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浅井忠《小丹波村》 ワークシート 原舞子 2007.12

浅井忠 (1856-1907)
《小丹波村》 1893(明治26)年 
油彩・キャンバス(パネル貼り)
27.0×39.0㎝
右下:C.Asai 明治二十六年十月廿日

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渡欧以前の絵画修業時代

浅井忠は1856(安政3)年6月21日に江戸木挽町の佐倉藩邸に佐倉藩士浅井伊織常明の長男として生まれた。1863(文久3)年1月に父常明が41歳で死去したことによりわずか8歳で家督を相続する。日ならずして、幕府の参勤交代が廃止されたのに伴い、各藩は江戸藩邸から本国に帰ることとなったため、浅井も佐倉に引き上げる。それから再び上京するまでの10年間、佐倉で書、漢詩、国史などの勉学に励む。また、1864(元治元)年ころから黒沼槐山という南画家について花鳥画を学んでいたという。


明治維新後、1873(明治6)年に再度上京し、はじめ英学塾に学ぶが、なぜか洋風美術の修学へと転じる。そのきっかけなどの詳しい事情については浅井自身も周囲の人々による記述も明らかしていない。1876(明治9)年には家族の猛反対を押して、英国から帰国した洋画家国沢新九郎(1848-1877)の主宰する画塾彰技堂に入門し学んだ後、同年11月に初めての官立美術学校として開校した工部美術学校に入学し、イタリアから招聘されたアントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi,1818-1882)の教えを受けた。


フォンタネージが病気のため工部美術学校を辞任して帰国すると、浅井忠、小山正太郎、松岡壽、高橋源吉ら学生はいっせいに退学し、十一会という洋画団体を結成した。帰国に際しフォンタネージが残した「今後は一途に天然を師として勉強せよ」ということばを指針として、相互に研鑽を図った。


明治10年代半ばからの伝統保守の動きによって美術界において洋画が排斥されるなか、浅井は十一会の仲間たちとともに洋画擁護策を起草するなど洋画の命脈の維持に努め、1889(明治22)年に明治美術会に結成された明治美術会の評議員となり、同会展に《春畝》(東京国立博物館蔵)、《収穫》(東京藝術大学蔵)などの優作を発表した。

浅井忠の肖像写真 年代不詳


浅井忠の肖像写真 年代不詳



フォンタネージ、アントニオ 《沼の落日》 1876-78年頃

フォンタネージ、アントニオ
《沼の落日》 1876-78年頃

不同舎の写生会

浅井忠は小山正太郎の私画塾「不同舎」で技術指導を行っていた。不同舎で行われた実技指導のうち、小山正太郎が最も重きをおいていたのが写生会であった。当時の写生会の様子を、不同舎出身者の一人である満谷国四郎は次のように述べている。


「(小山らは)年に何回か2、30人の生徒を引率して写生旅行を行った。これが我々の最も楽しみな行動の一つで先生も先達として最も得意であったように想像する。」


「明治25年11月上旬、われら35名が先生に引率されて、中央線八王子駅に下車、五日市町より日向和田を経て青梅町に出て、この沿道より散開して各自にスケッチをしながら往くと、前に通過した者が路傍の壁や板塀に、全村皆画とか紅葉有村犬行など落書きしたものだ。それから多摩川に沿って沢井に行き、小丹波に一泊。夜はその日のスケッチ(鉛筆画)を各自灯火のもとに修正し、これを一室に陳列して先生のママ好評を受け、これで1日の仕事が終わり、後は自由に高歌放吟するのである。この小丹波村の宿泊金は25銭(但し弁当付)。小丹波より帰途右岸に沿って再び青梅町に出て一泊(金25銭)。当番幹事福原は今夜の宿は贅沢だ、一番旅館だと言って大いばりであった。」

小山正太郎 《濁醪療渇黄葉村店》 1889年、ポーラ美術館

小山正太郎 《濁醪療渇黄葉村店》 1889年、ポーラ美術館



鹿子木孟郎 《南多摩大倉村》 1895年、府中市美術館

鹿子木孟郎 《南多摩大倉村》 1895年、府中市美術館

道路山水

道路を画面中央に配し、その両側に藁屋根の店や田舎屋、樹木などを透視図法によって配置する構図法のことをいう。石井柏亭は「新たに透視法に醒めさせられた彼等は、道路、並木の屋並等の諸線が地平線上の消失点の方へ消失する現象に喜びを感じて、しきりにさういふものを画いた。人は後にこれを道路山水などと呼んでいる。」(石井柏亭『日本絵画三代誌』ぺりかん社、1983年)と述べている。


浅井忠の《小丹波村》も画面中央に道を配し、左に農村風の民家、右には納屋を描き、道の端には樹を描く。井戸端でなにやら作業をする女性や、こちらに向かって道を歩いてくる二人の人物の姿も描かれている。
満谷国四郎の回想にもあるように、この作品の制作の前年、浅井は不同舎の学生35名とともに多摩地方に写生旅行に出かけ、小丹波村には一泊したと伝えられている。この作品もこうした旅行で立ち寄った際の写生をもとに制作された作品であろう。

満谷国四郎 《農家の見える道》 1892-1900年頃、東京文化財研究所

満谷国四郎 《農家の見える道》 1892-1900年頃、東京文化財研究所

グレー=シュル=ロワンでの方向転換

浅井忠は1899(明治32)年にパリ万国博覧会の監査官に任命され、さらに文部省より「西洋画研究ノ為満二年佛國留学」を命ぜられ、1900(明治33)年、43歳にして初めてパリの地を踏んだ。2年6ヶ月に及ぶヨーロッパ滞在のなかで、彼は画家として大きく方向転換を行っている。ひとつはパリ近郊のグレーで描いた田園風景画に見られる日本人の感性で洋画を制作する自由な姿勢、もうひとつはそれまで絵画より低い分野と見られていた図案に積極的に取り組む態度である。


グレー=シュル=ロワン(Grez-sur-Loing)はパリ市内から南東に約60㎞、セーヌ河の支流ロワン河沿いに位置する村である。1860年頃から、北欧、アメリカ、そして日本の芸術家たちが滞在し、豊かな自然に囲まれたのどかな村の風景を数多く描いたことで知られている。


日本人画家のなかでグレー村に最初に滞在したのは黒田清輝で、1888年5月からこの村に部屋を借りて滞在し、《読書》(東京国立博物館蔵)、《婦人図(厨房)》(東京藝術大学蔵)など滞欧中の代表作となるような作品を制作している。


渡仏後の浅井はたびたびグレーを訪れているが、1901年10月から翌年3月までは和田英作とともにオテル・シュビヨンに長期滞在する。二人のグレーでの生活を挿絵とともに綴った「愚劣日記」は雑誌『ホトトギス』(5巻4号、1902年1月1日発行)に掲載され、日本の一般購読者たちにグレーの様子を伝えた。


「愚劣日記」からは、二人がグレーに滞在した時期が冬であったため、あまり天候に恵まれず屋外での制作には苦労をしたこと、またグレーに近いモンティニーで陶芸家アルベール・ブエを訪問し、陶器の絵付けや図案制作を行っていたことがわかる。帰国後の浅井は京都で新しい工芸図案を創出し、伝統遵守の京都の工芸に革新をもたらし、自らも工芸方面に新しい地平を切り開くこととなるが、グレーでの体験が大きな影響を与えていることは想像に難くない。


(学芸員 原舞子)



作家別記事一覧:浅井忠

浅井忠 《グレーの教会》 1901年、東京国立博物館

浅井忠 《グレーの教会》 1901年、
東京国立博物館



グレーの教会 2006年2月26日撮影

グレーの教会 2006年2月26日撮影

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