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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1990 > 年譜 土田真紀編 ヴァン・ド・ヴェルド展図録

年譜

土田真紀編

1863年

4月3日,アントワープの港地区ファルコンプレンヌ23番地に生まれる。
父ギヨーム・シャルル・ヴァン・ド・ヴェルドは薬剤師。母はジャンヌ・エイメ・アウロール。8人兄弟の下から2番目。

1875年

アントワープの中等学校に入学。

1876年

中等学校で後の詩人マックス・エルスカンプと友人になる。

1878年

エドリンク通り2番地に移る。

1880年

アントワープの王立美術アカデミーに入学。当時の校長はシヤルル・ヴェルラット。

*ブリュッセルで『若きベルギー』誌創刊。

1881年

アカデミーで銀メダルと優秀賓を受賞。

*ブリュッセルで『現代芸術』誌創刊。

1882年

*マネ,〈フォリ・ベルジュールのバー〉をサロンに出品。
*イギリスでアーサー・ヘイゲイト・マックマドウが〈センチュリー・ギルド〉設立。

1883年

夏,アカデミーを離れる。 ある展覧会でマネの《フォリ・ベルジェールのバー》を見て,強い印象を受ける。
ヴェルラットに師事する生徒たちのグループ〈アルス・イク・カン〉のメンバーとなる。

*ブリュッセルで〈二十人会〉創設。
*スーラ,《アニエールの水浴》に着手(-1884年)。
*ニーチェ,『ツァラトゥーストラはかく語りき』の執筆を開始(-1885年)。

1884年

7月,アントワープからカルムトハウトに移る。
10月,パリに行く。オデッサ街のホテルに滞在。
カロリュス=デュランに弟子入りする。
パリで画家エルネスト・メッソニエと作曲家シャルル・グノーらを訪問する。
熱心に劇場に通う。

*パリに〈アンデパンダン美術協会〉設立。
*イギリスで〈アート・ワーカーズ・ギルド〉設立。ウォルター・クレインは初代会長に就任。
*スーラ,《グランド・ジャット島の日曜日の午後》に者手(-1886年)。

1885年

春,ミレーの生活への憧憬からバルビゾンを訪れた後,カルムトハウトに戻る。

*デュラン=リュエル,ブリュッセルで印象派の展覧会を開催。

1886年

1月,カルムトハウトからヴェッヒェルデルザンドに移る。
ヘイマンス,フォン・クラベルス,ロッセルスら〈光線主義〉の画家と知り合う。
〈アルス・イク・カン〉を脱退する。
アントワープの〈アンデパンダン美術協会〉の創立に参加。

1887年

2月,ブリュッセルの〈二十人会〉展で強い印象を受ける。なかでもスーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》に感嘆する。
3-4月,第1回〈アンデパンダン美術〉展に絵画を出品する。
5月,パリに滞在し,《エコール・デ・ボザール》でミレーの大展覧会を見る。
母親がヴェッヒェルデルザンドを訪れ,しばらく滞在する。

*ベルナールはブルターニュに旅行し,「クロワゾニスム」を創始。

1887年

1888年

7月,母親が亡くなる。強い打撃を受け,そこから立ち直るため兄の住むブランケンベルヒェにしばらく滞在する。
ブランケンベルヒェで詩人シャルル・ヴァン・レェルベルヒェと知り合う。
11月,ロダン,レマンと共に〈二十人会〉のメンバーに選出される。
ブリュッセルのエドモン・ピカール邸の集まりに参加するようになり,アンソールらと出合う。
冬,ヴェッヒェルデルザンドに戻る。
ロシア文学,社会主義文学,聖書,トマス・ア・ケンピス,ニーチェなどを読む。
スーラの技法を取り入れる。
点描主義の油彩《ブランケンベルヒェの海岸》制作。

*〈ナビ〉派が結成される。
*ゴーギャン,ボンタヴェンに滞在。《説教後の幻想──ヤコブと天使の格闘》制作。
*イギリスで〈アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会〉設立。

1889年

ブランケンベルヒェをたびたび訪れる。ヴァン・レェルベルヒェ,エミール・ヴァンデルヴェルデらと親しくなる。
ヴァン・レェルベルヒェと共にヴィリエ・ド・リール=アダンのワグナーについての講演に参加。
ヘイマンスについての記事を『ルビュ・ジェネラール』誌に発表。

2月,〈二十人会〉展に初めて出品する。
ブリュッセルを訪れたスーラと初めて会話を交わす。

*ブリュッセルでビングの日本美術展が開かれる。
*第6回〈二十人会〉展にゴーギャン出品。
*パリ万国博覧会開催。エッフェル塔完成。

1890年

ヴェッヒェルデルザンドからクノックに移る。
カルムトハウトの姉ジャンヌの家〈フォーヘレンザンフ〉に頻繁に滞在する。
再びエルスカンプと交友が親密になる。
〈二十人会〉展で初めてヴァン・ゴッホの作品を見る。
ベルギーを講演旅行中のマラルメの世話をする。
この頃から『現代芸術』誌にアントワープを中心とした記事を執筆し始める。
この頃農夫のスケッチを数多く描く。

*第7回〈二十人会〉展にセザンヌ,ヴァン・ゴッホ出品。
*レマン,カーペット,テキスタイル等をデザイン。
*ゴッホ,ピストル自殺。
*モリス,〈ケルムスコットプレス〉を設立。

1891年

アントワープの〈芸術協会〉の中心メンバーとして音楽会と展覧会の催しに尽力する。
〈二十人会〉展で再びヴァン・ゴッホの作品を見る。

*第8回〈二十人会〉展にシェレ,クレイン,ゴーギャン,フィンチらの応用美術の作品が初めて出品される。ヴァン・ゴッホを追悼して特別展示。レマンが目録表紙をデザイン。
*レマン,『現代芸術』誌にクレイン論を発表。
*この頃,ブリュッセルに〈日本商会〉が開店し,ロンドンの〈リバティー〉から運ばれてきた品々が並ぶ。
*スーラ,死去。
*ヴォイジー,ベッドフォード・パークの住宅を設計。

1892年

ブリュッセルでオーギューストヴェルメイレンと会い,前衛的なフラマン語の雑誌『ヴァン・ニュー・エン・ストラックス』の創刊について話し合う。
エルスカンプの詩集『ドミニカル』の表紙をデザインする。
夏,ヴェルメイレンがカルムトハウトに訪ねてくる。彼が持参したウィリアム・ブレイクの『ヨブ記』を見る。
7月,デン・ハーグで展覧会を組織し,「絵画の中の農民」という題で講演する。この時,ヤン・トーロップ,ロラント=ホルスト,ヨハン・トルン=プリッカーらオランダの芸術家と接触する。
10月,カルムトハウトからクノックに戻る。
ヴァン・ド・ヴェルドは刺繍作品のデザイン《干し草を作る人》を〈二十人会〉展に出品。
冬,≪天使の見守り≫のデザインが,クノックで叔母の協力で刺繍壁掛けとして実現される。
この頃,ウィリー・フィンチとの交友を通じてイギリスの思想家ジョン・ラスキンやモリスへの関心が強まる。
ゴッホの影響を示す油彩《カルムトハウトの庭》制作。

*第9回〈二十人会〉展で工芸に一室が設けられる。ウィリアム・モリスの書物も展示。レマンが目録表紙をデザイン。

1893年

〈二十人会〉の第10回展に壁掛け《天使の見守り》を出品。
『ヴァン・ニュー・エン・ストラックス』の表紙,タイポグラフィー,装飾モティーフのデザインに取り組む。
テオ・ヴァン・レイセルベルヒェらとカドザンに旅行する。ヴァン・レイセルベルヒェの弟子のマリア・セートゥと親しくなる。ロンドンに行くマリア・セートゥにモリスの話をする。
10月,アントワープのアカデミーで工芸史の講義を開講する。
講演にやって来たヴェルレーヌと知り合う。
この頃ベルギーに住んでいたトルン=プリッカーと親交を結ぶ。 エルスカンプの詩集『祝福の天使』の表紙をデザインする。

*ヴィクトル・オルタ,ブリュッセルに〈タッセル邸〉設計(-1895年)。
*ボール・アンカール,ブリュッセルに〈自邸〉設計。
*4月,『ヴァン・ニュー・エン・ストラックス』誌創刊。
*4月,〈二十人会〉が解散。
*ロンドンで芸術雑誌『ザ・ステューディオ』創刊。

1894年

3月,ブリュッセルの〈自由美学〉の集まりで「未来の芸術」をテーマに講演する。
4月,マリア・セートゥと結婚。新婚旅行でオランダに行き,ブュスムにテオ・ヴァン・ゴッホの未亡人を訪ねる。そこに残されていたゴッホの作品を数多く見る。
ウックルの義母の家に住む。
8月,最初の著作『芸術の浄化』をブリュッセルで出版。装飾も自身で手がける。完全に絵画制作をやめ,工芸・建築の分野に専心することを決意する。
ブリュッセル郊外のウックルの自邸〈ブルーメンウェルフ〉の設計にかかる。
〈自由美学〉展でブリュッセルを訪れたカミーユ・ピサロと知り合う。
〈オトレ邸〉のインテリアを設計する。
10月,開校した〈ベルギー自由大学〉で応用美術と装飾についての講義をもつ。

*オルタブリュッセルに〈ソルヴェイ邸〉設計。
*〈二十人会〉が〈自由美学〉に再編成される。第1回展にセリュリエ=ボヴィが〈仕事部屋〉のインテリアと家具を展示。

1894年

1895年

自邸〈ブルーメンウェルフ〉が完成。家具等のデザインも手がける。
ユリウス・マイヤー=グレーフェとジークフリート・ビンクやがウックルを訪れ,ビングが計画中の展覧会について話し合う。
ジョルジュ・レマンと協力して,パリのビングの美術店〈アール・ヌーヴォー〉のインテリア(喫煙室,食堂,奥の間)を設計する。

*オルタ,ブリュッセルに〈民衆会館〉設計。
*第2回〈自由美学〉展にセリュリエ=ボヴィが〈職人の部屋〉の家具とインテリアを展示。
*ベルリンで芸術雑誌『パン』創刊。

1896年

義姉でヴァイオリニストのイルマのために家具とインテリアを設計する。
レオン・ビアールのためにインテリアを設計する。
アルベール・ベスナールのパネル入りの暖炉を設計する。
妻マリアのために衣装をデザインする。
〈自由美学〉展に〈ブルーメンウェルフ〉のためにデザインした家具などを出品する。
マイヤー=グレーフェが〈ブルーメンウェルフ〉にしばらく滞在する。
トウールーズ=ロートレックが〈ブルーメンウェルフ〉を訪れる。

*モリス,死去。
*ヘルマン・ムテジウス,ドイツ政府から派遣されてロンドンに滞在(1903年まで)。
*アウグスト・エンデル,ミュンヘンに〈エルヴィラ写真館〉設計(-1897年)。

1896年   1896年

1897年

ドレスデンの工芸展にビングのためのインテリアを展示することになり,妻のマリア,画家ムーニエと共にドレスデンを訪れる。ブリュッセルへの帰途,ベルリンも訪れる。展覧会は反響を呼ぶ。
ドイツの美術雑誌『パン』にヴァン・ド・ヴェルドの論文「現代家具のデザインと製作に関する一章」が掲載される。
5月,エーバーハルト・フォン・ボーデンハウゼンが〈ブルーメンウェルフ〉を訪れ,〈トロポン〉のポスター等のデザインを依頼する。
フォン・ボーデンハウゼンの助力を得て,ブリュッセルに〈ヴァン・ド・ヴェルド商会〉とその工房を設立。
フォン・ボーデンハウゼンのために家具を設計。
ベルリンの〈ケラー・ウント・ライナー〉美術店のインテリアを設計。
テルヴューレンの博覧会のためにインテリアを設計。アンカー,セリュリエ=ボヴイらも参加。
10月,ハリー・ケスラーが〈ブルーメンウェルフ〉を訪れる。

*マイヤー=グレーフェはミュンヘンのブルックマンと協力して雑誌『装飾芸術』を創刊。
*マイヤー=グレーフェはパリに美術店くラ・メゾン・モデルヌ〉を開店。
*〈ウィーン分離派〉結成。

1897年

1898年

1月,ブリュッセルの〈民衆会館〉でウィリアム・モリスについて講演する。
3月,ケスラーが〈ブルーメンウェルフ〉を訪れ,ニーチェの『ツァラトゥーストラはかく語りき』の特装版の計画を提案する。レマン,ヴァン・レイセルベルヒェも同席。
ベルリンの〈カッシーラー画廊〉の内装を手掛ける。
書物装帳家コブデン=サンダーソンのブリュッセルでの講演を助ける。
〈トロポン〉のパッケージ,ポスター等のデザインを手がける。
ブリュッセルの殉教者広場の記念碑を設計。
10月,『装飾芸術』誌にマイヤー=グレーフェがヴァン・ド・ヴェルドの特集記事を書く。
ヴァン・ド・ヴェルドがデザインした婦人服がクレーフェルトの美術館で展示される。この時初めてドイツで講演する。

*リカルト・リーマーシュミット,ペーター・ベーレンスら〈ミュンヘン工房〉を設立。同じ頃〈ドレスデン工房〉も設立。
*〈ベルリン分離派〉結成。

1899年

マイヤー=グレーフェがパリに開いた美術店〈ラ・メゾン・モデルヌ〉のインテリアをレマンと協力して手がける。
〈ミュンヘン分離派〉の展覧会に招待を受けて書斎のインテリアを展示し,自身ミュンヘンに行く。
ケスラーらが『ツァラトゥーストラはかく語りき』の件で再び〈ブルーメンウェルフ〉を訪れる。
ベルリンの〈ハバナ煙草会社〉の店のインテリアを設計。

*ヘッセン大公の呼びかけで〈ダルムシュタット芸術家村〉の建設開始。
*ライプツィヒで『ディ・インゼル』誌創刊。
*シニャック『ユジェーヌ・ドラクロワから新印象主義まで』刊行。

1900年

2月,工芸の復興運動についてベルリンで講演する。この内容が『工芸のルネサンス』という1冊の本にまとめられ,翌年出版される。
5月,カール・エルンストオストハウスがくブルーメンウェルフ〉を訪れ,ハーグンの〈フォルクヴァング博物館〉のインテリアの設計の件について話し合う。
ベルリンの〈ペルガモン美術館〉でギリシャの円柱やアルカイック期の作品を見て強い印象を受ける。
ベルリンの〈ホーエンツォレルン工芸品店〉のヒルシュヴァルトと知り合い,彼の店にアトリエを移すことになる。
自身のアトリエの設計とヒルシュヴァルトの工芸品店の改装を行なう。
ベルリン,ドレスデン、ハンブルク,ウィーンなどで婦人服の改革についての講演を開始する。
10月,家族と共に〈ブルーメンウェルフ〉を離れ,ベルリンに移り住む。

*パリ万国博覧全開催。
*クレイン『線と形』出版。
*ニーチェ,ワイマールで死去。

1900年

1901年

ベルリンの皇室用達のヘア・サロン〈ハービー〉のインテリアを設計し,センセーションを巻き起こす。
皇帝ウィルヘルム2世はヴァン・ド・ヴェルドに反感を抱く。
ベルリンの芸術家グループやその他の集まりで多くの講演をする。
新聞紙上で論争や批評が繰り返される。ヘルマン・オプリストやオットー・エックマンがヴァン・ド・ヴェルドの優位に反撥する。
ケスラーと共にダルムシュタットを訪れる。
ワイマールにニーチェの妹ユリザベート・フェルスター=ニーチェを訪問する。この後,フェルスター=ニーチェはヴァン・ド・ヴェルドのワイマールでの活動を様々な形で支援していくことになる。
友人ヘルマン・ペヒターの助力で商業主義に足るヒルシュヴァルトとの契約を解除する。
12月,ワイマールに移る決意を固める。

*「ドイツ芸術の記録」をテーマに〈ダルムシュタット芸術家村〉第1回展開催。

1902年

ワイマールのクラナッハ通り11番地に移り住む。
ザクセン・ワイマール大公ウィルヘルム・エルンストの芸術顧問となる。
7月,ハーゲンの〈フォルクヴァング博物館〉が完成し,開館。
10月,自身のアトリエの隣に,工芸家,デザイナーを養成するために〈工芸ゼミナール〉を開く。
デュッセルドルフの産業展に出品。この会場でウィルヘルム皇帝から侮辱を受ける。
ケムニッツに〈ヘルベルトエッシェ邸〉を設計(完成は1903年)。
オランダのスヒェーヴェーニンゲンに〈ルーリング邸〉を設計。
『工芸に関する素人説教』をライプツィヒで出版。
この年,ハリー・ケスラーがワイマールの美術館長に就任し,ワイマールに移り住む。ヴァン・ド・ヴェルドはケスラーのアパートのインテリアを設計。

*トリノで国際装飾美術展開催。

1902年

1903年

〈ハンブルク=アメリカ汽船〉の客船の内装の仕事のため,2月から4月まで東方旅行。シシリー,コンスタンチノープル,ギリシャ,パレスチナ,シリア,エジプトを訪れる。
ザクセン=ワイマール大公の婚礼に際して食卓用の銀器をデザインする。
ウィルヘルム皇帝の異議で客船の仕事が中止される。
エルフルトの美術館の最初の設計案。
女優ルイーズ・デュモンが計画したワイマールの夏期劇場の設計案を立てるが,やがてデュモンはこの計画を断念する。
ワイマールを訪れたアンドレ・ジード,リヒァルトデーメル,フーゴー・フォン・ホフマンスタール,ゲルハルトハウプトマンらに接する。
皇帝ウィルヘルム2世に対抗して,ハリー・ケスラーの尽力で,ベルリン,ミュンヘン,ドレスデンの分離派の芸術家の集まりである〈ドイツ芸術家連盟〉が設立され,ワイマールで最初の展覧会が開催される。
ヴァン・ド・ヴェルドは会場となった美術館のホールの改装を行なう。
ワイマールの〈ニーチェ・アルヒーフ〉の改装を担当する。10月に開館。
ケスラーが計画中のワイマールの新美術館の設計案を立てる。
ケスラーの住宅のインテリアを設計。
アウグスブルクの〈ドイツ銀行〉を設計。
ワイマール滞在中のエドヴァルト・ムンクと知り合う。
10月,フィンランドの若い建築家シグルド・フロステルスがアトリエを訪れ,翌年5月まで滞在し,仕事を手伝う。

*ベーレンス,デュッセルドルフ工芸学校長に就任(-1907年)。
*ヨーゼフ・ホフマン,〈ウィーン工房〉設立。
*オーギュスト・ペレ,パリのフランクリン通りのアパート完成。

1904年

ワイマールの美術学校新校舎の設計が終わる(1904-05年に第1期工事)。
〈ハーフコート社〉の事務所のインテリアを設計。
パリのドゥルエ画廊で銀製品の展覧会を開く。
ワイマールの宮廷劇場の設計案を立てるが,陰謀で実現しない。

*ムテゾウス,ベルリンで『イギリスの住宅』を刊行(-1905年)

1905年

ワイマールで開かれた(工芸と産業)展に工芸学校の生徒の作品が展示され,そのカタログに序文を書く。
パリのブーローニュの森にゴルヴェフ夫妻の住宅のインテリアを設計。
イギリスの演出家で舞台美術家のゴードン・クレイグがワイマールを訪れ,〈工芸ゼミナール〉に関心を寄せる。
工芸学校校舎を設計(完成は1906年)。

1906年

5-6月,ロンドンのプリンセス画廊で〈ドイツ芸術家連盟〉の展覧会が開催される。ヴァン・ド・ヴェルドは展示室を設計。初めてロンドンに旅行し,ウォルター・クレイン,バーナード・ショー,メイ・モリスに合う。
5月,ドレスデンで第3回工芸展が開かれ.ワイマールに計画中の美術館ホールや食堂のインテリア,家具などを展示する。展覧会はヴァン・ド・ヴェルドに対する批判が強まる機会となる。新聞,雑誌でも議論が繰り広げられる。
7月,以前からの批判が一層強まり,ケスラーはワイマールでの職を退く。ルドヴィヒ・フォン・ホフマンとヴァン・ド・ヴェルドも批判を受ける。
マックス・ラインハルトがベルリンに計画中の劇場のヴァン・ド・ヴェルドの設計案を拒否。
ケムニッツのテニスクラブの建物を設計(完成は1908年)。
ワイマール郊外のエーリンクスドルフに自邸〈ホーヘ・パプラン〉を設計(完成は1908年)。
ハーゲン郊外にオストハウスの住宅(ホーヘンホフ)を設計(完成は1908年)。

*〈ドイツ工房〉設立。機械製の家具をデザインし,〈ドイツ工芸展〉に出品。
*オストハウス,ハーゲン郊外のホーエンハーゲンに芸術家村の建設開始。ベーレンス,ラウエリクスらが住宅を設計。

1907年

1月,ライプツィヒの出版社〈インゼル〉から『新様式について』が出版される。
シュトゥットガルト,ブレーメン,チューリヒ,オスロ,コペンハーゲン,トロントハイムで巡回展が開かれる。
ワイマール州立美術館の改築設計案。
10月,ワイマール工芸学校が16人の生徒で開校。
ザクセン=ワイマール大公との関係が悪化する。
ラウターバッハ(チューリンゲン)の〈アルノルト・エッシェ邸〉を設計。

*〈ドイツ工作連盟〉結成。ミュンヘンで結成集金。
*ベーレンス,AEGの芸術顧問となり,ベルリンに移る。
*グロピウス,ベーレンスのもとで働く。

1908年

イェーナの〈エルンスト・アッベ記念堂〉の仕事をめぐって,新聞がヴァン・ド・ヴェルドを攻撃。秋,建築の設計がヴァン・ド・ヴェルドに委任される。
3月,ワイマールの工芸学校長に正式に就任。
ヴァン・ド・ヴェルドが表紙をデザインした『ツァラトゥーストラはかく語りき』の特装版が刊行される。

*ロース,ウィーンで『装飾と罪悪』出版。
*〈ミュンヘン工房〉がブルーノ・パウルによる「規格家具」を発表。
*ヴィルヘルム・ヴォーリンガー,『抽象と感情移入』刊行。

1909年

ケスラーの後任となったケットシャウ教授のためにワイマールに墓所を設計。
〈インゼル〉社から『アモ』の第1版150部が出版される。タイポグラフィーも自身で手掛ける。

*オストハウス,〈ドイツ商工業美術館〉を設立。

1910年

6月,イェーナの〈アッベ記念堂〉が完成。
〈インゼル〉社から『エッセイ』を出版。
ドイツに住み続けることに困難を感じベルギーに帰国しようと試みる。
ワイマール美術学校は正式に美術大学となる。
牧師館の設計の仕事のためにリガ(ラトヴィアの首都)を訪れる(1912年に完成)。
5月,パリに旅行し,モーリス・ドニに合う。彼を通じて建築家ロジェ・ブヴァール,技師ミロン(エッフェルの助手)と協力して,〈シャンゼリゼ劇場〉の仕事を引き受ける。
12月,最初の設計案を提出。承認され,設計を委任される。この仕事のためにパリに住居とアトリエを借りる。

*ベルリンで〈ドイツ工作連盟〉第3回集会。
*ベルリン新分離派結成。
*オーストリアで工作連盟設立。
*グロピウス,「芸術的統一の原理に基づく一般住宅建設部会社の設立要綱」を発表し,「規格化」を主張。この年ベーレンスから独立。
*〈シャンゼリゼ劇場土地建物会社〉社長ガブリエル・トマ,ブールデルに〈シャンゼリゼ劇場〉のファサードのレリーフの案を依頼。

1911年

工芸学校に建築家教室を設立。
美術大学の建物が完成。
3月末,〈シャンゼリゼ劇場〉の設計案を再び提出する。
費用の削減のため,ヴァン・レイセルベルヒェを通じて劇場の仕事をペレ兄弟に持ちかける。
美術大学が開校。
〈アッベ記念堂〉の除幕式。
7月,オーギュスト・ペレの積極的な参加のために,〈シャンゼリゼ劇場〉の仕事から手を引く。
工芸学校の生徒作品の展覧会が開催される。
パリでガブリエレ・ダヌンツィオに会う。

*ドレスデンで〈ドイツ工作連盟〉第4回集会。
*ペレの〈シャンゼリゼ劇場〉の案が承認される。ブールデルに正式にレリーフ制作を依頼。

1912年

タッセル,オクターヴ・マウス,エミール・ヴァンデルヴェルデらがヴァン・ド・ヴェルドのベルギーでの活躍の場を見つけようと試みるが失敗に終わる。

*ウィーンで〈ドイツ工作連盟〉第5回集会。
*ヘンドリク・ペトルス・ベルラーへ,ワッセナールに建設予定のクロラ=ミューラ一家の美術館付き住宅の設計案を立てる(-1913年)。この設計はベーレンス,ミース・ファン・デル・ローエも試みたが,いずれの案も実現されなかった。

1913年

ドイツとベルギーの新聞に,50歳の誕生日を記念して回顧記事が掲載される。
〈シャンゼリゼ劇場〉が開かれる。
5月,ブリュッセルの〈新大学〉で現代の装飾芸術について一連の講演をする。
ケムニッツの〈ケルナー邸〉,ゲラの〈シューレンブルク邸〉他の住宅を設計する。
ケスラーが推進していた〈ニーチェ記念堂〉の計画が挫折。建築はヴァン・ド・ヴェルドが担当するはずであった。
冬から翌年にかけて〈ドイツ工作連盟〉の劇場の仕事にかかる。ヴァン・ド・ヴェルドに依頼するかどうかについて,工作連盟内で議論が行われた。

1914年

1月,エールフルト市がヴァン・ド・ヴェルドに美術館の設計を委任する。
6月,ケルンに〈ドイツ工作連盟〉の劇場が完成し,「ファウスト」公演で柿落し。
7月,工作連盟の第7回集会でムテジウスと規格化をめぐって論争となる。
7月,工芸学校長の辞職願いを大公に提出する。
10月,ドイツの新聞が,ヴァン・ド・ヴェルドが工芸学校長の職を辞したと報道する。
大戦が勃発し,ベルギー人であるために困難な状況に陥る。子供たちは危険を逃れるため,別々に引き取られる。毎日,警察への報告を義務づけられる。
ハーゲンに〈スプリンクマン邸〉を設計(完成は1915年)。

*ケルンで〈ドイツ工作連盟〉展開催。ワルター・グロピウスの《モデル工場》,ブルーノ・タウトの《ガラスの家》,ムテジウスの《色彩展示パヴイリオン》などが展示される。

1914年

1915年

『現代建築美の法則』の執筆にかかる。これとは別に,先史時代から現代までの線および抽象的線の装飾についての本も計画する。
7月,工芸学校が閉鎖される。
10月,工芸学校長の職を解雇される。

1916年

アメリカ移住を計画して,ニューヨークの芸術サークルと手紙をやりとりする。
エミール・ヴェルハーレンの死に強い衝撃を受ける。

1917年

ようやく旅券を手にいれ,家族を残したまま一人でスイスに向かう。
ベルンのユンケルガッセ37番地に住み,毎日〈カフェ・ドゥ・テアトル〉に通う。そこでアルザスの詩人で作家のルネ・シッケルと知り合う。
ボーデン湖畔のウットウィルに家を購入。そこに芸術家村を創ろうと構想する。
スイスに逃れてきていたロマン・ロランに接する。
ローザンヌで公使館員として活動していたオクターヴ・マウスに会う。
戦争で精神を病んだエルンスト・ルドヴィヒ・キルヒナーをダヴォスに訪ね,クロイツリンゲンのビンスワンガー博士のもとで治療を受けられるよう計らう。
その他,当時スイスに集まってきていたアンネット・コルブ,フェルッチョ・ブュソーニら,多くの人物に出合う。
ベルンでハリー・ケスラーと再会する。
ベルンで〈ドイツ工作連盟〉が展覧会を開くが,参加しない。

*ライデンで雑誌『デ・ステイル』創刊。
*ベルラーへ,クロラ=ミューラ一夫妻のためにホーヘ・フェルーエに再び美術館付き住宅の設計案を立てる(-1918年)が,最終的に却下される。

1917年

1918年

ベルンの〈フランス・スイス芸術サークル〉で講演をする。これに続いてチューリヒの文学の集まりでも講演する。この講演はルネ・シッケルによって〈ヨーロッパ文庫〉シリーズの一冊として出版される。
スイスに工房を開く構想を立てるが,挫折する。
家族がドイツ国外への旅行を許され,ウットウィルヘ来る。

1919年

3月,ベルギー人の画家で木版画家のマセレールに初めて会う。
敵対者たちがヴァン・ド・ヴェルドのベルギーへの帰国を妨害しようとする。
ドイツから7月31日付で財産差し押えの知らせを受ける。
10月,クロラ=ミューラー家からデン・ハーグで講演するように招待される。
10月,ワッセルナールでクロラ=ミューラー夫妻と初めて全う。夫妻の別荘のあるホーヘ・フェルーエを訪れる。
クロラ=ミューラー家の顧問,および夫妻の住宅とコレクションを収蔵する美術館の建築家として2年間の契約を結ぶ。

*ワイマールに美術学校と工芸学校を合併した〈バウハウス〉創設。グロピウスが 校長に就任。
*オランダで建築雑誌『ウェディンヘン』創刊。
*ベルラーへ,クロラ=ミューラー家との契約を解除する。

1920年

1月,デン・ハーグを訪れる。住宅と美術館の計画についてクロラ=ミューラー家と話し合う。当初は美術館を併設した住宅を構想する。
デン・ハーグのラング・ヴォールハウトに仕事部屋を移す。
ワッセナールのヘルトラーンに自邸〈デ・テント〉を設計(完成は1921年)。
当初の計画が変更され,住宅はワッセナールの砂丘近くの森林の豊かな地帯に,美術館はホーヘ・フェルーエの公園の中に建設する計画を進める。

1921年

クロラ=ミューラー家の住居となる〈フロート・ハーズブロック〉の模型ができる(工事は1925-30年)。
〈デ・デント〉に移る。
6月,美術館の基礎工事が開始される。
ホーエンデルローの住宅〈ド・ウィット・ラーフ〉を初め次々と仕事を手がける。

1921年

1922年

5月,株暴落のため,美術館の建設が中断される。この後1926年6月まで,費用の削減のために設計の変更などが続けられる。
ベルギーへの帰国についてベルギー政府と話し合う。

1923年

レフェビュールがアントワープのアカデミー校長にヴァン・ド・ヴェルドを立候補させようと尽力する。

*ワイマールで〈バウハウス展〉開催。

1924年

ブリュッセルで講演する。
チェコスロヴァキアで講演する。
バウハウスへの攻撃に対してグロピウスを擁護する。

*ワイマールの〈バウハウス〉閉鎖が決定。

1925年

芸術雑誌でヴァン・ド・ヴェルドをめぐって論争が新たに行われる。

*デッサウで〈バウハウス〉再開。

1926年

ホーヘ・フェルーエの美術館建設計画が中止される。
8月,ラーケンの国王のもとに呼ばれる。
10月,オランダでの義務から解放されるように正式に要請する。
11月,ブリュッセルに設立される〈装飾美術高等研究所(ラ・カンブル)〉の校長に任命される。
11月,ワッセナールからブリュッセルに移り住む。
ヴァン・ド・ヴェルドの帰国に対して新聞で議論が起こる。
クロイツリンゲンのビンスワンガー博士のもとに神経療養に行く。
ブリュッセルの画廊でクロラ=ミューラー美術館の設計図面の展覧会が開かれる。この時,アントワープのスヘルデ川左岸地区の都市計画の設計案も展示される。この計画は後に中止される。
12月,建築史の教授に任命されたゲント大学での講義が始まる。

*デッサウにグロピウス設計のバウハウス校舎完成。

1926年

1927年

〈装飾美術高等研究所〉が開校される。
テルヴューレンに自邸〈ラ・ヌーヴェル・メゾン〉を設計。
ハンブルク=ブランケンゼーに〈シンケル邸〉を設計。

1928年

ハンブルクで講演。

*スイスのラ・サラで〈 CUAM(現代建築家国際会議〉〉設立。
*グロピウス,〈バウハウス〉校長を退く。後任にハンネス・マイアー。
*〈クロラ=ミュラー財団〉設立。

1929年

ハノーヴァーの老人ホームを設計。
ドイツ各地で講演。

1930年

〈フロート・ハーズブロック〉が完成。
ブリュッセルの〈ウォルフェルス邸〉を設計。
*ブリュッセルで〈CIAM〉第3回会議開催。

1931年

ブリュッセルの〈パレ・デ・ボザール〉で,〈装飾美術高等研究所〉の生徒の初めての展覧会が開かれる。

*デッサウの〈バウハウス〉閉鎖決定。

1933年

ウックルにグレゴワール教授の住宅を設計。
ブリュッセルの〈パレ・デ・ボザール〉で,70歳の誕生日が公式に祝われる。この時の彼の講演は『ヴォワ・サクレ』として出版される。
〈ベルギー鉄道〉の客車と郵便船の内装を設計。

*ベルリンで再興を試みた〈バウハウス〉も最終的に閉鎖。
*〈ドイツ建築家同盟〉,〈ドイツ工作連盟〉は改組され,指導権はナチスが握る。

1934年

*ドイツの急進的な建築家の移住,亡命が始まる。
*〈ドイツ工作連盟〉解散。

1935年

国王レオポルド3世の執務室を設計。

*5年以内に美術館を建設することを条件に,ホーヘ・フェルーエの公園とクロラ=ミュラー家の美術コレクションが国に譲渡される。

1936年

8月,〈装飾美術高等研究所〉の職を辞す。ヘルマン・ティルリンクが後任者となる。
ゲント大学の教授を退官する。
大臣の顧問となる。
〈ゲント大学図書館〉を設計。

*ニコラス・ペヴスナー,『モダン・デザインの展開』刊行。

1936年

1937年

5月,オッテルローのクロラ=ミューラー財団が建設費用を負担することになり,ヴァン・ド・ヴェルドの設計案にしたがって,美術館の基礎工事が開始される。
パリ万国博覧会への参加に際し,技術委員長に就任。エッヒェリックス,ラファエル・ヴェルウィルヘンの二人の建築家と協力してベルギー館を設計する。

*「現代生活における美術と工芸」をテーマにパリ万国博覧会開催。
*グロピウス,モホリ・ナジ,ファイニンガーら,バウハウスの芸術家が次々にアメリカ亡命。
*モホリ・ナジはシカゴに〈ニュー・バウハウス〉創設。

1938年

7月,大幅に規模を縮小してオッテルローの〈クロラ=ミューラー美術館〉が開館。
ニューヨーク万国博覧会への参加に際し,芸術委員長に就任。ヴィクトル・ブルジョワ,レオン・スタイネンの二人の建築家と協力してパヴィリオンの建築を指揮する。

1939-40年

万国博覧会のためにニューヨークに滞在。

1941年

*ジークフリート・ギーディオン,『空間・時間・建築』刊行。

1942-44年

〈クロラ=ミューラー美術館〉の増築のためにオランダをたぴたび訪れる。

1943年

占領中に妻マリアが死去。

1947年

スイスに移り住む。
回想録の執筆を開始。

1953年

完成間近の〈クロラ=ミューラ一美術館〉を訪れる。

1957年

10月25日,チューリヒにて死去。

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