植物をめぐる対話-植物系学芸員と美術館学芸員の交差するまなざし-
恩地孝四郎《白い花》
そもそも、植物学の専門家が花の絵を前にしたら、どのように見えるのでしょうか。少し意地悪な出題ですが、恩地孝四郎《白い花》を見てください。
リンネがその基礎を築いた分類学に従えば、花とは、オシベやメシベ、花弁の形や数などから植物の種を判断するための指標でしかありません。そのため、この作品のように「花」と題されてしまうと、斜めの線が○○で、左側を覆う花ひらのような部分が○○で、恐らくイネ科の植物なのかな、と考えてしまいます。でもきっとそれは誤りなのでしょうね。
この絵の作者、恩地孝四郎は、日本で初めて抽象的な表現を取り入れた画家のひとり。画家自身の内にある生気が、形や色彩そのものへと充溢(じゅういつ)し独特の「抒情」をたたえる画面を生み出そうとしました。すると、ここでの白い花とは現実の具体的な花を描いているのではなく、恩地の心の中に花開いた詩情のようなものかもしれません。
長谷川潔 版画集《ポートレート》
長谷川潔は、ヨーロッパ古来の版画技法を復興し、独自の世界を構築した版画家です。その版画技法は、マニエール・ノワール(黒の技法)と呼ばれ、レンブラントやルドンに匹敵するその深い黒が静謐な画面を生み出します。
モノクロームだけど、描かれた花々はよく特徴を備えています。[背景が白い方を指して]このエノコログサ、先端部だけではワレモコウと判断しがたいけれど、托葉(たくよう)があるので。[背景が黒い方を指して]こっちは全体に園芸種っぽいけど…。ミモザやムスカリは地中海岸でよく見かける品種、スカビオサは西ヨーロッパからやってきた品種です。どれも色鮮やかな花々なのに少しもったいないですね。
長谷川はフランス在住で、この版画集もパリで出版したもの。彼にとっては見慣れた植物だったのでしょう。黒一色で描かれることによって、様々な色の品種が一つの画面にケンカすることなくおさまっているのではないでしょうか。見る人に色を想像させる余地を残しているようにも思えます。
[背景黒・上から時計回りに]ミモザ、バラ、ムスカリ
バイモ、不明、スカビオサ、スズラン、アブラナ科植物のタネ
[背景白・上から時計回りに]
スギナ、アリウム(もしくはタンポポ)、エノコログサ、ナデシコ科の花、イヌタデ(?)
ケシのつぼみ、フウロソウ科の花(ゲンノショウコ?)
ケシ、ユキノシタ科の葉
宇田荻邨 《花畑(下絵)》
こちらは下絵ですが、様々な花の乱れ咲く様子が不気味な生命力を感じさせます。
様々な花が乱れ咲く、とは言えないのでは。下の方には小さなキク科の植物ヒャクニチソウ、真ん中には異なる4種類のダリアが、それぞれU字を描くように並んでいて、その谷間から背の高い2種類のヒマワリが飛び出ています。わりと整然としている印象です。
そう言われると確かにピラミッド型の構図…。同種の花をフリーズ状に配置することで画面にリズムが与えられています。
美術館の解説っぽいですね!
美術館の解説です…。すると、この花々が放つ不気味な生命力は、まるで黒いオーラのような輪郭線と、あまりに大きく花をつけたダリアが首をかしげている様子から感じられるものでしょうか。
描かれた植物:2種類のヒマワリ、4種類のダリア、ヒャクニチソウ
ブレスダン、ロドルフ 《鹿のいる聖母子》
荻邨は、ルドンが描いた花に影響を受けたといいますが、こちらはルドンに影響を与えた版画家。本作品は、「エジプト逃避途上の休息」という主題との関連が指摘できます。ユダヤ王ヘロデによる嬰児虐殺から逃れる聖家族たちを、自然の風景のなかに描くものです。
右上の大きく開くようについた葉や、シダのような植物が、どことなく南国風ですね。けれど、まったく植物を特定することができません。
なるほど、とても細密に描かれているかのような植物ではあっても、決して特徴を捉えているわけではないと。それでも、この絵では植物が大きな役割を果たしています。鬱蒼と生えた植物が、聖母子だけでなく、ペリカンや、フクロウ、渓流に浮かぶ水鳥などのモチーフを飲み込んでいて、よく目を凝らさなくては見えてきません。交錯するたくさんの描線が、モチーフを発見していく喜びを与え、イメージと向き合う時間を引き延ばしているかのようです。
牧野虎雄 《梧桐》
牧野虎雄も、植物を画面いっぱいに描きながら、画家の内面を投影したかのような生命感を表現することに成功した画家です。
手のひらのように広がった葉っぱがアオギリの特徴を捉えてはいます。葉っぱの形状や葉脈の様子が、分類上正しく示されているわけではないですが。
それこそが、この絵の魅力かもしれません。白と緑、黄色といった絵具が半ば混ざり合った状態のまま、筆を巧みに動かすことで葉を表現しています。絵具の物質感と、一枚ずつの葉っぱの放つ生命感が矛盾なく重なり合うことで、こちらに迫ってくるかのような風景を作り出しています。
ジャコメッティ、アルベルト 《木》 、ニコルソン、ベン《パロスの木》
画面を覆うように繁茂する植物だけではなく、荒れ野で孤高に立つ姿もまた、植物の力強さを私たちに伝えてくれます。ジャコメッティの素描はもともと線描を重ねることで事物の存在に迫るものですが、直線による幾何学的な構成がトレードマークのニコルソンも、ギリシャのパロス島に生える木(オリーブでしょうか)を表現するにあたって、うねるような線でモチーフを囲んでいます。
小出楢重 《六月の風景》
この横に伸びた枝ぶりと茶色い幹の色はアカマツでしょうか。《六月の風景》ということだから、このオレンジ色の花はツツジかな。
小出はマツの緑の調子と白い砂地の調和に苦労していたようです。当時住んでいた芦屋にはクロマツも生えているようなので、クロマツの幹と白砂の強すぎるコントラストを押さえるために、幹の色をアカマツのように茶色くし、色調を整えた可能性もあります。
横長の筆触を重ねることで、松の特徴的な枝ぶりを表現しながら、画面全体と有機的につながるような調子になっています。水面の反映や白い壁に落ちた松の枝の影など、細かい光学的現象も描き込んでいます。
アオギリの葉がせり出てくるかのような牧野、マツの葉叢が絵画空間に違和感なく統合されるような小出、どちらも筆触を上手くコントロールして、それぞれ異なる効果を生み出しています。
絵具の物質感や筆さばきから、画家の工夫や特徴が見えてくるのか。遠く山の斜面に見かけた葉の表面の照りや全体の枝ぶりの感じで木の種類が、判断できることと少し似ているような気もします。それは、枝のつき方や葉脈のパターンを厳密に見て知識によって分類することとは違う、経験に根差した見方なんです。
梅原龍三郎 《霧島》
絵画ならではの植物の役割、なんてのも面白いかも。
例えば梅原龍三郎の《霧島》の、右上枠外から絵画内部へと突出した枝のモチーフは、植物が絵画の構図に利用される典型的な例で、小出楢重や安井曾太郎の風景画にもしばしば描かれています。こうしたモチーフは、手前と奥の隔たりを生み奥行き感を強調するために描かれます。
前田青邨《春》に描かれた柳や桜は、伝統的に春を寿ぐモチーフであると同時に、右下の人物や左上の白い鳥たちを脇へと押しやって、画面の外へと広がる空間を感じさせてくれます。
美術における植物の役割と言えば、やはり、デザインとしての利用ではないですか。実は、私にとって、植物が描かれている絵の多くが、何も描かれていないように感じます。というのも、植物は自分にとって身内のような、あまりに日常的な存在なので、それを画面いっぱいに描かれても、まるで特別なものを見つけることができないわけです。
そんななかで、尾形光琳の意匠には思わず目を引かれるものがあります。また、速水御舟の絵は、植物の背後に何か物語があるように感じます。
残念ながら当館にはどちらも所蔵されていませんが…。当館所蔵の意匠化された花々、近代花鳥画の名手の作品、お気に召すでしょうか。
ボタン、ヤエムグラ、フヨウ、ナス・アサガオ、アザミ
増山雪斎 《百合に猫図》
増山雪斎の絵画は、精緻で写実的な描写と華麗な色彩で人気を博した南蘋風。その画題には、しばしば吉祥の意味が込められています。この《百合に猫図》はどんな意味が込められているでしょうか。
オニユリにムカゴがたくさんついていますね。クローンのようにここから個体の数が増えますから、子どものようなものです。この岩はすごく変わった形ですが、地衣類がついていますね。植物ではなく菌糸からできている生物で、ゆっくり成長して長生きします。だから…子孫繁栄と長寿、なんて、単純でしょうか。
実は、ほぼ正解です!ただし、この岩についた点、日本美術史では点苔(てんけい)と呼ばれる定型化された表現です。いずれにせよ長い年月の経過を示す描写で、こうした岩は長寿の寓意になるんです。あとは、言葉からの連想で、猫は「耄」と音でつながり、ユリは「百」の字を含むことから同様に長寿を表します。
作者の雪斎は、趣味人として名の通った長島藩藩主で、博物学にも造詣が深かったとか。ムカゴの性質を知っていて、子だくさんのイメージを重ね合せていたら、と想像してみるのも楽しいですね。
《百合に猫図》オニユリ
《鴨図》ガマズミ、キク
川村清雄 《梅と椿の静物》、安藤仲太郎 《梅花静物》
《梅と椿の静物》には、大きなウメの枝とツバキだけでなく、サクラにモモも描かれています。春を代表する4種の花が美しさを競い合う華やかな絵ですね。蓋の閉じられた漆塗りの小筥が意味深で、何か含意がありそうです。
こちらの《梅花静物》には、その名の通り梅が中心に描かれていますね。鉢の中や机の端に描かれている赤い実をつけた深緑の葉は、カラタチバナでしょうか。
右下のほうではカラタチバナがウメに踏みつぶされるように描かれているし、机の上に一つだけ置かれた実が、意味ありげ。カラタチバナは初冬から二月にかけて実をつけるもの、二月末頃から咲き始める梅は、まさにつぼみを膨らましつつある…季節の移りかわりを感じます。
季節の移り変わり、生の儚さ、か。変わりゆく季節を愛でる感覚は日本古来のものですが、左奥に向かって暗くなっていく空間、机の描写は、それまでの日本画にはなかった奥行きを感じさせます。まるで日本のモチーフで描いたヴァニタス画。梅の花が、机の端から飛び出して危ういバランスを保っているようなのも、生の儚さの寓意を描いた西洋の静物画を想起させます。
額縁に施された模様は、笹の葉みたいに見えますね。単純に、梅と竹でおめでたい絵なのかも。
川村も、安藤も、明治時代に油彩画が入ってきたばかりの頃に活躍した画家で、日本的なモチーフをいかに油彩画で表現するのか苦心しました。絵具を使いこなして対象を写実的に描くことが主眼の一つではあるでしょう。江戸文化の名残を残しつつ近代化していく過渡期の絵画、どのような意味を読みとるべきなのか難しいところです。
《梅と椿の静物》モモ、ウメ、サクラ、ツバキ
《梅花静物》ウメ、カラタチバナ
川上冬崖+藤堂凌雲 《花卉図》 ,小室翠雲《春庭幽艶図 老圃秋容図》
日本の花鳥画は、俳句の季語などとも結びつきながら、花や鳥の種類を描き分けることによって、季節やその移り変わりを表現してきました。同時に存在するはずのない花が一つ画面に集められることもめずらしくありません。
たしかに、この二幅でも、それぞれ春と秋の花が描きわけられているけれど、これだけの異なった種類の花が一か所に集中して咲くことはまずないですね。たとえば、春の軸。シュンランは、春先に山の中でよく見かけるものだけど、モクレンなんか街路樹にも使われます。ボタンの花は花弁が細すぎるし、開きすぎている感じ。
秋の軸にも、夏から秋にかけて咲く花々と水辺の昆虫を集めてはいますが、例えば雁来紅とも呼ばれるハゲイトウは、じつは、水はけの良い土地に向くものです。《花卉図》なんて、季節もばらばらですね。
これは、西洋画の先駆者川上冬涯と津藤堂藩11代藩主に仕えた知識人藤堂凌雲二人の手によるもの。合作のためか弓形に連なった花々が、次々と萌え出てくるかのような、不思議な浮遊感があります。冬涯と凌雲二人のくつろいだ筆遣いが感じられる本作品、世俗を離れた文人画の境地が、時空を超えた花のユートピアというかたちで描き出されています。
《春庭幽艶図》モクレン、カイドウ、ツバキ、ボタン、ボケ、シュンラン、タンポポ
《老圃秋容図》ヤナギ、フヨウ、ハゲイトウ、ハス、ミヤコワスレ、シュウカイドウ、ツユクサ
※描かれた生物:セミの抜け殻、ミンミンゼミ、蜘蛛、サナエトンボ(?)、フナ、コオロギ カマキリ、キリギリス
《花卉図》ウメ、実をつける前のビワ、カイドウ、モクレン、ハス、キク
長原孝太郎 《板絵 草花図》(11点)
長原孝太郎は1861年、美濃国不破郡に生まれました。帝国大学の技手として動植物の写生に従事した経験を持ち、生物学にも造詣が深かったといいます。
当館に所蔵されている長原の描いた板絵では、簡潔な筆さばきで身近な植物の特徴が的確に捉えられています。
スイセン、ヤマツツジ、アブラナ科の花(ダイコンか)、シャクナゲ、タチアオイ、ヒマワリ・不明(トルコキキョウもしくはカーネーション?)
シデコブシ、チューリップ、カンゾウ・キキョウ、ホテイアオイ、ケイトウ
結び
二人のとりとめのないおしゃべりにお付き合いいただき、ありがとうございました。
ここから分かるのは、植物の科学的な知識による鑑賞も、美術の知識を背景にした解釈も、それが妥当であるかどうかは作品ごとに異なるという、至極、常識的な見解でしかないのかもしれません。それでも、二人の対話を通して、植物の描かれた絵画の見方が、少しでも深まったのなら幸いです。
植物学のまなざしと美術史学のまなざし、そのどちらにも共通しているのが、もの言わぬ対象の特徴をつぶさに観察し、それらに名前を与え、何かかけがえのないものとして捉える手助けとなる、ということではないでしょうか。
二人のまなざしを通して絵を見た後は、美術館を出て外を歩いてみましょう。葉っぱのかたちや枝ぶり、わずかずつ異なる色合い一つ一つが、普段以上に目に飛び込んでくるはずです。そうして私たちを取り囲む世界が、ほんの少し、より豊かになったと感じていただけたなら、と望むのはあまりにも欲張りすぎるでしょうか。
※本企画には三重県立博物館の森田奈菜さんにご協力いただきました。
但し、各解説の文責は、当館学芸員にあることをご承知おきください。