岸田劉生の日記を読む
東俊郎
(一) 一九二〇年(大正九)の元旦、岸田劉生は日記の冒頭に「今日より余は三十歳となる。新らしき心地幾らかする。」と書き、しばらくあとに「夜麗子の座像を二階にて毛筆にて素描す。麗子も七歳になつてますます愛らしくすこやかなり。」と記した。ところが、この日の文末に「(十五日午後誌す)」とある。元旦のこととして実際に筆をとったのは二週間後だったわけだ。劉生はすでに何度か「日々の記録」を試みて、毎年途中で挫折していたという事実が背景にあって、だから今度こそはという意気込みと一種の覚悟があった。そして今度は成功した。この一月一日の日付をもって始められた日記の試みは、これ以後一日たりとも欠かすことなく一九二五年(大正十四)七月九日まで延々と続くことになったからである。 劉生の日記のなかで最も古い日付は、一九〇七年(明治四〇)二月一日である。「雨は昨日霽れて今日は快晴なり、北風飄々膚を刺し寒さ常になし/郊外寫生を想ひ立ちて家を出で立つ時正に十一時/冷氣我を襲ふ事切にして…」*1後年のくだけた調子とくらべると、文語の痕をとどめたその文章は簡潔というよりも生硬で、まだ日常を掬いとる話体の自在を獲得していない。因みに、連続記録がついに打止めになった大正十四年七月九日の日記はというと、「十一時おきる入浴。午后か・逑~瓜でもかゝんかと畫室に入り冬瓜をみれば、うまい工合に冬瓜に粉がふいてゐる。…武者より明日大阪へ來ないかと速達ありしかどつかれたれば止める事とする。日記ためたのをつける。」*2で終わっている。一九〇七年から数えると、ここまで約十八年、この間日記の文体劉生の生長とともに青くささから脱して次第に熟してゆき、劉生の身心をのせてはるかに滑らかに闊達に、口語的な自在さを得るところまでゆくことができた。たとえば、上野の博物館の表慶館へ「支那の古畫」を見にいった一九二三年四月十七日の項、 かけてあるものは、舜擧となつてゐる牡丹、蓮、呂紀花花、舜弼といふ人の花鳥牡丹にをしどり、王蒙の畫巻と幅、宋畫維摩、日本では雪舟の有名なだるまと、腕を切つた坊さんの圖、元信其他 皆相当にいゝが、やはり舜擧の牡丹は逸品だ。蓮はまるでいけない。舜弼といふ人ははじめてだが一寸いゝ。をしどりなどへんに感じがあつた。しかし、余の鳩に及ぶものは一寸ない。牡丹はさすがにいゝが。*3 またそれの少し前、同年一月二十日新富座で歌舞伎をみての感想、 この劇に出て來る囚人が又不思議なグロテスクだ。…酒づくしのせりふも面白い。二つ胴に切られるところもへんに生なグロテスクである。かういふミセモノ味は舊劇になくてはならぬ民族味だと思ふ。…大切の勢獅子は實に素敵であつた。バックの土呂畫式な祭りの町の景、提灯などすべて江戸式の美しさ、…全く魅せられる。*4 などには劉生の心躍りまでがじかに感じられる。とりわけこの二十三年前後は、残された劉生日記のなかでも充実した時期で、劉生の暮らしぶりを覗けるばかりか、まるで手にとるように、その息づかいまできこえてきそうな親しみを感じさせ、絵からうける印象とは又別の劉生がたちあがって、読むこと自体が文句なく楽しいのだが、京都時代の後半に至るとようやく日記記述への忍耐にも限度がみえ、連続記録はとぎれることになる。ただしその後も断続的にはつづいて、それから四年たたない一九二九年(昭和四)、二月二日の記述*5が、現在残る劉生日記のほんとうの最後となった。 そういうわけで、劉生の日記の全貌をみわたすには、 (一)一九〇七年二月一日から、一九二九年二月二日まで二十二年にわたって書かれた。ただし(二)の期間以外は中断多し。 (二)一九二〇年一月一日から一九二五年七月九日の間の約五年半は、一日も記載が欠けていない。 と整理しておくとわかりやすくなる。ともあれ、劉生の日記に並行しているのはどんな時期にあたるか、もういちど劉生の生涯をふりかえってみてもいい。キリスト教の信仰をとろうか、それとも画家になろうかと二者択一に苦慮していた十七歳の頃から、最後の麗子像となった『麗子十六歳之像』をかきあげ、海を渡って満洲への旅を試みた帰途、徳山で客死する年までを含む、ということだから、画家としての劉生のほぼ全生涯を覆うといってもまちがいではない。しかし、日常の劉生の面白さをふくめて、重要な出来事がつまって眼が離せない出来事は(二)のほうの日記に集中する。そしてそれらを丹念に克明によめばよむほど、一九二三年九月の関東大震災が、画人としても生活においても、ある決定的な分水嶺になっているということがわかる。まるでこの偶然は劉生がひきよせた不可避とみえてくる。それが、かれを鵠沼から京都へ移住させ、さらに京阪の遊蕩的な雰囲気によってあたら天才を溺れさせ堕落させたと、多くの人からいわれるに至るわけだが、ほんとうは少しちがう。劉生には酷な架空の物語がつくられてしまった、それと殆ど同じ材料を使ってもう少し別のことをいうのがこの論文の目的である。 |
*1 日記、一九〇七年二月一日 『岸田劉生全集』第五巻三頁(岩波書店、一九七九年。以下『全集』5-p.3 と略記する) |
(二) すでに引用した一九二三年四月十七日の日記にかえってみよう。そこにある「余の鳩に及ぶものは一寸ない」とはなにか。判じものみたいだが、これは岸田劉生が鳩は鳩でも邊文進筆とされる『鳩圖』を所蔵していたという事情を知っていれば難しくない。名品揃いときいて展覧会に足をはこんだが、どうもいけない、これくらいなら、自分のもつ鳩図のほうがずっとましだと自慢の鼻を蠢かせている場面なのだった。『日記』によると、この前年十月十五日に劉生は東京は麹町にあった古美術商中村好古堂の本宅を訪れている。その時見せられたものから三点ばかり*6を後に購入したのだが、なかでもこの邊文進筆『鳩圖』については、 これは又驚いた。何といふ生きた、そして靜かなあたゝかい味だらう。簡素でしかもシンとして複雜な味を出してゐる。鳩が水盤の水をのんでゐる圖だが、色も筆もともにいゝ。欲しいが千五百圓の由、とても手が出せない。*7 と手ばなしだが、自分みたいな貧乏絵描きには到底無縁とあきらめかけては、そこは粘り腰の執着つよく、結局一ヵ月ほど後の十一月九日に我がものとすることができた。その日の『日記』に劉生はスケッチ*8まで添えて嬉しがっている。 鳩の畫、結局七百圓で、あと三百圓は僕の畫といふことになり、金はいつでもいゝといふので百圓だけおいて鳩の畫を持つてくることになる。實に實に何とも云へぬ程うれしかつた。永い間欲しくて欲しくてたまらなかつたものだ。感謝にたへない。余のコレクションもこれで中々しつかりしたものになつた。*9 もっともこの感激にはすでにひとつ前哨戦があった。古美術中村好古堂は当時の古美術蒐集家、というよりは骨董好きのあいだで名の知れ渡った店として、かねがね劉生もその噂を耳にして、そのうちきっとと心構えしていたはずだが、それを実行したのは二十二年十月十三日だった。日記にはこうある 思ひ切つて、中村好古堂へ行つてみる。…畫をみせてくれとて名刺を渡すと、番頭が來て二階へ通して、ていねいにしてくれる。三人〔注:劉生と妻蓁と木村荘八のこと〕、少々びくびくしていたが安心する。大きないゝ家だ。唐畫花鳥、文人畫など註文すると、さすがに品があるとみへて、ずかずか持つて來る。床にかけると皆いゝ。櫻におうむをかいた花鳥中々よく、高いだらうと思ふ。王元章の梅がこゝでも出たがこの方が本物だ。これも高からうと思ふ。小品の花鳥も出る。しばらくして價を聞いたら實に安い。おうむが八十圓の、小品の花鳥が二十圓といふ。そこへ中村寅次郎氏歸つて來たが、…水仙のすてきなのを出してみせる。これは中村君が愛藏してゐたものといふ。非常にうつくしく欲しいが六百圓にて買つたというので手が出ない。二十圓の花鳥を買ふ事にし、明後日中村氏の本宅へ木村と行つてみせてもらふ事にする。余がその水仙をあまり欲しさうにした故か、中村氏こゝろよく余の油畫と交かんしてくれると云ひ出す。…水仙の畫と花鳥 かゝへて出た時は、實に足が地につかぬ程であつた。*10 「實に足が地につかぬ程であつた」という表現はけっして誇張でないどころか、高嶺の花だと半ば諦めていた古画に手の届くことが突然わかった、そのはずみで自縄自縛の呪文がとけて収集欲に一段と火がついた、そんな劉生のこころを正直につたえてくれている。さらにその翌々日の十五日に好古堂本店で『鳩圖』とともにみせられた錢舜擧筆『葵圖』のほうは十月二十日に入手と、そういう一連の花鳥入手の興奮の頂点であり総仕上げとして、十一月九日の『鳩圖』獲得がきたのであった。劉生にとってこれは一大事件だったわけで、「余のコレクションもこれで中々しつかりしたものになつた」というのは、画龍点晴となったこの鳩図をえて、まずこのくらいになれば蒐集家といわれて謙遜することはないだろうという自足感の告白なので、それは同時に、かれがすでに古画古美術を予想以上に集めていたことを裏からものがたっている。 そこで、かりに一九二一年元旦を起点として*11、古美術購入に関する劉生日記の記事をひろうと、『鳩圖』入手の一九二二年十一月九日の時点まで、約二年のあいだに、劉生はおよそ六十点を集めていることがわかる。*12意外に多いことに驚いていいかもしれない。夜店で買った安物の陶器から次第にエスカレートして、浮世絵に手を出し、友人の木村荘八と分けあったり、木下利玄にもらったりしていることが日記を読みすすむとみえてくるが、初期肉筆浮世絵に狂ったような劉生の姿はまだどこにも現れていない。当時の劉生は浮世絵のほうは版画まで、そして真の関心はもっぱら「支那」の花鳥画のほうに傾いていた。 |
*6 十月十五日にみたもののうち、「呂紀風花鳥」・邊文進「鳩」・錢舜擧「葵」を劉生は中村好古堂で手に入れた。またその前々日十三日に、「水仙」「小品の花鳥」をすでに中村好古堂で得ていたから、「支那畫」が一挙に五点ふえたわけだ。 |
(三) 草土社を率いて同時代の画家に侮るべからざる脅威をあたえていた油絵画家、そして周囲の誰にも西洋に心酔しきっていると信じられていた岸田劉生の眼は、そんなときから夙に東洋に向いていたのだった。しかし、いったいいつから。一九二六年に出版された『初期肉筆浮世繪』の、前年七月二十五日の年記をもつ「自序」のなかに、注目すべき劉生の発言がある。 私が初期肉筆浮世繪に心酔し出したのはいつの頃からであつたか、七八年も前にならうかと思はれる。無論最初は只漫然と岩佐又兵衞の筆としてそれ等を見てゐたのであるが、…*13 これを信じれば、この関心の芽生えは一九一七,八年ということになる。要するに大正六、七年あたり、一時は死まで覚悟した身に健康がもどって、泰西肖像画に範をとった『川幡正光氏之肖像』とか、初めて娘をモデルに『麗子五歳之像』を描いて、漸く制作に自信をもちだした劉生*14が、 今はもう、デウレルの畫を見ても、さ程に絶望的にならない氣持になりました。一つは目なれた故もありませうが、必ずしも自分に出來ない仕事とは思へなくなりました。この頃は、デウレル、ダヴヰンチに深く傾倒してゐます。フラアンヂエリコの深さと神聖さにも驚いてゐます。*15 などとかくにいたった時季とほぼ重なるということになる。これより数年前には日本画の存在自体さえほとんど全否定していた*16のだから、これは自説をほとんど塗りかえ一新した、ある種の回心があったということになる。 いったい劉生というひとは、一カ所にとどまって狭い天地を深く耕そうとするひとではない。傾倒する画家には身心のすべてをあげて影響を浴びるだけ浴び、しかしいったん貪りつくせば、未練もみせずに次の獲物にむかって動いてゆく。悪意を込めた摸倣の天才という批判がうまれるのも、なにごとにも全身全霊で対するというこの気質があってのはなしなので、たとえば日本画評価の軌道修正は、さらに数年たてば、 ・坙{畫家が、日本繪具を不自由だといふのは、日本畫で油畫を描くに不自由だといふ事に過ぎない、本當に東洋美術の深い妙味が解つて、それを表はさうとする時には、かへつて西洋の寫實が、畫家の或る時の氣持にとつて、苦しい束縛に感じられ、不自由なものと感じられるであらう。*17 というようにさらに旋回してゆくのだが、その趣意書のすこしまえで、東西美術の優劣など、そんなに簡単にきめられるものでない、どちらも得手不得手があるといいつつ、こんなことも語っている。 私は永年油畫筆をとつて、自然を觀て來た、そしてそれによつて、得た審美によつて、不圖東洋美術の深い「心」が分つた。もし私が、西洋畫をやつて、自然を深く見て來なかつたら、きつと、今の私の識つた樣に、東洋美術の深い美の謎はとけなかつたらうと思ふ。*18 片言ともみえるこの言葉はみのがせない。「不圖」ということばにも深い含みがある。理解が突然やってきたようで実はその前に長い前史をかんじさせる。劉生の心裏に発酵しかけたなにかがあって、それを問いつづけてきた劉生の「自然」の見方が深まるにつれて東洋が西洋に交叉しつつみえてきたといっている。ただしこの「自然を深く見る」には、明治までの日本にはなかった西洋の影があきらかである。つまり、さぐってゆけばやがてロダンとか印象派とかセザンヌという言葉につきあたるべく、この「自然」は西欧近代の美術の到達点が発する特有の匂いをさせるが、とりわけ劉生のばあい大事なのは、それが多分に「白樺」派経由だったことかもしれない。 ロダンの彫刻が三つ來て、それをはじめて田中雨村君の家へ武者につれて行つてもらつて見た、武者からその時、手紙をもらつて、吾々は自然を見るのが大切だ、ロダンを見てもその事は分かる、ロダンには少しのごまかしもないと云ふ樣な意味のハガキをもらつた事がある、その自然を見よ、といふ言は不思議にその時強く僕の頭にひゞいた。*19 「白樺派」の中心人物のひとりである武者小路実篤。その武者小路からこの手紙/ハガキをもらったのは一九一二年のことである。「自然を見よ」とはほとんど神からの絶対的な命令として当時のかれらを導いている感じがする。なかんづく劉生はそうで、一九一九年の文脈にあっても「自然を深く見る」ときのその「自然」は依然として、というかますます強力にはたらき、かれのなかに息づいている。だからこういったほうがわかりやすいだろうか。描いて描いて、そしてさらにふかく描くために踏み出す足どりをたどってゆくと、西洋くさい「自然」のそのなかから、次第に東洋風の顔つきがあらわれてくるのだ、と。 いつ頃から私は支那の畫が好きになり出したか、はつきりは覺えてゐないが、とも角も五六年前迄はてんで解らなかつたといふのが本當である。何しろ私は「美」を西洋の美術から教はつた。だから「美」と云へば歐風の審美しか分らなかつたものだ。それが 三四年この方から追々に分り出したものである。が、しかし、はじめは東洋だつてさう劣つたものではないといふ樣な考へ方に過ぎなかった。*20 |
*13 岸田劉生『初期肉筆浮世繪』(岩波書店、一九二六年)「自序」p.7 |
(四) 劉生は一九一九年五月と六月に京都を訪れている。 この間二度京都奈良方面に行き色々古美術を見て來ました、東洋の藝術に今は随分引かれてゐます、裡に眠つてゐた東洋の美の傳統が目覺めさせられた氣もしてゐます。*21 「裡に眠つてゐた東洋の美」云々は、こういうときの常套句だとしても少々気になるところだが*22、いまはさきにすすもう。娘の岸田麗子によると、二度目の京都行きのときに妙心寺や仁和寺を尋ね、奈良の帝室博物館では吉祥天図(薬師寺)と技藝天(秋篠寺)などをみただけでなく、本命だった法隆寺金堂の壁画を浜田青陵の口ききで、こころゆくまで堪能し感動している。*23 そして京都の榊原紫峰を訪ねて伝呂紀の花鳥をみたのは、おそらくこのときであった。よほど気にいったのだろう、劉生はこの花鳥画を紫峰からしばらく借用している。この間の消息はさいわい日記から断片的にうかがうことができる。 歸宅後、麗子をはじめて見たが氣にそまず二日程かいて止めた。ヴァンアイクのすてきな色刷が二つ、一つは佐竹が呂紀のかけものと一緒に(榊原氏よりかりる)持つて來たもの、*24 劉生はよほどこの作品に惚込んだらしい。だから後に再びこう書かずにはいられなかった。 私が最初に支那の畫を欲しく思つたのは、三年程前、京都に遊んで、榊原氏の邸宅で、傳呂紀といふ花鳥の幅をみて、欲しく思つたのがはじまりだ。*25 無心して断られたのかどうか、結局この花鳥画は紫峰に戻っているが、身辺を東洋古画で飾って楽しむという、それまでにない劉生の新しい生活のスタイルが始まったのは、おそらくこのあたりからである。*26 一方西洋美術をみる眼は逆に厳しくなってゆく。ロダンの評価についても武者小路とは決定的にちがってきた。*27 こうして一方での西洋離れとともに、ようやく自由になりかけた眼をもって古物蒐集に乗りだそうとする劉生を一九二〇年の日記からひろいだしてみよう。 蕪村や大雅堂、應擧などの文人畫など見、速水御舟の畫など見しも感心せず。(三月三日)*28 寺町通りの古物屋に入つて赤焼樣の鉢と小さい花差し買ふ。…芝川と古道具を漁りに古門前の方へ行つて見る。(四月四日)*29 下畫らしい毛筆の素描にいゝものがある。小さいものでザクロを持つて乳で子をやしなつてゐる女の圖は美しいと思つた。フゲンボサツの群像も美しかつた。総じて色彩はすべてよかつたが、惜しい事に皆顔に深い魅力が足りない。人を打つ力に乏しい。(四月二十一日)*30 中に奈良美術館の孔雀明王の圖は素晴らしいものであつた。今度行つたら是非みたく思ふ。強い單純な味で深いものがいきなり出てゐる。不思議な美の出てゐる畫だ。(五月二日)*31 日本橋裏通りの古道具屋をひやかし、小さな支那の茶碗やエビのおもちやなど買ふ。(六月十五日)*32 椿の處で、原の家で見た古佛畫の塔と佛像のあるいゝ畫の複製みる。この畫は見た當時隨分感心し椿ともその畫の事話した樣にも思ふが、今迄その複製があるとは知らなかつた。…その他、支那の小兒などかいた畫に一寸面白いのがあつた。(八月二十八日)*33 上野に行く。表慶館の佛畫の中殊に普賢ボサツは感心した。芳涯のものはつまらぬといふ以下である。…錦畫や能面を見る。錦畫は隨分よかつた。舟みこしの祭りを描いたものは素敵だつた。その他豐國にいいものがある。能面もいつもいつもいゝ感じをうける。あそこは極樂だ。(九月二十八日)*34 日本橋の三越の前で錦畫の複製とる。銀座に出て審美書院に行く、鳥毛立女屏風の色刷はいゝものだつた。…因果經繪巻と古い浮世畫の複製買ふ。(十月十四日)*35 劉生の眼の鋭さと凄さは長く鍛えた結果でなくどうも生得のようである。その異能の片鱗はここでもあきらかで、判断に一瞬もためらいがない。初心はすでに本心になっている。『日記』五月二日の「深いものがいきなり出てゐる」とは、対象がどうというより、直観のままに深いものがいきなりみえる、おのれの能力の無意識の自覚であって、だからこそ、最高に誉めたいときの劉生は、「へんに生きてゐる」か、このことばかをくりかえして飽きなかった。ところでこれら一連の記載の白眉はなんといっても「今日は横浜の原善一郎君の處へ、毛益の猫、その他を見に行く日。」にはじまる十一月二十六日の三溪園訪問だった。 山の上の別荘はシヤれた立派な家でタゴールが留つてゐた處とか。和辻來る。三人でいろいろ見る。宋の前、ゲン時代の風景畫、上圖の如き〔絵がある〕ものはいゝものだと思つた。毛益の猫は さすがに刺戟うけた。小さなもので猫などは小さく描かれてあるが、深い儼然とした感じがこもつて、色も筆も美しい。へんに生きてゐる。その他推古佛のブロンズにいゝものがあつた。天平時代かの伎樂面も見た。*36 この時劉生は三溪園主人原富太郎には会っていないようである。そうでなければ二年後の一九二二年十一月二十三日に、今度は西郷健雄の招待で三溪園を再遊した折の日記の口調がこんな風にはならない。 唐畫花鳥の中、毛益、舜擧の葵、その他を是非みせてもらひたかつたので、それを階下の庫より出してもらふ事たのむ。かれこれしてゐたら其處へ原君のお父さん、當主の富太郎氏が來る。思つてゐたのとちがつて大へんいゝ人らしく…大變好意持つてくれて、いろいろみせてくれる。*37 そして、だんだん話を聴いているうちに、十一月九日に獲得したばかりで絶品とみた『鳩圖』が、じつは三溪園主人の旧蔵だったことがわかって驚くというおまけもついた。さらに三溪蔵錢舜擧の『葵圖』にしても、自分の蒐集品と比較しつつ「余の葵が必ずしもおとるものではない。」とする劉生の口吻には、大人気なさと重なる一種のユーモアが感じられるが、もう一つここでみおとせないのは文中に、 とも角も今から二年程前、原善一郎君にこれ等をみせてもらつた時には少しも解らなかつたのだといふことが、實に解る。今日みると實にいろいろの味がわかり感心する。*38 とあるところだろう。大雅や竹田や玉堂をはじめとする水墨画、文人画について、それらはついに劉生を心底とらえることはなかったとしても、好き嫌いをこえた深い理解の基礎はこの二年でまったく備わった。ようするに眼も肥えて、東洋の古美術への関心はますますひろがった。あとは心の欲する蒐集にのりだすだけだ。これはそういう心境にいる劉生をえがきだすための、またとない証言になっている。 |
*21 「色刷會報」『全集』2-p.271 因みに大正八年、劉生の関西行きの一度目は五月、京都市岡崎公園内京都図書館での「白樺十周年記念岸田劉生展」のため。二度目は六月、京都での草土社展のため。この時初めて宿泊した旅館「信樂」は白樺同人の定宿で、以後劉生も折りにふれてこの宿を利用した。 |
(五) 一九二〇年十二月に自選画集『劉生畫集及藝術觀』を刊行した翌一九二一年(大正一〇)になって、古画古物にたいするフェティッシュな所有欲、岸田の「海鯛(買いたい)」慾がようやくあらわになってくるわけだが、木村荘八によれば「ミイラ取りがミイラになる」*39に至るその行状の初期段階をあらためて辿ってみることにしよう。ここでもまた手がかりになるのは日記である。 支那町〔横浜の〕のある家で、支那の安物の美くしい陶器を買つたのでいくらか氣持がなほる。(五月五日)*40 芝川の所で、浮世畫大家集とかいふ本を見たがいゝ畫が澤山あるので一寸興奮してみた。これを買ふ事たのむ。(五月八日)*41 大正堂に廣重の田毎の月のいゝ版があつたが、欲しいので、聞いたら千三百圓といふ價がついてゐたが、…去年夏作の村娘坐像と かへてもいゝといふ氣になり結局持つて歸る事にした。(五月三十一日)*42 常磐木倶樂部で、大正堂から持つて來た例の廣重の田毎の月を價ぶみさしたら五圓といふ。…とてもいゝ畫と代へるのはイヤになつたからこれは返却しやうと思ふ。(六月三日)*43 芝川の處で支那の畫の本に犬の畫とサギの畫のいゝのを見てすつかり感心してしまつた。(六月二十一日)*44 芝川氏から廣重江戸名所の新らしい版の本二册送つてくれた。見てゐるとやはり感心する。そして昔の江戸の美くしかつた事を思つて羨ましい氣持にもなる。(七月十八日)*45 長與から沈南蘋の猫の畫かりて來る。(七月二十三日)*46 支那から歸つた鹽川から小包で白唐紙、支那色紙の他に、猫と花の畫一枚送つてくれる。猫の畫は支那人でなければ描けない面白いところがある。(九月十九日)*47 この二三年僕はだんだんと「東洋」の味がよく分り出して、その結果日本畫の美術品的要素にいろいろ面白い美を見出して、*48 志賀の持つてゐる、宋畫の「蓮花と白鷺」大へんよろし。その他シユンキヨの盛花支那畫の鳥、その他壺や支那の皿など大變美くしいものを澤山持つてゐる。皆感心してみた。(十一月二十七日) *49 レオナルドの本をみたり東洋美術(フェノロサの)の本などみる。レオナルドには矢張頭が下る。東洋のものは矢張深いと思ふ。善道子の釈伽と、文殊に感心する。釈迦の畫の深さは全く東洋の味だ。文殊の筆意の深い落ちつきとしづかさに感心する。(十二月 七日)*50 この頃劉生は東西美術名品の複製写真をすでに多数もっていたが、これはみづからの創作のアイデアを肥やすためであって、陶磁器類を求めたのも絵の小道具としてだったはずなのだが、この「支那の安物の美くしい陶器」入手のあたりから、あってもなきが如しの「美くしい」未知の領域に気づきはじめたのだ。そして、この蒐集家への初歩の段階で劉生にとって幸運だったのは、いうまでもなく芝川照吉の存在だった。ここにあげた例だけでなく、この時期の日記には頻繁に芝川との古美術を介しての清遊がかたられ、まず手ぢかな複製によって後世畏るべき目利きになるその眼を養っていたこともよくわかる。また信州旅行で買いかけた安藤広重の版画で見立てちがいをしているのも初々しい。劉生といえどもこんな初心を忘れ、やがて自信過剰からうっかり贋物をつかんだ後年とは対照的だからである。 またこの時期の日記からは、長唄に凝り、歌舞伎見物に寧日のない劉生の生活の一面がいきいきとたちあがってくる。劉生と歌舞伎という刺激的なテーマにはいま触れる余裕がないが、ひとつだけ引用する。 先づ面白かつたのは、市原野と忠臣藏の大星の山科閑居の場、終りの瀧夜叉姫の所作事等だつた。市原野では彦藏の獨吟大ざつまはじめてきゝやはりいゝと思ふ。中車の袴だれのある極りの形と顔には全く魅せられる、苦い味だ。中車は古典的で好きだ。山科の仁左エ門も古い型を尊重してやつた由、やはり中々いゝ味で、よかつた。瀧夜叉姫では秀調のおどりがよかつた。終りの花四天も美くしかつた。*51 いったい劉生は歌舞伎を型の連続としての踊り、或いは型の静止としての「極り/見得」として、つまりもっぱら絵画としてみている。*52視覚重視だから筋とか内容の荒唐無稽はじゅうぶん分かったうえで、それを難ずるより楽しむべきだ。こういいたげなかれの考えをさらに遡ってゆけば、旧劇の擁護から劉生における「反」近代の思想におのずと誘われそうである。おそらく劉生には歌舞伎をもふくめて「江戸」への郷愁があるのはたしかなのだが、そこを踏みちがえると、日本趣味東洋趣味のごく表層のところで足をすくわれるだろう。大事なのは劉生の思考はいつも二枚腰だということで、あまり細部にこだわらずに大観しなくてはいけない。すると、みればみればじつに微妙なバランス感覚がいつもはたらいているのがわかってくる。単純な直線にみえるのは、ほんとうは螺旋である。忘我の劉生のかたわらには、醒めた劉生がいる。ようするに志賀直哉の家で宋画を堪能する日があり、また別の日には以前同様「レオナルドには矢張頭が下る」のだった。だからまた、かれの守護神ともいうべきデューラーについてはなおさらのこと、東洋の深さに惹かれるからと、あっさりそっちに乗り換えるなどということはありうるはずがなかった。 デウレルの素描の本を見て今更デウレルに打たれた。全く自惚れてゐる可きではない。その觀照の深さには頭が下る。*53 日記にこうかくのもやはり一九二一年のことなのだった。この時期の劉生の想像力は中心がふたつある楕円型になっているといってもいい。近代以前の西洋にのばした触手は不思議なことに東洋につながってゆく。そういう複眼的なこころのありようの果てに漠然とみえかけたものを、だから次のように語ることもあった。 いつかは、東洋風の畫ばかり描く樣になるかしらなど何といふしつかりした理由なしに考へる事がある。/が、将來もずつと先きの将來は知らず、先づ當分は、洋畫の筆は捨てられない。そのかわり、捨てる可き時本當に來るならその時は捨てる。*54 |
*39 木村荘八「草土社─岸田劉生について」『美術』昭和二十一年四月 →東珠樹編『岸田劉生Ⅰ』(東出版、昭和五十一年)p.41 |