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美術館 > コレクション > 所蔵品解説 > 岸田劉生 《麦二三寸》 1920年 解説

岸田劉生 《麦二三寸》 1920年

 岸田劉生(1891-1929)

麦二三寸

1920(大正9)年 

油彩・キャンバス

37.5×45.5cm

岸田劉生 《麦二三寸》 1920年

 

 

 一九一五年(大正四年)に岸田劉生は草土社を創立してその翌年の「切り通しの写生」に代表される写実を追求するが、ヨーロッパ絵画を性急に咀嚼(そしゃく)して、目まぐるしく変わる彼の画風は、一九二〇年ごろになると、すでに別の方向へ転じはじめた。
 やがて岸田の名を不朽のものとする「麗子像」の連作が生まれるにいたるのでこの「麦二三寸」も風景画であると同時に、緩やかなこう配の路に立つ娘麗子を描いた肖像画でもある。
 というのは、この画面を引き締める中心こそ、少女の着た和服の赤色であり、それによって穏やかな湘南地方の春景色は一点の緊張を与えられることになった。
 そしてこういう絵は、たちまち、一種の教祖である彼の周囲に集まった画家に影響した。たとえば椿貞雄。昨年、当館で開かれた「関根正二とその時代」展にも出品された椿の「鵠沼の或る道」は「麦二三寸」なしには考えられない。 (東俊郎 中日新聞 1987年9月26日) 


 一九一七年二月、岸由劉生は居を神奈川県鵠沼に移した。これから一九二三年の関東大震災までの六年余を劉生の「鵠沼時代」といったり「麗子時代」と呼んだりしている。麗子は一九一四年に生まれた劉生の娘で、この少女が画面にひんばんに登場し始めたのがこの時代からだからである。
 『麦二三寸』の緩やかな坂にみえる道にたつ女はやはり麗子である。着物の赤がまさに「紅一点」となって、穏やかに溶けてゆきそうな早春の景色を引き締めている。大地は平らかに、空ば広く、風はおさまって妻の穂は収穫に向かって伸び、かつての劉生の厳しいリアリズムはここでは少し背景に引っ込んで、別の顔が浮かび上がってくる。この辺りはよく散歩した道筋でもあり、『麦二三寸』のほかに『早春之一日』 『六月風景』などでも、少し構図をかえたこの場所をみることができる。 (東俊郎 中日新聞 1997年8月29日) 


 劉生の日記はしょっちゅう角力(すもう)をしたり、神に祈ったりと人柄がしのばれて本当に面白い。麗子への愛情も相当で、熱が出ては神に祈り、絵のモデルにと学校を休ませ、さらにあの「麗子像」連作を思い起こせば、愛情を越えた愛着ぶりに麗子もさぞ大変であったろうとよけ
いな想像までしてしまう。
 「麦二三寸」も、制作の途を日記にたどることができる。二月といういまだ厳寒の季節に、劉生は、上天気にたまらず近所の畑に写生に出掛けたという。
 画面いっぱいに広がる青空が、劉生の軽快な心持ち通りだ。風景に麗子が描き込まれたのは、三月になってから。風や雲に邪魔されつつ「兎(と)も角(かく)仕上げる。もう少し描く方がいいのだが、まあこれでもよい」と筆を置いた。
 こうして麗子の肖像付き風景画ができあった。広い広い風景の中、麗子の姿は本当に小さい。けれども水平的な構図の中、赤い和服の立ち姿は、小さくても強い赤い垂線として画面を引き縮める。
 遠くから見ても目立ち、近くからでもぽっこり盛り上がった赤い絵の具が印象的で、まさに画竜点晴のごとく、麗子は劉生の芸術そのものだったと想像できる。(桑名麻理・中日新聞1999年6月24日) 


  1915年(大正4年)に岸田劉生は草土社を創立してその翌年の「切通しの写生」に代表される写実を追及するが、ヨーロッパ絵画を性急に咀嚼(そしゃく)して、目まぐるしく変わる彼の画風は、1920年ごろになると、すでに別の方向へ転じはじめた。
 やがて岸田の名を不朽のものとする「麗子像」の連作が生まれるにいたるのでこの「麦二三寸」も風景画であると同時に、穏やかなこう配の路に立つ娘麗子を描いた肖像画でもある。というのは、この画面を引き締める中心こそ、少女の着た和服の赤色であり、それによって穏やかな湘南地方の春景色は1点の緊張を与えられることになった。
 そしてこういう絵は、たちまち、一種の教祖である彼の周囲に集まった画家に影響した。たとえば椿貞雄。椿の「鵠沼の或る道」は「麦二三寸」なしには考えられない。(東俊郎)125の作品・三重県立美術館所蔵品 1992年


 1920(大正9)年の劉生日記にはこの《麦二三寸》のことが何度かでてくる。弟子の椿貞雄の家の近くにひろがる麦畑と「紫にかすむ空と林の木等素敵」だと書いたのは2月17日のことで、3月11日には「今日は風景の中に麗子を加へんとて」可愛いい盛りの麗子を連れていった。どのあたりに麗子を立たせれば絵がすっきりするのか、あれこれ考えたことだろう。完成したのは3月16日で、この日は風が強かったらしいが、その気配は画面にあらわれていなくて、むしろ全体は穏やかに晴れわたり、その風景全体をひきしめる役目を帯びた童女の赤い装束を点出させることで、その春めいた雰囲気をさらにのびやかなものにしている。かつての誰もがうなった画面を押しあげてくるような強さの感覚はここで影をひそめているのは、生命の力そのものよりも、麦や道や森を包むようにしてそこにある空気を描きだそうとしているからだろうか。ともあれ、事物を執ように凝視しようとした劉生とは別の、もう一人の劉生の目が風景に注がれたとき、どんな絵が生まれてくるかを「麦二三寸」は語っている。(東俊郎)中日新聞2003年8月4日

 


 以前この欄で採りあげられたかと思うが、今回また劉生の「麦二三寸」に描かれた風景について書いてみたい。
 劉生には有名な「切通之写生」という作品がある。重要文化財で現在、東京国立近代美術館が所蔵している。赤土の丘を切通してできた道に、木の影がふたつ横切り、白壁が奥へとつづく風景画である。写実に徹した画家の意気込みを感じる油彩だが、昔日の東京はこんなだったかと思わせる荒涼とした情景を、実は同時代の何人かの画家が描いている。
 例えば椿貞雄と横堀角次郎。ふたりは劉生の影響を受け同じような風景画を草土社展に出品した。椿や横堀だけではない。大正時代には不思議に、造成途上の荒れた景色が画家をとらえ、モティーフに選ばれたようである。なぜ画家たちは、そんな切り崩された風景を写生していったのだろうか。
 そこには、明治時代の風景画との決定的な相違を見ることができるかもしれない。明るい外光のなかで自然を謳歌した、浪慢主義の明治の風景画とである。
 この「麦二三寸」には、殺伐とした風景は描かれていないが、失われゆく自然への憧憬は読み取ることができる。妻畠に愛児麗子を立たせた幸せな風景であるだけ一層、その逆説的な静けさが画面を際立たせている。
 思い浮かぶのは、劉生の白樺時代のフランス後期印象主義への接近である。ゴッホやゴーギャンといった芸術の楽園を希求した画家への憧れが、この時期の劉生の風景画に見られる、特異な自然への眼差しにつながっている。(荒屋鋪 透)サンケイ新聞1993年4月18日

 

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