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美術館 > 刊行物 > 友の会だより > 1993 > 「生誕100年記念 児島善三郎展」について 田中善明 友の会だより 34号より、1993・11・25

生誕100年記念 児島善三郎展」について

田中善明

児島善三郎は1893年2月11日に福岡県で生まれたので、今年で生誕100周年になります。紙の卸問屋の長男で、当然その跡継ぎとして期待されていましたが、中学の頃から油絵を始め、同校の中村研一らとパレット会を創立して制作に励み、長崎薬科大学に入学しても画家になることをあきらめきれず、大学を中退、父親の反対を押し切り上京しました。中学時代の先輩から東京美術学校のことを聞かされ、本人も少ない情報の中であこがれを抱いていましたが、受験に失敗、自分よりも上手でない受験生が合格したのにがっかりし、以後美術学校に入ることをやめました。その後、過労のために胸を病み、再び故郷に戻り5年間の長い闘病生活を送ることになります。病気が回復した翌年、上京して代々木に住んだ28歳の善三郎は光風会に出品しましたが落選し、落選した作品を二科会展に持ち込むとみごとに入選し、翌年古賀春江、林武とともに二科賞を受賞。画家としては少し遅いが華々しいデビューでした。32歳の時、油絵の基本をもう一度最初からやり直す覚悟でフランスに渡り、納得の末に3年半余りで帰国しました。この年の二科展で滞欧作品22点が展示されましたが、アカデミックで時流に逆行しているとしてそれほど高い評価は得られませんでした。

この昭和初期の日本の油絵画壇は、ヨーロッパで展開したさまざまなイズムをそのまま日本に持ち帰って流行させるという亜流の表現にすぎないと善三郎は反省し、日本人による「日本に油絵」制作を念願に置き、昭和6年の独立美術協会結成に参加し、昭和37年に69歳で亡くなるまで独立美術協会を中心に弛むことなく制作を続け、「箱根」や「アルプスへの道」といった作品で桃山時代の障壁画を想起させる渋味ときらびやかさを満ち合わせた彼流の日本の油絵を結実させました。

今回の展覧会は滞欧前の時代、滞欧期、それに善三郎が移り住んだ代々木、国分寺、荻窪を時代として大きく区分し、静物、風景、人物の題材別に児島善三郎の描いてきた軌跡を展覧いたします。

(たなかよしあき・学芸員)

友の会だより 34号より、1993・11・25

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