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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 1995 > ダニ・カラヴァン展-蛇が柱に巻きつきゃカドゥケウスの杖-セルジ=ポントワーズ『大都市軸』訪問記 石崎勝基 友の会だより 39号より、1997・7・1

ダニ・カラヴァン展

蛇が柱に巻きつきゃカドゥケウスの杖
-セルジ=ポントワーズ『大都市軸』訪問記

円とか直線、四角など幾何学的な形というのは、自然の内には存在しない、あるいは少なくともあまり出くわさない、抽象的で人工的なもののはずなのですが、なぜか、世界の表面の奥にあって、さまざまな現象のもとになっている基本的な単位はこうした形をしているのだろうと感じてしまいます。これが、ピュータゴラースやプラトーンからアインシュタインまで連綿と続いてきた、宇宙は幾何学にもとづいてつくられているという考え方の長い歴史的な蓄積によってもたらされたのか、あるいは人間のからだの生理的なしくみがそう感じるよう設計されているのかはわかりませんが。もちろん、ゴンブリッチが『芸術と幻影』の中で説いたように、ものの見方見え方は文化のちがいによって大きく変わるでしょうし、人類の生物学的な条件は人類にしか通用しないという点で、何の普遍性ももってはいません。さらに、上のような考え方が複雑なものを単純なもので説明しようとするかぎり、多くの要素を抑圧してしまう危険をはらまずにはいないでしょう。それはともかく、ダニ・カラヴァンがデザインした、セルジ=ポントワーズの大都市軸を訪れた時の印象は、幾何学的な形がもたらす感覚を最大限に増幅したものだったといえるかもしれません。

パリ市内から電車で40分、車なら2~30分ほどのところにセルジ=ポントワーズの町はあります。駅前をまっすぐ進むと、リカルド・ポフィルが設計した円周型の集合住宅にぶつかるでしょう。内側は広場になっていて、その中央にたつ白く細長い四角の塔が出発点です。塔の中は螺旋階段で、下から上まで細長い窓から光が射しこんでいました。頂上につけば、窓の一つと同じ方向で住宅の円がスリット状に切れ、そこから一直線に道がのびているさまを見渡すことができます。円型住宅の向こうは芝生、砂利をしいた方形の広場、その奥に真っ白な円柱が十二本規則的に並んでいる。そこから丘を下っていくと大きな池にあたり、道の延長に円型の島、その左手は白いピラミッドです。

1980年に着工された全長3キロメートルにおよぶこのプロジェクトはいまだ未完成なのですが、晴れ渡った空の下、塔から円柱群の先までふらついていると、アラン・レネの『去年マリエンパートで』(1961)の中で、幾何学的庭園が抜けだしようのない迷路と化する時におほえたのにも似た感覚におそわれるのでした。構成はきわめて単純明快であるにもかかわらず、出発点があって終点にいたりおしまいというものではありません。からだの重さがなくなって、ふらふらと揺れるような、宙に浮くような、ろくろ首になったような感じとでもいえるでしょうか。

規模の大きさや厳格で理念的な構成は、威圧的な息苦しさを感じさせそうなものですが、そうならないのは、大きなかたまりが空間をふさぐのではなく、空気や光の動き、気候の変化を受けいれる場として設計されているからでしょう。塔は日時計の役割もはたしていますし、列柱でもその影が柱自体におとらず重要です。道の中央には雨水が流れる溝がずっと刻まれ、列柱の手前にも雨を受ける低い台が配されていました。そして何よりも、塔や円柱、階段の真っ白さが、光を反射して空間に送りかえすのです。光の散乱と幾何学的な形は、静護さをたたえる一方いうところの現実の重さをそぎもします。この時幾何学的なデザインは、世界の複雑さをおし殺すのではなく、さまざまなことどもが去来するための舞台として機能しているといえるでしょう。

(石崎勝基・学芸員)

友の会だより 39号より、1997.7.1

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