入江波光 《五月の海》 1935年
入江波光(1887-1948)
《五月の海》
1935(昭和10)年
紙本淡彩
42.0×60.0cm
日本画家、入江波光の一生は単純である。一八八七(明治二十)年、京都に生まれ、生涯その生家を離れることなく、一九四八(昭和二十三)年、病没した。
京都市立美術工芸学校と絵画専門学校に学び、卒業後は、この二つの母校でもっぱら後進の指導に当たった。展覧会へはほとんど出品せず、古画の模写を軸にした教育を生活の中心にしていたため、その実力にもかかわらず、専門家以外にはほとんど名を知られることがなかった。現在でも、これはあまり変わらない。
かろうじて波光を有名にしているのは、土田麦遷、榊原紫峰、村上華岳、小野竹喬とともに参加した「国画創作協会」での活躍(その第一回展では「降魔」で国画賞を受賞)と、一九四〇(昭和十五)年に始まった法隆寺金堂壁画模写の委嘱だろう。波光は、この仕事に文字通り寝食を忘れて精励したといわれる。
古画への愛が度はずれた技術の研究となったこの人の自作は、極度に少ない。一種「幻の画家」である。「五月の海」は小品だが、一見写生と見えるようで、なかなか奥が深い。「花を忠実に写生することよりも、」花を咲かせているものの観察が肝要である」と語った画家だけのことはある。 (東俊郎 中日新聞 1999年2月25日)
五月の海は決して穏やかではない。皐月波(さつきなみ)といい、日本列島の東西に停滞した低気圧が刺激し、俗に荒南風(あらはえ)と呼ばれる強い南風によって、海は荒れ模様となるからである。
波光の描いた「五月の海」も、決して静謐なものではないようだ。沖に立つ波頭や、空に舞う海鳥の動きを見るまでもなく、不自然に突き出た断崖と、その岩から生えている木々の異様な形態は、見る者を不安な気分にさせている。
この作品が描かれた昭和十年(1935)の五月、日本の美術界には大騒動が持ち上がっている。時の文部大臣、松田源治が、帝国美術院の改組を突如発表したのである。この改組をめぐって、日本画、洋画を問わず、美術界は紛糾した。騒ぎは、よく十一年の二・二六事件をはさんで、新内閣の文相による再改組と、先の改組を支持した会員がそろって辞表を提出するに至り、更に混乱の様相を深めた。
すでに昭和三年に解散していた国画創作協会の仲間とも離れ、この時期、波光は京都市立絵画専門学校で教べんをとっている。昭和十年五月は波光にとって、皐月の波の五月であったのか、あるいは、木下杢太郎のように、外光派的な明るさと同時に憂いを含む、微妙な陰影を伴う耽美的なものであったのかは誰も知らない。(荒屋鋪透)サンケイ1989年1月22日
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