神奈川県立近代美術館所蔵作品から
「眼のゆくえ、手の変幻」
(2000年1/4(火)-2/13(日))東 俊郎〈学芸員〉
「眼は口ほどにものをいい」「眼に物言わず」「眼の色を変える」「目立つ」「手の舞い足の踏むところを知らず」「手に汗を握る」「手八丁口八丁」「手を翻すように」などといったように、眼と手にかかわる成句・ことわざは無数にあります。もし眼と手がつかえなければ、手話によるあの驚くべき表現力は、けっしてあれほどのゆたかさをもてないでしょう。それらは声にたらず表情や身ぶりをつかってするもうひとつの言語であり、意味にたよらない言語なのです。
今回はこの「眼」と「手」をテーマに、神奈川県立近代美術館の所蔵作品から一括して平面作品を借用し展覧会をひらくことにしました。題して「眼のゆくえ、手の変幻」です。
眼や手は、頭や足や耳などとともに身体の一部です。だから画面に描かれている眼と手といえば、なによりもまず人間像からということになります。そしてその人間像をどう生かすことができるのか、生かしてなにをみるひとに訴えるかが集中的にあらわれるのがこの眼と手なので、「眼は心の窓」「手心をくわえる」などが教えてくれるように、それらは心につながっていて、みえない心のかたちをみえるものとして差し出してくれることになります。自画像、肖像画、群像画をまえにしていつもよりはすこしながく描かれたその眼と手に注目してほしいのです。
そしてそれで終わりではありません。生き生きとした作品とはぜんかがひとつの有機体だとかんがえると、その有機体である作品はそれ特有の眼と手をもっているともいえます。かならずしも身体とはかぎらない、人体からはみだし変身変化したものとしての眼と手。これはみるひとのほうから、それを探してちかずいてゆくしかない眼と手かもしれないし、もっと先までゆくと画面のなかには一切描かれていないけれども、眼と手の造形的な心理として、あるいはもっと抽象的な機能にまでひきのばされながら、しかしなにかしら「眼」のようなもの、「手」のようなものが表現されているというしかないという極点まで達するものもあるようです。眼ではない眼と手ではない手を絵のなかにみつけること。それが今回の展覧会の楽しみのひとつです。
奥谷 博《鏡の中の自画像と骨》油彩・キャンバス l 1975
友の会だより no.52, 1999.11.30