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美術館 > コレクション > 所蔵品解説 > 中谷泰 《陶土》 1958年 解説

中谷泰 《陶土》 1958年

 中谷泰(1909-1993)

陶土

1958(昭和33)年 

油彩・キャンバス

112×146cm  

 

 見る者を圧倒するような巨大な大地のくぼみは、まるで上部に描かれた工場の建物を下から突き上げ、圧縮するかのようである。戦後十年がたったころ、中谷は労働の現場というテーマに関心をもち、次のように記している。
 「このところずっと風景画を描いている。風景画とはいっても、たかだか炭坑とか工場街のごみごみしたなかでとらえた情景である。もともと私はひなびた環境を好んで描いてきたし、どちらかと言えば土臭い情緒派というところで我慢している。」
 中谷は一九〇九年、松阪市に生まれ、上京して川端画学校に学んだ。その後、春陽会洋画研究所に入り、師の木村荘八を通じて厳格な造形表現を身につけた。彼は戦前戦中の政治的抑圧に耐えて、不撓(とう)不屈の修練を持続し、卓抜な造形的力量を獲得した数少ない画家の一人である。
 一九五〇年代は、日本の現代美術が世界に復帰した重要な転換期であった。
 「陶土」は、そうした動向の中で制作された記念碑的な作品である。 (中谷伸生 中日新聞 1990年11月9日)

 


 

 画面を大きく支配するのは、陶土を採取した結果できた巨大な穴である。水がたまったり、光によって生じた明暗といった、さまざまな表情を見せる土の色彩が魅力的である。
 明治四十二年、松阪市に生まれた中谷泰は、戦前から戦後、静物画に自己の「崇高な精神を表現」しようと腐心していたが、昭和三十年ごろから炭坑町や工場、陶土採掘場をモチーフとした風景画を手掛けている。
 「陶土」をはじめ、この一連の風景画は、知的情趣に満ちた茶系の色彩と独特の画面構成によって、中谷の画業を代表する作品群となっている。
 この作品が、瀬戸での数多くのスケッチをもとに、画家の創意によって構成されているように、作者の話では、画面と同じ風景は、現実には存在しないという。 (森本孝 中日新聞  1988年) 

 


 

 「陶土」は1958年、第3回現代日本美術展に出品された。1955年頃に常盤炭鉱へ写生にいって以来おおきく変わった中谷の絵づくりの、これは典型的な例のひとつに数えていい。
 その直後のひきがねはいわゆる「ボタ山」だったらしい。「炭坑」という名の作品でそれはピラミッドのように空を摩して、「遠近法や空間の解釈まで変わってしまう程」のつよい印象をうけたことが嘘でないとわかる。それまでの人生とか社会にむけたあらわな関心は背後にしりぞき、純粋に造形的な絵画の力学がここではじめて中谷の絵をつくりあげる第一の要素となった。
 ボタ山は地上につみあげ、陶土は大地をえぐる。しかし感覚的にとらえるかたちとしてのおもしろさは似ているかもしれない。また、愚公山を移すの比喩に示されるような、ちいさな人間の手のおおきな行為という意味でも。そういうことなら中谷の関心が、たとえば人物から風景にかわったというより、むしろすでにあったものを包んで、より深く、大きくなったというべきだろう。人間的な感情はいったん解体されて、風景のいたるところに、空気のように、粒子のように存在するにいたった。独特のやわらかい、温かみのある色も、かれの描く対象のそれであるとともに、人間をみる眼差しのもつ尺度と温度からきている。(東俊郎)125の作品・三重県立美術館所蔵品 1992年

 

 

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