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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 1999 > 英国美術事情 ウィリアム・モリスとケルムスコット・マナー 土田真紀 友の会だより no.52, 1999.11.30

英国美術事情
ウィリアム・モリスとケルムスコット・マナー

土田真紀〈元三重県立美術館学芸員〉

ロンドンから西へ列車で1時間か1時間半ほど移動すると、コッツウォルズ地方と呼ばれる丘陵地帯が広がっている。最もイギリスらしい風景を残していると言われ、観光地としても人気が高い。数キロの間隔で点在する町や村の多くは、端から端まで歩いても10分もかからないほどに小さいが、かつては羊毛の産地として繁栄していた。その東の端にある村のひとつ、ケルムスコットにウィリアム・モリスの家が残されている。イギリスの工藝運動の中心であったモリスについては、没後100年の大きな展覧会が一昨年日本で開催されたこともあり、イギリスらしい花模様の壁紙などを通じて日本でもよく知られているが、そのモリスが実際のところどのような住まいを理想としていたのか知りたくて、一度訪ねてみることにした。

写真 ウィリアム・モリスの家(イギリス:ケルムスコット)

9月も終わりに近い週末、スインドンという駅で降り、バスとタクシーを乗り継いでようやくたどり着いたケルムスコットは想像以上に小さな村(英語でvillageというよりhamletと呼ぶらしい)であった。農家以外にはB&Bを兼ねたパブが一軒、モリスの墓のある小さな古い教会、モリスに関連する近代の建築が二つ、そしてケルムスコット・マナーがあるだけである。道路も舗装されておらず、コッツウォルド特有の灰色の石を使った家と塀からなる村はひっそりと周囲の風景の中に埋もれるかのような佇まいであった。

ケルムスコット・マナーはもともと16世紀に建てられた屋敷であるが、1871年にモリスが買い取って自分の住まいとした。様々な活動で忙しいモリスはロンドンにも家があり、たまにしか訪れることができなかったが、この家で過ごす時間を何より大切にしていた。また彼の小説『ユートピア便り』の中に理想的な姿のもとに登場してくるのも実はこの屋敷である。古い建築の保存に確固とした信念を抱いていたモリスらしく、彼は古い屋敷の外観には全く手を加えなかった。三角形の破風の連なりと壁と屋根の石の古びた質感がいかにも古いイギリスの家という雰囲気を放っている。一方、こじんまりとした前庭から小さな玄関を通って家の中に入っていくと、いずれの部屋も小さくて天井も低いことがまず印象的であった。室内には古い家具や工藝品とモリスや彼の友人の作品が混在しているが、モリスの死後にロンドンの家から移されたものも多く、彼が住んでいた当時のままの状態ではなかった。いずれにしても白い壁を中心とする室内は、全体に非常にシンプルで、むしろ居心地のよさそうなごく普通の住まいの感覚に近い。宮殿や貴族の邸宅と全く異なっているのは当然としても、たとえばモリスの次に登場したアール・ヌーヴォーの、デザイナーの個性による統一的なインテリアとも異質な空間であることは確かであった。とりわけ印象深いのは古い色槌せたタピストリーが部屋の壁全体を覆った二階の一室であったが、それらはモリスが家を買い取った時点ですでにそこにあったという。ケルムスコット・マナーに対するモリスの姿勢は、理想の家を自らのデザインによって創り出そうとするよりも、周囲の環境をも含めてこの家が本来持っているよさをそのままに引き継ぎ、活かそうとする点において際だっているのではないかと思われた。

実際ケルムスコット・マナーは周囲の農家とは異なるものの、建物自体に際だった特質があるわけではない。背後にテムズ川の支流にあたる小川の流れる環境や村全体を含めた風景もともに、ある意味でありふれたごく普通のものであろう。しかしそこを訪れる者が誰しも住んでみたいと思わずにいられないのは、この家を理想の住まいとして選んだモリスの眼が確かであるからにちがいない。モリス自身の手がけたデザインは確かに見たところ柳宗悦らの見出した「民藝」とは全く異質な外観を呈しているが、こうしたある意味で「無名の」建築や風景を発見する眼には、案外相通じるものが流れているのかもしれない。ケルムスコット・マナー訪問を通じ、ウィリアム・モリスと柳宗悦をつなぐ本質的な部分のひとつを見出したような気がしている。

友の会だより no.52, 1999.11.30

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