マティスからモローへ - デッサンと色彩の永遠の葛藤、そしてサオシュヤントは来ない
1-4.線と色の綱引き 「《ダンスⅠ》においてすでに、ポロックが《ナンバー十四:グレー》において定位することになるデッサンと色の統合が、粗描きされているさまを認めることができる。左端下部の足の部分を別にすると、ここには肉づけはいっさい見あたらず、色は、きわめて流動的にひろげられている。このため他方、何箇所かでは絵具が垂れてしまった。奥行きの効果はただ、平らな形態が重ねられることによってのみひき起こされており、これは、ポロックにも認められるところだ。何よりも、静的な構造という以上にダイナミックな起動者としての線の概念が二点のタブローでは支配的で、この二点は、ポロックにおける線についてマイケル・フリードが用いたすばらしい記述を援用するなら、『空間を充填するある種の曲線』によって創りあげられたのである。 「マティスにおいては、ポロックの場合同様『線が、形象を紡ぐのを妨げるべく用いられる』域に近づいており、かくして、線の下にあるバラ色の平塗りは、人体の形象と純粋に因襲的な関係しかもっていない。…(中略)…線はほとんど、色のひろがりを限界づけているようには見えず、色は他方、数箇所で線からあふれだし、そのため線には、内側も外側もなくなってしまう」(24) エリック・ド・シャセイの以上の分析は、ボワのいう<マティス・システム>よりは、エルダーフィールドいうところの、素描と色をいったん分離した上での統合という図式に近いようだが、とまれ、クレメント・グリーンバーグが指摘したという構図の「『遠心的な、もはや求心的ではない』組織づけ」(25)に資するかぎりで、《ダンスⅠ》における線と色のずれは積極的に評価されているわけだ。レーベンシュテインも冒頭の引用の少し前で、「一九一四年から一九一六年にかけてのタブローに見られる、曖昧な空間の印象やある面で不安な印象を残すような、形態と色彩との間の侵食と分離の戯れを留意しておこう」と記していた(26) 他方ローレンス・ガウィングの以下の記述は、色と線の相互干渉による画面の形成を指摘する点で、ボワの立論にやや接近するかもしれない; 「《ニュムペーとサテュロス》の真の力強さは、実在感の新たな秩序に起因している。それは、肉のピンクとそれを周囲いたるところでとりかこむ明るい草緑との正確なバランスから生じる。ピンクは自ら赤の輪郭を生みだし、視覚上での蛍光作用が線を、奇妙にグラフィックで順応性のあるものとする。各色彩がいっしょになって震動するさまは、あたかも物理的な次元で起こっているかのようだ。デザイン自体、大きくはねあがる弧に解消しつつあるかのごとく見える;ニュムペーの頭の後部がそれらの弧の邪魔をするのを、マティスはあきらかに厭っていた」(27) ところでシャセイの議論はもともと、ポロックとの比較がしめすように、アメリカにおけるマティスの受容をめぐるものだった。この点ではグリーンバーグが《大きな風景、モンタルバン》(一九一八、個人蔵)について、「そのマッスとしての効果は、デザインだけでなく色彩によっても得られたものだ。緑は概略すれば、黒、アンバー、グレーに置き換えられ、若木の幹はセルリアン・ブルーで処理される」(28)と記したところから、彼はマティスに、「デッサンと色彩の統合を実現する能力」を認めたのだとシャセイはいう(29)。ちなみにフリードは、「思うに、(モーリス・)ルイスの最良の作品において達成された、形象の形成作用と視覚性とのモダニズム的な綜合というものが、線と色との伝統的な二元論を超克すること - ウジェーヌ・ドラクロワ以来絵画につきまとってきた宿願 - にいたったという点は、留意しておくに値するだろう」と述べており(30)、これを、戦後アメリカにおける形式主義批評流の、とりわけマティスからいわゆるカラーフィールド・ペインティングへという線上での、線と色との相克という問題に対する一解釈として頭に留めておくことができる。同様に、ウィリアム・ルービンによればポロックのポーリングによる作品は、「同時に<線的>でもあれば<絵画的>でもあるような作品を創りだすことによって、なじみのヴェルフリン的対立を超越した」のだという(31)。フリードはまた、オリッキーの作品に対しても、「色とドゥローイングのたえざる葛藤」を見てとっている(32)。ただその際、「マティスを理解する時に、最大の障壁となるもの…(中略)…それは、マティスが今世紀において、アメリカ美術の名のもとに徹底的に解釈され、消費されてきた感があるということである」という中村一美の指摘も(33)、同時に念頭に置いておくべきではあるだろう。さらに天野知香は《生きる喜び》について、「この作品には部分的に、時には形象とずれた下書きのような黒い線がところどころ残っており、絵の具の塗りや質感は場所によって全く均等ではない」と述べ、「様式的な言語に還元不可能な視覚的痕跡」(34)を見てとっていた。 さてボワは一方で、《黄と青の室内》に関し引いたように、ピカソのキュビスムとの交渉を機にマティスの画面にデッサンと賦彩の分離が現われることを指摘しつつも(35)、「デッサンと色の永遠の葛藤」という言いまわしについては、「少しばかり誤解を招く表現」(36)、「いささか曖昧な」(37)と記した。ボワによればこれは、<原ドゥローイング>の発見が、デッサンと色との「ギャップを不可能にしてしまう」からにほかならない(38)。デリダの<原エクリテュール>にならって構想されたという<原ドゥローイング>は、デッサンと色というような、一方を他方の優位におく二項対立の図式を原理的に脱構築するものであって、ゆえにマティス曰く、「デッサンと色彩を分けることは不可能です」(39) ただマティスは、「かわるがわる疑念の瞬間と歓喜の瞬間を迎えた」、「二〇年代末以来(ことばをかえれば、ペンによる素描が優勢な時期…(中略)…以来)、その絵画と素描の関係にまつわるマティスの発言の大部分がしめすのは、素描において『何かを発見した』と彼が確信し、また絵画においては、その等価物を見出すのに困難をきたしていることを証言している」のだという(40) ふりかえれば十六世紀におけるフィレンツェ派/ヴェネツィア派ないしミケランジェロ/ティツィアーノ以来、プッサン/ルーベンス、アングル/ドラクロワにいたる二項対立の系譜において、しばしば素描/彩色は理性/感覚、形相/質料、精神/自然、男性/女性等々に応じると見なされ、素描は彩色に対して優位に配されてきた(41)(その際、フィレンツェ派/ヴェネツィア派やプッサン派/ルーベンス派にまつわる論争において、ロドヴィコ・ドルチェやロジェ・ド・ピールが<素描 disegno, dessin>と対置したのは、<色彩 colore, couleur>ではなく<彩色 colorito, coloris>だったことに注意しておこう(42)。同様に、素描と線も区別しておかなければなるまい)。素描という場合イタリア語のディゼーニョが、現在のフランス語のdessein=構想とdessin=素描の双方の意味をあわせもつことから生じる射程については後にふれるとして、絵の制作、いいかえて画面を被覆ないし充填する具体的な過程を考えた時、たしかに、こうした二項対立の設定自体には疑問符を付しておいてしかるべきだろう(43)。松浦寿夫はボードレールの批評を起点に、「デッサン/色彩の優劣関係を逆転させることではなく、この階層的な対立関係によって維持される表象の仕組みそれ自体を崩壊させることが近代絵画の賭け金だったということだ」と述べ(44)、また、とりわけ印象主義以降の近代絵画に、「デッサン/色彩の対立と相関的な矛盾、すなわち、画面の統一的な単一性と筆触の分散的な多数性との矛盾」を見出している(45)。ボワによればマティス自身、素描と色との伝統的な対立の議論には、「きわめて冷淡」だったという(46)。<デッサン/色彩>をその一つの現われとして、マティスの制作に認められるさまざまな形での<二>ないし分身の構造について論じたテクストの中で井上明彦は、「おそらくマティスにとって真の問題は、これまで見てきたあれこれの二つの対立項それ自体ではない。問題は、両者のあいだの空虚そのものだろう」と記す(47) 単純に応じても、何らかの支持体に何らかの働きかけをするとして、その際線と色とが原理的に対立するとはいえまい。働きかけの一つ一つを、たとえば、仮に線だとか色と呼ぶことができるにせよ、多くの線なり多くの色が、それぞれ、線と線、線と色、色と色、あるいは線なり色と他の要素、たとえば明暗だの絵肌だのとの相互の働きかけあいおよび相互への移行によって表面を覆うのであれば、それらを、総体としての線と色との対立のみに還元できようはずもない。線だけとっても、それがどれだけの太さを呈するかによって、画面全体に対する干渉のありようは変化してしまうことだろう。後にもどることとなるが、マティスの《生きる喜び》に関しシニャックは、「親指ほどの幅がある線」を非難した(48)。あるいは先にもふれたように、線なり色なりは同一平面上に隣接するとはかぎらず、むしろ制作が時間を伴わずにいない点からして、層状に積み重なったりもする。そもそも色面の境界と輪郭線が一致していることを自然と感じ、ずれを奇妙と感じること自体、検討の必要なしとはいえまい。 にもかかわらずマティスは、「私のデッサンと絵画は分離してしまっています」と語った。作者の発言を作品に投影する必要はないにせよ、逆に、少なくとも「マティスと“原ドゥローイング”」という論文に関するかぎり、マティスの発言を軸にすすめられるボワの議論は、個々の作品がしめすさまざまな変異を見えにくくしていはしないか、留意しておく必要はあるだろう。色彩は白地に一つ置かれただけでも、膨張や収縮、浸潤しようとする潜勢力を宿さずにいない。対するに線は、白地を限定・規定しようとする。両者がたえず抗争するのだと考えるにせよ、両者の弁別を無効にするような形で色のひろがりがおのずからその境界を出現させるのだと考えるにせよ、このような抽象化された思考の場で色なり線なりを想定すると、たとえば、有限な境界に向かって運動する色のひろがりの、その有限性を何が保証するのか、あるいは、色のひろがりと白地は連続しているのか不連続なのかだのと、やはり抽象的な問題を設定することもできる。あるいは、複数の色が置かれた時、その関係はいかなる形をとるのか、それぞれの内圧の差によって境界線が生じるとして、そこに線による切断が起こりはしないか、切断は落差となりはしないか。 ともあれ残るのは、少なくとも、線と色がずれた画面が制作されたという点であり、そこから遡及して推測するなら、デッサンと色が調整を必要とするだけのギャップをもってマティスの制作の過程の内で機能していた、あるいはマティスの思考においてそうとらえられていたという点である。そしてこのギャップ、井上のいう「両者のあいだの空虚」は、マティス一人にとどまらず、いわゆる近代絵画史の展開の中で、ギャップをギャップのままに留めざるをえなかった、そんな例をいくつか産み落とすことになる。 |
24. Eric de Chassey, La violence décorative. Matisse dans l'art américain, Nîmes, 1998, pp.171-172. cf. Elderfield, The drawings of Henri Matisse, op.cit., pp.68-69.《ダンスⅠ》:一九〇九、ニューヨーク、近代美術館。ポロック、《ナンバー十四:グレー》:一九四八、イエール大学美術館(Francis Valentine O'Connor and Eugene Victor Thaw ed., Jackson Pollock. A Catalogue Raisonné of Paintings, Drawings, and Other Works, New Haven and London, 1978, vol.2, p.25/no.204). |