前田寛治 《風景》 1924年頃
前田寛治(1896-1930)
《風景》
1924(大正13)年
油彩・キャンバス
50.0×72.8cm
左に家屋、右に橋桁(げた)のような建造物、その下をくぐって奥に窓のついた壁が見えるが、この間がどうなっているのか、判然としない。左右の建築もそうと気づけば、はっきりしない点が目につく。右下に人物が三人いるが、尺度からすると、建築群はずいぶん巨大なことになろう。
朦朧(もうろう)としているわけでも、錯覚をしかけているのでもあるまい。むしろ、くっきりした面を噛(か)み合わせた構成が計られている。しかし、画面に納まりきらぬ巨大な建築を無理に詰めこんだかのようなさまに応じて、面を埋めるのは、物質的で粗放な塗りや線だ。構築性と絵画的描法、貫通と遮蔽(へい)の矛盾をうけとめる柔軟さこそが、迷宮めく空間をうみだす。 (石崎勝基 中日新聞 1991年3月15日)
古代ギリシャの大理石像で、完全な姿で残っているものはほとんどない。手足はおろか頭さえ欠けているのに、それでも美しいといえるのは、欠如がかえって想像をたくましくさせるからというより、もうそれだけで充(み)ち足りているからだろう。廃墟に美をみる時とは違った目のはたらきである。
きれいに仕上がったとみえる彫像を高いところから転げおとして、残った「かたまり」こそほんとの作品なんだとミケランジェロがいったとか、いわないとか。ようするに、一点一画もゆるがせにしないという張りつめた神経は、美の女神には似合わないのである。
「こわれやすい」のでも「こわれない」のでもなく、その間をしなやかにすり抜けていく感覚こそ本来の繊細さだとしたら、この種の繊細さはひとめ見たぐらいではなかなか分からない。だから、みかけはどれも武骨そうで、たたいてもこわれないほど頑丈そうな前田寛治の絵でいいものはそういう繊細さを秘めている、というと嘘(うそ)か冗談のようにとられてしまう。
色彩のはなやかさはない。画面は奇妙に凸凹していて遠近法が狂っている。人物の姿がへんだ。曲芸のような筆さばきも、瞬間的な霊感もない。芸術家の楽しい仕事というより、退屈な労働のようでさえある。しかし、毛すじほども繊細さを見せたがらないこの絵が、じつにいいんですね。渋いといってもいいけれど、かめばかむほど出てくるこの滋味のようなものは、やはりミケランジェロを経て遠くギリシャに通ずる繊細さだといいたくなる。(東俊郎)中日新聞2000年10月19日
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