マティスからモローへ - デッサンと色彩の永遠の葛藤、そしてサオシュヤントは来ない
5-2.モロー、《一角獣たち》 画面が与える印象は、一見して、華やかさだといってよいだろう。モローが描く女性像の少なからぬ比重を占める<宿命の女>の主題をここにも認めることはできるにせよ、画面の華やかさは、文学的な連想を紡ぐことをさほど要請しはしまい。一角獣と処女にまつわる寓意なり、あるいはフロイト以後の視点から性的なシンボリズムを読みとることに対しても、同じことはあてはまる。茫漠とした遠景や海ないし湖などの舞台設定に、ある種の夢幻境を見てとれるとして、実際ここには有機的な生命の営みを感じさせない冷たさが色濃いのだが、ふだんのモローが描く画面に比べると、暗く沈みこむ度合いは、ほんの少し薄いような気がしはしないだろうか。 こうした印象が生じるとすればそれは一つに、画面の焦点が、前景の二人の女性をはじめとして、一角獣や少し下がった位置の女性たちなど、視線を結びあわせることのない複数の存在に散らされる点による。一見視線を交わしているように見える右の女性と一角獣も、一角獣の目がほぼ円形をなしているので、視線の絡みあいがほぐされているかのようだ。 しかしそれ以上に華やかさの印象を生みだしているのは、単一の色調に溶けこむことなく、複数の色彩がそれぞれ自己を主張している点、そして衣服の文様をはじめとする細かな装飾の豪奢さだろう。モローの画面においては、しばしば褐色、あるいはグレーが主調となるが、ここでは褐色は、中景の水辺や船などに登場するものの、決して全体を統合してはいない。赤、白、青、緑、青紫が、それぞれ比重を異にしつつも、他の調子に回収されきらずに響きあっている。やや冷たい感触を与えるこれらの色彩が、しばしば透明感をもって不定形に流動しようとするのに対し、右側の女性の肌色は、やや柔らかくぼかしたような、しかし丁寧な仕上げをしめし、その分形態としては、頭部を垂直に据えたことと相まって伸びを欠く感はあるものの、画面の蝶番の役割をはたしているのだろう。純色の兇暴さを中間色が宥和するとでもいえるだろうか。この明るく柔らかい肌色は、やはり未完の状態を呈し、線と色がずれたマティスの《坐ったバラ色のヌード(トルソ)》(一九三五-三六、個人蔵)を連想させなくもない。 他方装飾の豪奢さは、ただちに見てとれるとおり、ほとんどが肉付けを伴わない<入墨>だ(図30)。前景の群像、とりわけ左に立つ女性の場合、文様を描く線は、人体のシルエットをあまりはみだすことはなく、そのため<入墨>は、空間の表象自体を大きく乱すことがない。むしろ、入墨を透かして下の層が見えるという透過性と、色面の透明な流動感が相乗して、非人間的な華やかさの印象を強めることとなっている。左の女性はさらに、完全な横顔でとらえられ、その輪郭や目などが、文様と同じ太さの線で描かれており、色面と文様による冷たい豪奢に適合している。 この女性の頭部の両脇では、画面全体の空間にはみだした入墨を認めることができる。左側、画面縁に沿っては、盾のようなもの、右側では上にのびる枝葉が、線で枠どられている。さらに右の方を見ると、塔状の建築物が、輪郭と、ほとんど透明に見える薄目の赤で描いてある。その右でも湖上の四阿、船の帆に輪郭は施されている。よく見ると青紫の遠山や手前の岸辺にも、文様のような無機的な線ではないにせよ、軽く輪郭線が描き加えられており、モローにおいて線と色彩の乖離が、決して装飾的な細部のみに留まるものではなく、作画の過程全体に浸み渡っていることをうかがわせずにいない。 ともあれこの作品においては、動きのない入墨と、流動的な複数の色彩という二つの層の重ねあわせが、あまり強い違和感をきたすことなく、豪奢な華やかさという効果を生みだすことに寄与しているように思われる。もっともそうしたとらえ方が、二〇世紀の前衛美術を経過した後での、事後的なものでないかどうかについては、留保しておかざるをえまい。また事後的な視線であることを了解した上で、「フォルマリストに典型的な芸術作品の『品質』(クオリティ)の擁護論」を適用するなら、少なくとも油彩において、モローがより成功した例としては、《パルカと死の天使》(図31)や《ゴルゴタの丘のマグダラのマリア》(MGM.208/PLM peint.242)(233)のような作品をあげるべきだろう。前者を見るなら、そこでは絵具の物質性の運動とイメージによる限定とが、ある緊張の内に留められている。パルカや岩、山などで多用された掻き落としは、まさにマティエールとイメージとの抗争の痕跡と見なすこともできなくはない。 ところでこの作品では、黄やオレンジ、赤などの暖色をアクセントに、緑と青という寒色が微妙に変化しつつ、最終的にはグレー/褐色が全体を統一している。モローの画面、とりわけ後期においては概して、暗めの明度を基軸とすることで、その保証の上で個々の色を輝かせようとする傾向がある。これはレンブラントに由来するのだろうが、結果として<宝石細工>の鉱物的な冷たさを生じさせた。他方先に例示した《エボーシュ》(図18)でも、基本的には単一の色調によって統御されようとするとはいえ、色彩の調整を試そうとするためだろうか、緑、黄、赤、藍といった個々の色は、よりなまな形で併置されている。その結果、色彩はある種の記号のような性格を帯びることになる。「彼はその油彩および水彩習作の中で、私的な<コード>を展開させたのであり、それは彼に、一見もっとも自由な色彩即興の内に、未来の具象的構図を見分けることを許したのである」とゲルト・シッフは述べ(234)、フロイデンハイムはこの画面に《ヘラクレスとレルネーのヒュドラ》の習作を見てとった(235)。こうした画面に対し主題を同定しようとすることが、色彩の関係を観察する以上に重要かどうかは疑問だが、ともあれたとえば、覚書の以下の一節と関連づけることはできるかもしれない; 「一点の画面にとりかかる前に、色価と彩色の調性をよく定めておくこと。一点の絵の彩色を徐々に減らして、最大限で二つか三つの彩色しか持たないようにする;主調となるものをきちんと決めること。さまざまな絵の調和を、単彩にまで還元すること(力強く、色価はとても多様に):緑の、青の、黄の、赤の、橙の、紫の、黒の、グレーの単彩の絵。 「絵を逆さにして見、色価をきちんと確かめること、主題や描かれた対象、絵のありさまはいつでも、あなたの目をそこからそらしてしまう」(236)。 ちなみにシャセリオーの覚書には、「色調においては混合しないこと、自然はモザイクのように描かれる」と記されていた(237)。その関連はさておき、プレフィグラツィオーンの領域においてのモローには、単一の色調による統御から逃れ、複数の色彩を分散させようとする傾向が、少なくとも可能性として潜在していたと考えることはできるだろうか。 もどって《パルカと死の天使》に比べると《一角獣たち》では、入墨の微細さ、空間の位置関係における曖昧さないし混乱はおくとしても、中央の幹とその右の透明な赤い塔など、やはり構図上の焦点ないし統合性が散逸している感は否めない。マティエールとイメージとの緊張が充分噛みあわなかったがゆえに、複数の色がそれぞれに己を主張することが可能となった。ジョゼ・ピエールのいう<外側のアラベスク>もボワいうところの<原ドゥローイング>も成立はせず、ただ<内側のアラベスク>が上からかぶさるのみだ。色相の複数性に応じて線は、《入墨のサロメ》に比べてもより細かく散在しようとする。《赤のハーモニー》における文様のように色面との距離を縮めようとすることもなく、といって《オルガ・メルソン》の黒い弧のように、己以外の部分に対し外在することで緊張関係に立とうとするのでもない。色斑の散在は入墨の網がかけられることで、かろうじてイメージとして成立する。色と線の結びつきは、いつほどけてしまっても不思議ではない。イメージのこうしたこわれやすさが、遠く冷たい夢想を奏でるのである。他方、<内側のアラベスク>を<外側のアラベスク>に転換し、散在する色斑と再び交渉させることが、マティスの課題となるのだった。
追記 本稿脱稿後見ることのできた関連文献として、次のものを挙げておく; |
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