの作品になげかえす双方向的な精神の運動とは、また別の方向を求めているようなのだ。それを言葉の世界への転進といってもいいだろうか。自分の感覚だけを信じてあとの知識はいらぬげな志賀直哉の審美眼にさえ不満をかんじ、*207それ以上に触覚的感覚至上主義だった劉生が、ここにきて俄に言葉でその美を確かめたがっている。 浮世絵や絵巻をはじめとする近世風俗に関する本をよみふける劉生。そしてこの飽くなき知的な欲望は「又兵衞」的なせかいを求めてそこに遊びたがる心的な嗜好ときれいに相似の双曲線を描いている。ここには「支那花鳥畫」の蒐集と鑑賞のばあいにとは決定的にちがうある必然性があった。あるいはただそれが必至だったといってもいい。ようするに浮世繪は劉生の眼にうったえたばかりではなくて膚にふれ骨にくいこんできて、自分でも気がついていなかった「幻の身体」のありどころを感じさせつづけているのである。わたしが作品に乗りだしてゆく。ミスティックな力の感覚。それは幼少の記憶につながるとともに、きわめて現在的な意識としての「でろりとした美」を発生させる場所でもあった。 他のどの審美にも容らない一つの「世態人事」の形象的價値といふ「美」がある。これが或る民族的又は人類的な美術史的要求の下に、或る定められた時機に於て、この世の美術の世界の中に芽生え、發達し、華となつて咲き亂れたのが我が浮世繪であって、 *208 というのがそこである。岸田劉生の「浮世繪」観であるところからでてくる、かたちそのものが美なのではなくその「こと」の美、いいかえれば、 「事象」の美 改造が來る、田中喜作君が浮世繪の事かいてゐるのを拾ひ讀みしたが参考にはなる。浮世繪を只のデカダンスにしてしまつてゐるのは淺見也。*209 浮世絵は絶対に「只のデカダンス」などではない。デカダンスと浮世絵はしばしば結びつけられて、そういう面は多分にあるだろうが、劉生が愛好する初期肉筆浮世絵のなかに生きて動く真の生命力は頽廃やデカダンスをはるかに超えている。というか、突き抜けている。そういいたげな劉生の「浮世絵」観はこの頃すでに独自の領域に足を踏みこみつつあった。ただ『日記』では、そんな事情は殆ど伺えない。かろうじて、次のような記述がみつかるだけだ。 つまり迫眞感如實感は合一の快感で、それは整頓の快感、してみると美的法則にある筈、すると非雅的遊戯的感銘は如何といふ問題也。翌日になつてこれは迫眞感は整頓迄の要求にて、積極的なる修飾欲でなく、美的要求でなしといふ解決を得て、うれしかつた。(十二月八日)*210 これだけでは、ほとんど判じ物のようにしかみえないが、劉生自身のこころおぼえとしてはこれで十分だった。これを酵母として、美をめぐる思考が次第にふくれあがってゆく。そもそも美術は、 主としてこの摸倣本能と装飾本能との様々なる渾一によつて出來てゐる…*211 として、美の本能に二つの極を仮定したうえで、「摸倣」のなかに自然主義的描写や深いリアリズムをみつつ、一方浮世繪に特徴的に現れているのが、西洋近代美術や宋元の絵画に劉生がみてとった「摸倣」をこえたなにか、 「形」を通じて感じられる「事象」にある。*212 とみるとき、あきらかにそれは美の本能のもう一方の極とされた装飾本能のはたらきに触れている。そしてそれは、真の美的要素は「質」ではないなにか、「形式」のうえにのみ顕現する本能だと劉生は考えていて*213、たとえば浮世繪が浮世というその「こと」そのものの肯定賞讃をその命としているとするなら、またそれは遙か古代社会の國見とか國ほめとかの呪術的身ぶりに遠くつながってゆくかもしれない、美とは世界を装飾するちからであるという考えに、ぼくらを導いてゆく萌芽をさえかんじさせる。まだそこまで断言はしないが、その形を現しそうになる思考を劉生はなんとかまとめようとしている。このことは重要だから別の機会に詳しく論じることにしたい。ところで、 秋には是非浮世繪の本を出したいと思ふ。*214 と劉生が日記にかいたのは一九二四年七月四日であった。この「浮世繪の本」というのが、やがて体裁をととのえて大正十五年五月に出版される岩波書店版『初期肉筆浮世繪』になるはずである。*215 |
*182 筆者の試算による。 |
(十四) 千九百二十四年から・s\五年にかけての『日記』をよみすすめてゆくと、あきらかにそれまでのような熱気がうすれ、いくらか投げやりな印象が眼につくようになる。とりわけ蒐集のことが語られるときにそれが甚だしいようだ。ひとつ例をあげると、『日記』に記された蒐集品の同定作業が以前にくらべてずっと難しくなってくるということがある。それまでは簡単に説明されていても、いつみた作品は、次どこにでてくるのか、その同定が比較的たやすかったのだ。ところがこの頃になると、 午後爲さんが來て先日の屏風の引き替金千五百圓持つて來てくれたので大に助かり安心する。(二十五年五月二日)*216 と書かれている「先日の屏風」がどれにあたるのかわからない。これは極端にいうと劉生のほうに分別しようとする気力が萎えかけていることを想像させる。それと同時に、もう無理を承知で身銭を切ることがめっきり少なくなり、みたては一層辛口になるが、ただ見るだけで終ることが多くなり、ちょっと触手がうごいたものは寧ろ友人のために仲介することがふえてきた。こういうことが重なった結果、それまでのような『日記』をよむ楽しさは次第に減ってゆくと言わざるをえない。劉生のほうで日記をかきつづける努力にそろそろ限界がきたことのほうに、そもそもの原因があるからだろう。そんな一日こんなことがあった。 運送屋が來たので、屏風六つ、かけ軸八、巻物一,十五點の浮世繪肉筆畫を運送に託す。送り先は岩波也。(五月十六日)*217 これはいうまでもなく、準備中の『初期肉筆浮世繪』に図版掲載するつもりで、出版元へ所蔵品を送ったということを示している。五月二十八日には劉生が神田の岩波書店を訪れた。この時ちょっとした波乱がおこった。 岩波に岩波の友人といふ人あり余がとどけた浮世繪などみせてゐる中その人の粗そうにて、最近買つたうるし繪を火鉢の中に落したが岩波さんがすばやくよけてくれて助かる。…插畫の目録をつくる。六十二三枚となる。*218 ここから『日記』がついに途切れるまで、あと僅か一カ月余である。そこに『初期肉筆浮世繪』に関する記録は、もう二つ載っている。 朝坪内さんのところへ、浮世繪の本の序文かいてもらふ樣手紙でたのむ。(六月二十四日)*219 浮世繪の本の序文五六枚かく。(六月二十五日)*220 坪内はもちろん坪内逍遙。上梓された本に掲載された「序」は五頁におよび、十四年七月下旬の日付があるから、すぐ書いてくれたのだろう。この「序」は通り一遍の挨拶に終始したものでなく、作品に対する劉生の無私の眼を見抜いて「深切な同情」と語っているのはさすがである。*221『日記』でいう劉生の「序文」は本のなかの「自序」にあたるか。そこで劉生は「初期肉筆浮世繪に心酔し出し」ておよそ八年ほどだといっているが、長くはないこの時間で、いくつかの示唆に満ちた一冊の本をかきえたということは、あらためて驚いていいことかもしれない。 |
*216 日記、一九二五年五月二日 『全集』10-p.107 |
(十五) 大正九年一月一日の記述をもって始まった岸田劉生の日記は大正十四年七月九日(木)の日付をもって連続記録がついに打ち止めとなった。そして、岩波書店発行岸田劉生著『初期肉筆浮世繪』がようやく発行されたのが大正十五年五月一日。この間の劉生の古美術蒐集に纏わる動静は不明だが、購入はあっても恐らく数点にとどまると想像していい。*222 劉生の眼はあらたな方向をながめはじめてでもいるのだろう。そういう意味でも「私の貧しい鑑賞の記録である。」という『初期肉筆浮世繪』は『日記』にみえる劉生の古美術清玩の集大成だといっていいだろう。 |
*222 一九二六年の新蒐集品は二點である。 |