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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1984 > 1909-10年の自画像 山口泰弘 中村彝展図録  1984

1909-10年の自画像

山口泰弘

中村彝は,1909─10年頃集中的に自画像を描いている。本稿では,このころ彝が精力的に制作に打ち込んだレンブラント風の自画像の,彝の画風展開史上における位置について私見を述べてみたい。

 1909年2月10日,東京市内大久保百人町から北豊島郡田端村日暮里に移居している。6月,第7回太平洋画会展に,「自画像」を出品した。この年初めて設けられた奨励賞を受賞した作品である。「会員外の出品で奨励賞の月桂冠を得た作である。鹿子木氏などに能くあるクラシック風の画で,衣服と背景との深黒裡から血色の好い顔が出て居る。沈静な画趣の裡に人間らしい情緒のほのめいて居るのが,ひどく観者の興を牽いた。ただ憂ふべきは此の種の画が,亦た動もすれば形式を逐はんとする奇険に臨めることである。」という匿名評を「美術新報」上で得ている。評者は,この作品を鹿子木孟郎風と称しているが,“衣服と背景との深黒裡から血色の好い顔が出て居る”という評言から窺える画景はしかし,鹿子木のローランスに学んだクラシシズムからは遠い。むしろ,この評言は当時さかんに彝が描いていて今日レンブラント風と評される,深暗な背景と黒い衣服のなかに極端に明るいトーンで浮かびあがった画景をもつ一連の作品に近いものを指して記しているとみたほうがよさそうである。

 ドイツで発行されたレンブラント画集を買ったのは,この年である。「明治四拾二年の頃であつたらうと思ふ,中村君は,丸善の書棚に,一冊のレンブラントの本を見出した。その本は独逸で発行されたもので,殆んどレンブラントの作品の全部が,網羅されて居るだらうと思はれる程,沢山の絵が集められて居つた。彼は此の本を見て非常に興奮した。彼は今迄に,こんなに沢山のレンブラントの絵を見た事がなかつた」(中原悌二郎・「中央美術」第62号・大正9年)。彝は,8円の大金を叩いてこの画集を買う。「当時中村君は,此の本を持つて喜び輝いて居るやうに見えた。そして中村君は,彼れ一流の執拗さを以て,レンブラントに関する,あらゆる智識を此の写真版のうちから,会得しようと思って,その本が手垢で黒くなる樫,くり返し,これを見つめた。」(同上)と,知己の中原悌二郎は彝の熱中振りを回想している。レンブラントに対する憧憬は,この年以前から彝のなかに既に,胎し,成長し続けていたのだろう。

 翌年6月2日,同じ日暮里の晩翠館二階に居を移している。午前中は太平洋画会研究所に出,午後は自室で自画像や静物を描いていた。そこでの生活は,戸張孤雁によると,「居室は北側のズッと奥まつた最後から一つ手前だつたと記憶して居る。或は端れであつたらうか,畳は四畳半で,窓は所謂肱かけの一方口であり,其の硝子戸は極粗末なペンキ塗のもので,其所にいつも一尺に一尺五寸程の薄手の硝子の,処々禿げた椽なしの裸鏡,其の一角が三四寸程斜にかけて居るのが立てかけてあつて,其の前の机の上には,多分描きかけでもあつたらう,静物の果物や器物が載つて居た。其他の所有物も,かけ鏡と相当に極めて簡単なもので,普通の貧書生の下宿生活と思へは大差はない。」(「木星」第2巻第2号・大正14年)といったものだったようである。この年10月の第4回文展に「海辺の村(白壁の家)」とともに「自画像」が入選している。

 後年彝は,この頃の制作について,福田久道宛の書簡のなかで回想している。それによると,当時画壇を支配していたローランス流の中村不折の古典主義的な形体表現やコランの流れを汲む白馬会系の耽美的な色彩に自分の自然観とのあいだの距離を感じ,むしろレンブラントのなかに「自己」を見出し,その「カ」を発見することができた,と述べ,続けて,レンブラントのなかにさらに「卑近なる自然と細部とを,愛と優れた描写のカを以て描き表はす時,全てが驚くべき『美』と『魅力』と『神秘』とに輝く」のを認め,「そこに自己の行くべき真の道がある事を自覚」した。そして「そこに初めて,自分の平凡極まる『ありのまゝ』の顔の中に俸大なる芸術ある事」を信じ,「学校から帰つて来ると何時も鏡を前にして,夜遅くまで描き耽つて倦むことを知らなかつた。」と語っている。

 また,「しかもその太陽の光も亦単なる光ではなかつたのである。その光の中に生命を見ると共に,その明暗の中に生命のあらゆる姿を見て居た彼(註:レンブラントを指す)は,人間のあらゆる苦悩と歓喜と悲哀とが,無限の空間を通して,この光の中に常に明暗するものを視ずには居られなかつたのである。かくして彼は己れの心霊が太陽と共に万有を貫き,地上を支配しつゝ,一切の宿命を打破しつゝ,常に新たなる創造をなしつつあるのを見たのである。」とやはり彝自身が語っている。1909─10年に集中して描いた自画像は,ありのままの何の変哲もない自分の顔が“太陽の光”を照射することによって平凡な現実を飛び越えて悠遠な生命感と一致すべきものに止揚される,という彝のレンブラント観を自作の上で実践しようとする試みにほかならなかったと一般に考えられている。

 1911年の「麦藁帽子の自画像」は前年の自画像の揺り返しともいえる対極的な作風を示しているが,後年の作風を考え合せるとやはり独自の様式感は持ちあわせていない。しかし,翌1912年の「自画像」(キャンヴァス・油彩 45.5×38.0cm)になると事情は変わるようだ。

 1909─10年の自画像の明暗の調子はここでは弱くなっているが,やはり生きつづけている。しかし,画面全体がはるかに明るくなると同時に筆触がぼってりとした重さから放たれ,かろやかに動きはじめている。色彩をおもいきって抑制し明暗の対比のなかに顔貌を浮出すると同時に,薄く溶かした絵具をしなやかな筆触にのせて重ねることによって全体の量感を表現するという,前年のレンブラント的要素に新たにルノワール的要素を融かし込んで異なる境地を拓いている。そしてなによりも,自画像表現としての視覚的な写照性の高さだけではない,もう少し内面にまで掘り下げた画面感情の深さを,この作品ははじめて感じさせるのである。この作品で彝が掴んだ表現技法と的確な観照カは,1916年の「自画像」(キャンヴァス・油彩 44.5×37.0cm)や自画像と同じ年に描かれた彝の人物像の代表作「田中館博士の肖像」(キャンヴァス・油彩 72.3×60.5cm 東京国立近代美術館蔵)とで様式的な完成をみることになる。こうした意味で,1912年の「自画像」は,彝が自画像分野での芸術的完成にいたる,表現様式と画面感情の探さの両面での初発例とみなすことができるのである。

 レンブラント風の自画像は,繰り返し記してきたように1909─10年に集中的に描かれ,様式年代を明確にすることができる。1909─10年というと彝22─23歳の年に当たり,そのころ彝はいまだ太平洋画会研究所に通ういわば修業中の身である。それ以前の彝は,19歳の春に本郷菊坂の白馬会研究所に入り,秋に溜池の同会研究所に移り黒田清輝の指導を受けるが,その指導に不満を感じ,中原悌二郎を追って翌年太平洋画会研究所に移っている。白馬会の活動は当時すでにピークを過ぎで惰性に陥り,芸術的創造性を欠いていた。それに対して太平洋画会は,フランスから帰国した中村不折が古典主義的で堅実な画風を新たに伝えて活気づいていた。しかし,彝は,そのいずれにも自分の拠所をみつけることはできなかったようだ。“午前中は研究所辺に通い,午後は自室で自画像に没頭した”という二足のわらじを履いたこのころの彝は,既存の画派に満たされないものを感じまた何かしら新しいものを模索していながらいまだ身の置き所を探しあてえないという揺動期にあったとみることができる。彝が自画像において拠って立ったレンブラントは,白馬会糸の耽美的な情調や中村不折の古典主義的な形体感とはむしろ対極に立つ様式を備えている。この,レンブラントに彝がとびついた事実は,おそらく以前欠落していたものを充足してくれる何かをそこに見出したからだと考えられる。しかし,この対極から対極への超飛はいささか暴走気味だったようだ。この暴走を抑制する動きはすぐ現れる。

 繰り返し記すようにレンブラント風の自画像は1909─10年に集中する,というよりこの年以降バタッと現れなくなる。

 1912年の「自画像」は,このレンブラントにルノワールに学んだものをほどよく溶かしあわせて中和することによって彝独自の世界への第一歩を切り開いた作品である。1909─10年のレンブラント風自画像は,つまり,揺動期のリアクションとして現れ,たちまちのうちに抑制を受け,この作品のなかに止揚されたとみることができるのである。

 実際,1909─10年の自画像は,画面感情の深さにおいて,後年の,たとえば1916年の「自画像」などとは較ぶべくもなく,また,レンブラントに見出したと彝が声高に語る悠遠な生命感も,はたしてそこに蔵されているかというと必ずしも首肯しがたい。しかし,彝の後年の画風分析を試みるとき,極めて重要な要素をひとつ提供しているということができる。


(三重県立美術館学芸員)

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