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美術館 > 刊行物 > 年報 > 2011年度版 > 「橋本平八と北園克衛」毛利伊知郎 移動美術館 『橋本平八と北園克衛展』パンフレット(2012.3)

 

橋本平八と北園克衛

 

 

 彫刻家の橋本平八と装幀なども手がけた前衛詩人の北園克衛は、伊勢が生んだユニークな芸術家兄弟です。

 この芸術家兄弟誕生には、出身地朝熊が大きく関係しています。兄の平八は、1897(明治30)年に生まれて1919(大正8)年秋に上京するまでと、1926(大正15)年に帰郷して1935(昭和10)年に当地で歿するまでの間、30年ほどを朝熊で過ごしました。一方の弟は、1902(明治35)年に生まれてから1919(大正8)年頃に上京するまでの約17年を朝熊で過ごした他、1929(昭和4)年から1年ほど朝熊で病気療養をしています。
 故郷朝熊の歴史と自然は、帰郷して当地で歿した兄はもちろん、弟にも大きな影響を与えました。彼らの思想は、朝熊の自然と歴史の中で育まれたものです。


 兄弟が二人揃って暮らした期間は10年ほどです。しかし、離れていても彼らは手紙で頻繁に会話を交わしていました。そして、兄の歿後も、弟は心の中で兄との対話を続けていたのです。
 帰省した兄は、美術界の情報を得る手段が限定されました。弟は東京の美術情報を伝え、美術書なども朝熊の兄へ送っていました。文化の最新情報を兄に伝えることで、弟は兄に応えようとしていたのです。頻繁に会うことのない兄と弟は書簡で意見を交わし、また時には情報を提供し合いながら、各人の芸術思想を深めていきました。


 在京の弟は、兄の木彫販売の取り次ぎを行うようになります。東京にいる自らの人脈を活かして、兄の厚意に少しでも報いたかったのでしょう。また、兄が東京の展覧会へ出品する際に、弟は事務手続き・搬出入などの代行も行っていました。
 兄弟の共同作業は、他にもあります。その一つは、兄の作品の命名です。兄の木彫の題名には、かなり熟慮されたあとが窺えます。《成女身》《石に就て》《花園に遊ぶ天女》《或日の少女》といった名称は、文学的でもあります。こうした作品の命名について、弟は意見を述べていたのではないかと考えられます。
 二人には、更に重要な共同作業がありました。それは、兄の彫刻論と作品集の出版です。『橋本平八作品集』(1937(昭和12)年)と『純粋彫刻論』(1942(昭和17)年)の刊行には、弟が深く関係していました。
 『純粋彫刻論』は兄弟の共同作業として準備が始まりました。1932~33年頃には、本書の刊行準備はかなり進捗していたようです。しかし、兄の急死などもあって、この時期の作業は実を結びませんでした。そのため、弟が作業を進めて、ようやく1942(昭和17)年に昭森社から出版されることになったのです。
 弟は1937(昭和12)年に日本美術院から発行された『橋本平八作品集』にも関係していました。本書におさめられた兄の年譜作成の他、出版経費の支援者探しなどにも弟は尽力しました。
 弟は1978(昭和53)年にこの世を去るまで、兄の歿後も40年以上にわたって活動を続けました。その間、兄を思い浮かべることが度々あったのではないでしょうか。

 

 兄弟の芸術世界は一見対照的です。しかし、弟は絵画制作も行っていましたし、兄も木彫だけではなく絵画も巧みでした。また、両親の影響によるのか、兄弟ともに和歌と俳句に長けていました。刀剣や茶の湯に対する関心も共通しています。実は兄は詩作も行っていました。もちろん異なる部分も沢山あります。しかし、私たちが想像する以上に二人のありようは重なっていました。
 兄の代表作に、《石に就て》と題された作品があります。この彫刻は、自然界に宿る人智を越えた天然の力を表現しようとした作品です。別の見方をすれば、この彫刻は自然石という自然素材を木という別の自然素材で表現した作品ということができます。この作品では、素材の「木」と主題の「石」とが重なり合っています。「木」と「石」との関係は、素材(表現手段)と主題(内容)との関係でもあります。これと通じる表現のあり方は弟の詩にも認められます。
 1929(昭和4)年に出版された弟の処女詩集『白のアルバム』所収の「記号説」と題された連作は、文字(単語や数字)と括弧やダッシュ、リーダ、罫線などとを組み合わせ、詩のイメージを覆した革新的な作品として知られています。ここでは、言葉(文字)が使われていますが、それらは色彩や線・点などの象徴であって、言葉本来の意味は全否定されていると作者は言います。文学作品ですが、「図形説」は視覚的です。本来は言語が主役となる詩の世界が、言葉の意味を否定した「記号」によって視覚的に表現されているのです。ここにも、素材(表現手段)と主題(内容)との関係に対する独自の思想があります。
 こうした弟の意識は、1950年代から始められた写真による詩(プラスティックポエム)にも見出すことができます。ここでは、言葉による表現ではなく、身辺にあるもの、あるいは新聞や雑誌をまるめてつくった人形などを組み合わせた世界を撮影した写真そのものが詩となっています。こうした弟の試みにも、「石」という自然世界を、「木」という別の代替物で表現しようとした兄の試みと一脈通じる精神を見て取ることができるのではないでしょうか。
 ところで、兄は女性には強い霊的な力があると考えていたようです。その理由は、兄の彫刻に《少女立像》《成女身》《花園に遊ぶ天女》など女性像の系譜とでも呼びうる作品系列があること、しかもそれらが霊的な雰囲気を持っていること、こうした女性像が彫刻だけでなく絵画作品にも登場することなどです。一方、弟の作品にも女性が頻繁に登場します。その表現技法やスタイルは兄のそれとは異なりますが、こうした弟の女性像も、彼が女性を特別な存在と見なしていたことをを示しているのではないでしょうか。

 

 最後に色彩にも触れておきましょう。弟の詩には、色彩名が頻繁に登場します。弟は、色彩の詩人でした。一方、絵画もよくした兄は、色彩についても独自の思想を持っていました。兄は「詩人とは色彩の人である」と記していますが、兄の言う詩人とはあたかも弟を指しているかのようです。


 こうした二人の芸術を特徴づけるキーワードが、「純粋」です。兄の日記には、「純粋彫刻」「純粋絵画」などの言葉が頻出し、弟は「純粋詩」「純粋俳諧」などの用語を使用しています。この「純粋」という概念は、「完全な」「理想的な」という意味でした。
 木彫を本業とする兄は、伝統主義者と思われがちです。しかし、兄が目指したのは、旧来の木彫とは一線を画した独自の革新的な彫刻の創造でした。また、兄は終生西洋文化に強い関心を抱いていました。同時に兄は、民族主義・愛国主義者でもありました。兄の中には、こうした革新主義者と保守主義者とが同居しています。弟にも兄と同じことがあてはまります。モダニスト詩人として名をなし、欧米の詩人たちとも交流した弟は、一方で愛国主義者でした。
 兄と弟がそろって、こうした二面性を持っていることは偶然ではありません。進んだ道は異なりますが、彼らの内面には相通じるものが流れています。二人は、芸術家として合わせ鏡のような存在だったのです。

(毛利伊知郎・三重県立美術館学芸員)

 

 

  

『橋本平八と北園克衛展』(2010)のページ

 

館蔵品/橋本平八のページ

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