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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1996 > 柳原義達の新生-滞欧作の周辺 毛利伊知郎 柳原義達展図録

柳原義達の新生-滞欧作の周辺

毛利伊知郎

 1951年2月、東京で現代フランス美術展(サロン・ド・メ東京展)が、毎日新聞社の主催によって開催され、第二次世界大戦後のフランスで活動する作家たちの絵画30点、彫刻9点、素描・版画17点が紹介された。この展覧会が、敗戦間もない当時のわが国の美術界に大きな影響を与えたことはよく知られている。

 サロン・ド・メに出品された彫刻9点は、いずれも小品の類であったけれども、大部分が30-40代の新進作家の手になるそれらの作品は、人体をモチーフにした作品であっても、細部の造形にこだわることなく単純化や抽象化を加えた、当時のわが国の彫刻界では見ることのできないスタイルの作品ばかりであった。

 向井良吉や建畠覚造ら抽象系の作家たちもこのサロン・ド・メの彫刻に大きな関心を寄せていたが、具象系の作家たちの中で最も強い刺激を受けたのが柳原義達であったといってもよい。

 彼は、「この展示のなかにあった〈黒い太陽〉、その他のように、現実をみつめた作品群に目まいがしそうな感動をうけたのは今も忘れられない」と当時のことを回想しているが、この展覧会での経験が柳原義達のその後の彫刻人生に大きな転機をもたらす契機となった。サロン・ド・メの作品に接した翌1952年、既に42歳に達していた柳原義達は、私費でパリに渡ることになる。以後、1957年、47歳の時に帰国するまでのパリ生活は、それまでの彫刻家としての経験や仕事など一切を無として、一から再出発するための再修業期間に他ならなかった。

 既に各所で指摘されているように、中堅の域に達していた彫刻家が、海外渡航も容易でないこの時代に私費でフランスヘ行き、彫刻を新たに学び直すという行為の重大さは、想像に余りある。

 この時期、柳原義達と近い世代では、建畠覚造や向井良吉らが、彼と同時期にパリに滞在していたが、新制作派協会に参画していた具象系の作家たちで、この時期に渡欧経験を持つ作家は柳原を除くと見あたらない。

 柳原義達とともに、戦後の具象彫刻界を代表する作家と目される舟越保武、佐藤忠良の二人も、この時期に渡欧することはなく、それぞれ国内にあって自らの道を歩んでいた。

 柳原義達と同様、舟越や佐藤の造形の基盤がロダン以降のフランス近代彫刻にあったことはいうまでもないが、舟越・佐藤の二人と柳原との間の決定的な相違は、まさに戦後のこの時期に渡欧を果たし、西洋彫刻の本質的な部分を自らの血肉としたか否かにある。

 柳原は、それ以前の彫刻観を覆されるようなパリでの体験にまつわるエピソードをいくつか記しているが、そうした強烈な経験は日本近代美術史においては、柳原義達だけのものでもなかった。

 それは、日本国内で作品集や将来された少数の実作品を通して知識としてなされていた西洋美術理解と、実際に渡欧して西洋の作家たちと同じ環境で生活し、制作する中で体得された西洋美術に対する認識とのギャップでもあり、明治以降、渡欧した画家や彫刻家たちの多くの経験と相通じるものであった。

 では、パリ滞在によって柳原義達は、どのように変わったのだろうか。滞欧作品を検討する前に、先ず渡欧以前の典型的な作例として、戦前の作品中、ほとんど唯一の現存作である《山本恪二さんの首》(No.1)を見ておくことにしよう

 この作品は、美術学校の後輩であった山本恪二と互いにモデルになりながら制作した作品であるというが、ここでは細面の青年彫刻家の容貌が、何ら演出や誇張が加えられることなく素直で的確な肉付けによって表現されている。清潔感漂うこの日本青年の顔は、たとえば佐藤忠良の最初期の作品の一つ《母の顔》(1942年)、同じく舟越保武の初期作《つやこ》(1935年)などに近しい、この時期の青年彫刻家たちが抱いていた生命感あふれる彫刻に対する純真な心のあり様を私たちに感じさせる。

 柳原義達を初めとして、舟越保武、佐藤忠艮ら美術学校在校中から国画会に出品を始め、後に新制作派協会結成に参画した青年彫刻家たちが、ロダンを彫刻表現の共通の理想として、それぞれの個性を活かしながら、自ら発見した主題、素材、方法によって各自の彫刻世界を築き、第二次大戦以後のわが国の具象彫刻界に大きな流れを形成していったことは多くの人の認めるところだ。

 柳原の《山本恪二さんの首》は、美術全集や高村光太郎らの仕事等を通じて当時の青年彫刻家たちが知り得た、ロダンやブールデルらの造形に対する純真な憧憬が具現された作品ということができよう。

 第二次大戦後の、《アンヌの首》(1947年、No.2)、《高瀬さんの首》(1948年、No.4)を初めとする頭像、あるいは《犬の唄》(1950年、No.6)、《婦人像(トルソ)》(1951年、No.8)などの全身像を見ても、若干のヴァリエーションはあるにしても、基本的には、むしろ控えめな肉付けによる作意の少ない、彫刻家の清新な息吹を感じさせるような端正な人物像が続くことになる。

 それでは、柳原義達がパリで制作した作品はどのようなものであったのか。次に、パリで制作され、以後の柳原彫刻の出発点となった《黒人の女》(No.10)《赤毛の女》(No.9)《バルザックのモデルたりし男》(No.11)の3点を検討してみよう。

 これら3点の作品になると、渡航以前の作品に見られた、オーソドックスなモデリングは、全く影を潜めている。人物の容貌は、大まかに目鼻立ちの要所が肉付けされるだけで、具体的な表情を表そうとする意識はほとんど認められない。

 作家の意識は、そうした人物の表情を写実的に表現することではなく、モデルの人体がつくり出すバランス、空間の中での構成といったところに向けられているようだ。

 たとえば、《赤毛の女》では、両手を胸に当てて、うつ向き気味に、右膝を曲げて立つ女性の身体がつくり出す上昇感のある構成が見られ、また《黒人の女》では、小さめの頭部、左腰に当てた両腕、張り出した腰、前後に開いた両脚とから生まれる屈曲した身体が、鋭く切り取ったように空間を占めている。

 さらに、制作に最も時間を要したという《バルザックのモデルたりし男》では、上向きに顔をあげ、両脚を開いて腰をおろした太り気味の老人の体躯によって、大様な安定感が生まれている。

 これら滞欧作では、渡仏前の作品に共通して見られた、写実表現を基調とした静謐な雰囲気が消え、運動感を伴った荒々しい情感が前面に押し出されるようになったといってもよいだろう。作家の意識に大きな変化が生じたことは誰の目にも明らかである。それは、作品の視覚的効果だけのことではない。作家自身の随想等をあわせ見れば、パリにおいて柳原の彫刻観が本質的な部分で変化したことが容易に了解できよう。

 また、柳原義達の手元に残されている数多くのデッサンも、パリでの再修業の有り様と、彼のめざすところ、対象への視線の向け方などをしのばせてくれる。パリ時代の柳原義達は、最初は独学で勉強を始めたが、やがてグランド・ショミエールのオリコストの教室に通い、午前中はデッサン、午後は彫刻制作をこなす毎日であったという。研究所で描かれたデッサンには、比較的丁寧な描写を示すものもあるが、短時間のうちに次々とポーズを変えていくモデルを早い筆使いで描き留めたものが数多く含まれている。

 そこでは、作家の目は空間の中で様々に体勢を変えていくモデルの全体像を描き留めることに集中しており、細部の描写は重要な問題にはなっていない。平面と立体の相違はあるが、これらのデッサンに見られる対象把握のあり方は、彫刻作品と軌を一にしているということができるだろう

 さらに、パリ時代の経験ということでは、フランスの彫刻家たちとの交友だけではなく、イタリア旅行等を契機に知り合ったエミリオ・グレコ、ジャコモ・マンズー、ペリクレ・ファッツィーニ、マリノ・マリーニ、さらにはヘンリー・ムーアら、イタリアやイギリスの彫刻家たちからの影響も見逃すことができないだろう。

 彼らの作品を知ることによって、フランス以外のイタリアやイギリスをも含めた西洋の堅固な造形世界についての視野を広げ、日本人たる自分に何ができるかをより深く柳原が省察したであろうことは想像に難くない。

 作家自身が折に触れて述べているように、こうしたパリでの様々な経験を通して、柳原は「根源的な自然の法則」に従い、「プラン(面)による構成」、「プランの螺旋構造」、「生命の力の移動」、といったロダンの言葉に示される造形理念を尊重しつつ、日本人としての自己の彫刻世界を確立していった。

 その結果、対象を忠実に写すことは、この彫刻家にとって本質的な問題ではなく、生命の本質を表現していくためにはむしろ抽象化は当然必要になると柳原は考えるようになった。

 最後に、こうした柳原義達の造形の根幹に関わる姿勢を平明に示す言葉として、次の発言をひいておこう。

「抽象、具象は関係なく、造形精神が必要だということですね。(中略)とにかく私がいちばん学んだのは、(中略)そういう素材の持っている美しさ、その中に没入することがまずひとつ。それからその素材の中に何の生命を彫り込むか。それは具象作家であれば自然の持つ生命。(中略)ぼくとしてはどこまでもそうした自然の美しさを一歩もでられないということです。」

「自然の中から何を引き出してどのように表現するかというためには、デフォルマシオンは当然必要だと思います。」

「へンリー・ムアとか、マリノ・マリーニ、マンズーだとか、そんな人たちと競争しても、しょせんぼく自身が日本人だから、ああいう岩石が凍りついたような神経にはなれないんですよ。」
(柳原義達十朝倉響子,「鳩 ひとり歩く彫刻家の道標 柳原義達を訪ねて」,『みづゑ』,1975年2月号。)

 これらの発言は、かなり後年のものではあるが、ここで述べられている考え方の大部分は第1回のパリ時代に培われたものといってもよいだろう。

 パリで制作された彫刻は、1957年以降、国内で発表されることになるが、それらが戦後日本の具象彫刻界に新生面を開いた作品として高い評価を伴って受け入れられたことは、周知の事柄である。

 4年ほどのパリ滞在は、柳原が具象、抽象の垣根を取り払った広い視野をもって、造形表現の本質について思索し、独自の彫刻世界を築いた時期であり、まさにこのとき彫刻家柳原義達は第二の誕生を果たしたのであった。

(三重県立美術館学芸員)

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