萬鐵五郎-その生と芸術
陰里鉄郎
明治18年に生まれた萬鐵五郎は,歿後半世紀を経てことし生誕百年を迎えた。分野は異なるが詩人の北原白秋,若山牧水もまたそうであり,同郷の詩人石川啄木も同じく生誕百年を迎える。同郷であったとはいえ萬鐵五郎と石川啄木とは直接にはなんの関係もなく,共通の友人(小田島孤舟)をもったにすぎなかった。そして啄木は,明治期の詩人としてわれわれに印象づけられているのに対して,萬は大正期の画家という以外には時代を冠する呼び方はないであろう。
事実,啄木は明治45年(1912)4月に歿しており(享年27),その創作活動はすべて明治期に属するが,啄木が残したそのときが萬が真正に画家として出発したときであった。萬が自己の生涯の芸術活動を予告するかのように呈示した最初の大作「裸体美人」を発表したのが啄木の死の前後であった。そして萬は,啄木と同じく肺患によって昭和2年(1927)に死去している。その間,大正年間の全期が萬の制作活動の全期間であった。
鉄五郎が使った一冊の粗末なノートが残されている。そのなかには制作の合い間に,思いつくままに記しとどめた手記や原稿の下書き,メモが書きこまれている。そこには, 僕によって野蕃人が歩行を始めた。吾々は全く無智でい い。見えるものを見,きこえるものを聞き,食えるものを 食え,歩て眠り描けばいいのである。‥‥‥
僕は人類という事を,かつて考えた事がない。僕は常に 僕の生活を考える。それは虚無の中の一つの球体が絶えず 焼燃し,絶えず発散する光景を以て考える。自己の生活は 凡ての物の中心で,其の他一切の総てのものは誠に幽霊に 過ぎないのではないか。──僕は何等の信条もなく,主義も形式もなく,唯ゝやろうと企てる神秘な力によって凡てをなすが企ての通りに行くものでもない。そこから少しばかりちがった別の企てが表われてくる。そして無限に連続する。僕のやるものはどこ迄も仕上らない。──おれは暗いこんとんだ。
自然に対する反逆,理由なき反逆。
こうした言葉が無数に書かれている。これらを読んでいると,萬の土沢時代以降の乾ききった,微塵も湿り気のない画面が浮かび上ってくる。そこには優しく美しい叙情や甘美な感情のかけらもなく,それでいて詩的な画面である。そのような作品を明治絵画に求めることはできないし,昭和期にも容易に発見できない。
萬の芸術をみていくことは,大正期絵画のすべてをたどることには必ずしもならないが,その一つの側面,しかも歴史的に,そして質的に重要な側面をみていくことになるであろう。なぜなら萬の芸術は彼に前衛志向の積極的な意志があったかどうかにかかわらず,萬の言葉で言えば「ただただやろうとする神秘な力によって」なす企てと結果は,期せずして彼を時代の尖端におもむかしめていたからである。彼の作品をたどることによってそれはいっそう明らかになるように,萬は自己凝視・自己検証によって人間的な詩と論理を深化させ,内発的に時代の造型をさぐりだしていたからである。フォーヴィスムやキュービスムのような20世紀ヨーロッパ美術と,江戸文人画(南画)や琳派(りんぱ)のような日本絵画の伝統が萬を烈しく刺激し,触発し,また鼓舞(こぶ)したに違いないが,固定化することを拒否した萬はこれらと対決し,ときに挫折しながらも創造の主体となる自己を失うことがなかった。
萬の芸術展開は,ほぼ三つの時期に区分されるが,その第一はフュウザン会前後の時期で,いわばフォーヴィスム時代であり,ついで第二は,郷里土沢滞留と再度上京して二科,院展に主要な作品を発表した時期で,執拗な自己凝視と制作に専念した土沢沈潜期に静かに胎動してきて,「もたれて立つ人」においてその頂点を形づくるキューピスム時代,それから茅ヶ崎転居から死までの第三の時期は,南画研究から得た独得の人間的リズムを画面にみせてくる,いわば南画時代である。
萬鉄五郎は明治18年(1885)11月17日,岩手県東和賀郡十二ケ村(のち十二鏑村,さらに現在は和賀郡東和町土沢)117番戸に生まれている。当時の呼び方で言えば,陸中国土沢である。この土沢という地は,東北本線の花巻市から東へ向かい,遠野を経て釜石にいたる街道筋にあり,花巻から約13キロ,遠野とのほぼ中間の,周囲を小高い山に囲まれた小さな盆地のなかにあって,その盆地の南寄りには,やがて北上川に合流する猿ケ石川が流れ,街並みは北側の丘に沿って東西に長くつらなっている。かつては陸中海岸と奥羽の内陸とを結ぶ街道の中継点のひとつであったのであろう。柳田国男は明治42年8月に初めて遠野へ旅行しているが,『遠野物語』の序文のなかでつぎのようにかいている。
花巻から遠野まで十余里あり,その途中には町場が三ケ所ある。そのほかは山と原だ。人煙の稀少なることは北海道石狩平野より甚だしい。
土沢は柳田のいう町場のひとつであったろう。萬はこの地の素封家の分家に生まれ,早くに実母を喪ったとはいえ,祖父と伯母のいつくしみのなかで幸福な少年時代を過したに違いない。多くの画家の生い立ちと同様に,萬もまた,幼少年時代から絵を好み,それはいまもなお,伝説のように語り伝えられている。幼少年時代の郷里もさることながら,萬にとって郷里は,大正3年(1914)に妻子を伴っていったん帰郷し,約1年半をこの地に過したときがいっそう意味深いものがあったように思われる。何故なら,そのとき萬はすでに近代的視覚を獲得した画家の視線であらためてこの草深く,暗い東北の風土と自然を視界におさめ,同時に自己検証を行なったからである。それは,「木の間風景」「木の開から見下した町」,そして「木蔭の村」といった作品の画面に典型的に示されている。これらの画面を語ることはしばらくおいて,萬の画家としての,人間としての形成過程を述べなければならない。
萬はのちに,雑誌に求められるままにいくつかの随筆を書いているが,そのひとつ,「水彩画と自分」につぎのように記している。
僕が水絵を習い始めたのは随分昔の事です。初めは日本画を習って居た。山水などもかなり模写したように覚えている。はっきり覚えないが17位の時と思う。或る新聞に『水彩画の栞(しおり)』という本の広告があったので早速買って読んでみた。何んだかその時非常に清新とでもいう様なそそられる様な感じを受けた。そして自分にも直ぐ水彩画が描ける様な気持ちになってその時までやって居た日本画が急につまらなく思われる様になったと思う。
この回想に明らかなように,まず初めに日本画を習っていた。当時の日本画学習を示す唯一の例は,「応翠(おうすい)先生筆 山水画譜」という粉本の模写一冊である。その末尾には,
明治三十二年の夏蝉なく木の下にて写す
よろず 萬鐵五郎
と書き入れてあり,高等4年,14歳の夏であることが知られる。
応翠というのは明治初年に東京浅草に住んでいた画家,浅井応翠で,『山水画譜』のほかにも粉本を出版しているが,萬は丹念に模写し,従来どおりの画の勉強の仕方にしたがっていたと思われる。
こうしたときに,大下藤次郎(おおしたとうじろう)著『水彩画の栞』を知り,水彩画によって「非常に清新な」情感をそそられ,新しい世界へと導かれている。この大下の水彩画の入門指導書は明治34年6月に初版が発行されており(発行所・新声社),文庫本大の小書ではあるが反響をよび版をかさねた本で,鴎外森林太郎(おおがいもりりんたろう)がこれに題言をよせており,そのなかに,「誰か善く比書を読みて一旦撃縛を脱離し闖然として作者の林に入るべき」という一節がある。思えば,萬は鴎外の言葉どおりの道を歩くことになったのである。
これは萬における最初の絵画開限であった。明治30年代後半は,極端にいえば水彩画時代と呼びうるような時期であった。それはようやく上昇と安定の期に入った明治市民のとりわけ青少年,婦人層の趣味生活のなかにささやかな西欧的近代をもちこむことになったのであるが,北国の少年萬にも「清新」に新しい世界を啓示することになった。
萬は,やがて上京し早稲田中学に入り,真野紀太郎に水彩画の指導をうけ,かたわら,本郷菊坂の白馬会洋画研究所へ通い,長原孝太郎の指導をうけることになった。以後,萬が「裸体美人」をもって個性的な,明快で新鮮に,画家として出発をかざり,ゆるぎない強靱な個性と,烈しい造型心理と様式の振幅をみせた生涯を回想するとき,萬の自己形成に複雑微妙なかげを投げかけているのは,中学時代の参禪経験と明治39年(1906)のアメリカ体験である。
萬はこのふたつの事についてはのちになっても何も語っていないが,すこし触れておかねばならない。
萬が谷中の草堂に参禪し,臨済宗円覚寺沢の禪の集団と関係をもっていたのは,美術学校入学以前,アメリカ滞在までのことで,20歳前後の時期であって,この時期に萬が東洋思想の深をきわめ,東洋的なものとの対決を果したとはとうていいえないが,繹堂においては中国元代の画家俣雲林と江戸文人画家池大雅の別号九霞山樵(くかさんしょう)からとって雲樵居士(うんしょうこじ)と称したことがうかがえるように,東洋絵画への傾斜と関心も相当深くあり,禪と絵画がこの時期の萬の思考の軸となっていたであろうことが想像される。
萬の渡米は禪堂の一派とともに輟翁宗活(てつおうそうかつ)禅師に率いられた開拓と伝道の集団へ参加したもので,参禪生活の延長上にあり,滞米期間は正確にはわからないが,明治39年(1906)年5月に離日したとしても同年12月には帰国しており,半年にも満たない短いものであった。集団の伝道計画の破産から惚忙(こうぼう)とした帰国であったが,異国体験と辛苦の生活経験は,その後の萬の生活態度と現実への対応の仕方に重要な基礎を与えたように思われる。萬の作品にたえず現われくるアイロニー,ユーモア,どこか喜劇的な相貌は,こうした青春期の経験と省察に基づいた内面的生活形成に源泉のひとつがあったと考えていいであろう。生活上の貧苦や精神的苦悩にも徹底してたじろがず,自己と周囲の現実を客観化する冷徹な心情が培かわれたことに起因しているのである。
第一の時期
大正14年(1925)に萬は「私の履歴書」という回想の一文を書き残しているが,そのなかで次のように述べている。
この10年間は別に楽しみを感じたという様なこともなく過ぎた気がする。苦楽10年にあらず正に苦10年に相当している。さかのぼって面白かったのは美術学校の5年間であった。この5年間丈がぽっかり陽があたっているという様な感じである。
萬の生活のなかで,「ぽっかりと陽があたって」いた5年間は,明治最末期に相当する。この時期が近代文芸思潮の上で多彩な変革のときであったことは贅言(ぜいげん)を要しないであろうが,雑誌「方寸」が創刊(明治40)され「明星」が終刊となり「スバル」が創刊(明治41),ついで「白樺」「三田文学」「新思潮(第二次)」(明治43)が相ついで現われる。自然主義文学が最盛期をむかえ,一方には「パンの会」のように,詩人,文学者,画家が新芸術運動へのために交友し,浪漫主義的風潮もたかまりをみせていた。
美術界においては,明治権力体制による美術支配を意味する文展が創設(明治41・1907)され,この官展の主流にくりこまれることによって白馬会は自然消滅をとげている。こうして美術界は一大統合を遂げたかにみえるが,前期「白樺」をはじめとする新興文芸誌は,同時代西洋美術を積極的に紹介し,官展公認となった黒田清輝以来の折衷的外光的手法と低俗的な主題にあきたりない憤懣をいだいていた青年作家たちに多大な刺激を与えることになった。明治42年(1909)7月にヨーロッパ滞在をおえて帰国した高村光太郎は,翌年の「スバル」誌上に,印象派宣言ともいわれ,芸術においては個性に無限の権威のあることを主張する「緑の太陽」の一文を発表し,青年作家たちに大きな影響をおよぼしたが,高村と前後して斎藤与里,有島生馬,南薫造,荻原守衛が,ヨーロッパにおいて本格的印象派,後期印象派の洗礼をうけて帰国し,清新な気風を画壇にもたらした。さらにいえば,明治43年(1910)の幸徳秋水らの大逆事件が知識人の多くに強い衝撃を与え,明治という時代が栄光とともに終末をとげて別の時代が始まろうとしていたことを背景としている。というのは,「パンの会」にみられるような頽唐派にも,強権の存在とその抑制的な社会秩序に対しての叛逆的要素が含まれており,その芸術至上の考え方には,明確に形をとらなかったとしてもアナーキーで虚無的な風潮を底流としてもっているように思われるからである。
萬のこの5年間は,こうした動向のなかに過されていったに違いない。彼の作品に即していえば,白馬会風の平明な外光描写から脱して後期印象派的なものへと移行するが,その間に注目をひくのは,卒業の前年,同級の平井為成,山下鉄之輔,日本画の広島光甫らとアブサント会を結成,展覧会を開催し,この会場にその2ヶ月前に九州で死去した青木繁の遺作,自画像を含む2点をも陳列したことである。青木の芸術と人間,その悲劇と才能に対して萬たち青年作家がどのような親和の感情をいだいていたかは,その遺作を自作と並べて展示したことのなかに示されているように思われる。ともあれ,萬は卒業制作「裸体美人」において明快な出発を飾る。それは自ら語るように(「私の履歴書」),ゴッホやマティスに導びかれたものではあるが,それを大きく吸いこみながらすでに自己を前面に押しだしている。草上に赤い腰巻をして寝ころぶ裸婦,草の緑と腰巻のあの鮮烈な色彩対比をもつ作品であり,日本におけるフォーヴィスムの先駆的な,最初の作品である。
この美術学校卒業の年にフュウザン会が結成され,萬もこれに参加することになるが,フュウザン会は大正期美術運動の最初の烽火(ほうか)であり,2回展をもって分解してしまったが後期印象派,フォーヴィスムの最初の集団として,画期的な役割をもった。萬にとっては,「煙突のある風景」にみられるように大胆なフォーヴィスムの実験の場であり,また「日傘の裸婦」のように,様式の背後に絵画的真実を探索する試みをみせたときであった。「日傘の裸婦」について石井柏亭は,「日本の女の不格好な裸体の偽らずに写された点を善しとする。格別のカラー・スキームがあるのではなく,傘をささせたりなどしたのは徒らに奇を好むやうで面白くない」(雑誌「芸術」1号)と批評しているが,確かに裸婦と日傘の組み合せは奇想といえようが,鍋井克之が伝えるところによると,「ある時学校の内外にまで評判になったのは,裸体で日傘をさしている図であった。私も上級のその教室へ見物に行ったのであるが,なるほどはだかで腰かけたモデル女が,赤い模様の日傘を肩にもたせているのには,まづ奇怪の感がしたが,その中にも何か自然にほほえましゐ気もして来た。萬の発案に皆がついて行ったのであるが,結果はどうしても発案者のものにならざるを得ないのが当然である。」ということで,この着想は美術学校時代のアトリエに始まっている。鍋井の証言のみならず,現在残されている萬の学生時代の木炭デッサンには,学校帰りの女学生群像,単身像と数多くの日傘をさした婦人像の習作があり,日傘と婦人像の組合せは萬の構図計画のなかにあったと想像される。このとき,萬はフランス印象派の画家たちのように,光の顫動する織細な反映をよろこんだのであろうが,同時に柏亭が指摘したように,日本婦人の裸体像の真実をも赤裸に描きだしてみせたのであった。その意味で最も日本的な裸婦像のひとつといえよう。パラソルと婦人の組合せはフランス印象派の作例からきているとしても,もうひとつのピントは木炭デッサンにみられた街頭の女学生群像にあり,そして後年の作品「水着姿」(昭和2年・1919)年に再び現われるように,萬の絵画構成のひとつの原型となっていたものである。
北海道旭川での兵役─第2回フュウザン会の時期(大正2年3月)に萬は3ヶ月だけ兵役に服した―をおえて帰京した萬は小林徳三郎や斎藤与里らと島村抱月の芸術座の第一回公演の手伝いにあたっている。小林徳三郎の伝えるところによると萬は小林とともにメーテルリンク作・島村訳「モンナ・ヴァンナ」の舞台装置とポスターを制作しており,それが好評であったという。当時,電車内用ポスターを画家が担当する例はきわめて稀であったが,萬の意匠は表現主義的な斬新なデザインであった。「モンナ・ヴァンナ」はイタリアの都市,ピサを舞台にし,都市の存亡をかけた,一女性をめぐっての愛の物語りで,その舞台装置の背景は有名な斜塔を中心としたピサの市街が描かれていた。萬のポスターは,油彩画「ガス燈」と共通する表現主義的デザインであった。そして,萬はこの芸術座に関連した木版をもつくっている。しかし,こうしたことも萬を満足させえない。しだいに「制作にうえる事になった」(「私の履歴書」)という。この制作に対する飢餓感の簡潔な告白は,彼が創作に対していかに強い本能的な欲求をもっていたかを物語っていて,溢れる才能を放出できない周囲の条件,ずっと続くそれを許容しえない社会を思うとき,就くわれわれを打つものがある。
第二の時期
萬は大正3年(1914)夏から郷里の陸中土沢へ移住し,沈潜の生活をおくることになる。「この時は随分勉強した。何も見も聞きもしない。二科会も始まった様であったがそんなものを見たいとも思わなかった。秋から冬,春から夏という風にどんどん描いたものである」(「私の履歴書」)といったひたすらな精進の日々であったようだ。「ぼくは眼を開けているときは即ち絵をかいている時だ」と友人小林徳三郎や小田島孤舟への手紙にあったという。美術の動向や外からの刺激をいっさい断って,隔絶した状況に身を沈めることによって萬は静かに変貌をとげていくことになる。萬はこのとき,「今は自分にとって最も大切な期間になっている」(「七光会に出した絵其他」)を充分に自覚していた。そして再上京までの約1年半の間に,多くの自画像と静物画,また風景画の作品が制作されているが,これらの作品について後に小林徳三郎は,「前と異って黒っぽい,渋い色で,鬼気を感じるやうなものであった。萬君の不思議な内生活がむき出しに出てゐるやうなものだ。ぞっとするやうに厳粛で,それが又横着らしくも見えた。このときのものは,僕には一番尊いもののやうに思はれる。」と書いている。フュウザン会前後の鮮烈な色彩対比,多彩な色調の画面とはうって変って,青,緑,褐色に暗く,冷たく沈んだ色調の画面となり,レ形態表現は対象の執拗な追求によってなかば解体されたような表現となっている。萬がピカソやブラックのキューピスムの作品を図版によって知っていたか否かは詳らかではないが,明暗は面に還元されてレリーフ的な・\現となっており,萬のなかでキュービスムの造型思考が静かに,しかも烈しく胎動していたことを示している。こうした変貌は「雲のある自画像」とこの時期の「自画像」だけを比べてみるだけでも明らかである。この時期の「自画像」シリーズを以前の自画像と比較するとき,萬の孤独な闘いの様相をうかがい知ることができるよう。
色彩のポリクロームの放棄は,光によってできる明暗の印象派的処理の放棄であり,さらにフォーヴィスム的絵画思考の一時的な放棄であった。フュウザン会時代の自画像シリーズがフォーヴィムスの大胆な実験であったとすれば,土沢時代のそれはキューピスムの実験であった。萬がキュービスムについての知識をこのころに,何によって,どの程度にもっていたかはわからないが,印象派的な光の明暗による立体表現を否定して,浮彫り的な面に還元された明暗の面によって形態が表現されている自画像の画面をみるとき,「ピカソのニグロ時代(1907~09)の性格が見られる」(土方定一)し,また,陰鬱な東北の風土のなかに沈潜している萬の創造への衝動が静かにうごめいて,深く土着した思考と心理の反映をそこにみることができるように思われる。萬はのちに,「顔の研究」と題した作品を発表するが,これらの自画像シリーズをたどると,あえて〈研究〉と呼ぶように,冷静で,合理的な実験を試みていたのであろう。静物や風景においてもその間の事情は大差はない。
同時期の画困になると考えられる風景「雪の景」について,石井鶴三は「直接,人の魂にぶつかるような絵だ」(「みづゑ」大正8年10月号)と書いているが,再上京期をも含めてこの時代の萬の画面のすべてが,彼の内面の赤裸々な表白であった。
土沢時代の萬の実験,追求は苦悩に満ちたものであったに違いない。そして,そうしたなかで萬は自己特有の形をいっそう明確に把握し,かたちづくっていったようである。
大正5年(1916)1月,1年半にわたって描きためた作品を携えて上京した萬は,5月に小石川区西原町(文京区千石)に落ち着くまでに,上野楼木町・小石川宮下町,同じく原町の借家を転々と転居した。落ち着いた萬は早速に肖像画の画会をおこしたりしているが,どの程度の注文があったものかまったくわからない。
ところで萬は,郷里で描いた作品の「その大部分は大正5年頃日本美術家協会で発表し,一部は旧の院展洋画部に出品した」(「履歴書」)と書いているが,萬が日本美術家協会展に出品したのは,翌年の同会第2回展であった。この会は,斎藤与里・川上凉花・川村信雄・硲伊之助(はざまいのすけ)・斎藤五百枝(いおえ)ら旧フュウザン会の一部会員を含む集団で,研究的な団体であったようだ。設立は確かに大正5年4月であったが,萬が同月の第1回展に参加した形跡はない。
第2回展は大正6年5月に上野竹の台において開催され,萬は27点を出品した。このときの目録が残されていないのでその全容はわからないが,雑誌「中央美術」の月評欄によれば,
萬鉄五郎氏の画には大分旧作も交って居た様だが素質の面白い処は充分に感じられる。容するに其の思い切った所がいいのである。茶器を取扱った静物の思い切り暗渋を極めながら,而も或る節奏(リズム)の掬す可きものがある。数ある風景のうちにも美処は発見される。ただ,此道がこれから先どういう風に進展するか疑問である。旧フューザン会の達のなかで岸田・木村・硲等の諸氏が皆別方向に向った今日氏に於いて独りフォーヴを見出すのも面白い。
と記されており,茶器などを題材とした静物と風景が出品されていたことがわかる。
大正6年の第4回院展洋画部に出した「雪の朝」「夏の真昼」「池」「裸体」の4点のうち風景3点が土沢時代の作品であろう。これらの作品は′「少し無気味な感じをさえこの時の作は与えるようだ。然し(中略)この時のものは,ものの実相を直言したもので,きれいもきたないもないのである。只怖い真実があるのみだ」(小林「萬鉄五郎君の遺作室記録」)と具眼の友人を驚嘆させているが,一般の反響はほとんどなかったようである。
これに対して,第4回二科展に出品した「もたれて立つ人」の評判は大きかった。小林は「之を解らない人もあったが,二科の中で堂々たる異彩であった。萬君は此大作によって製作慾も充たしたろうが,又彼が画壇に出ると云う意慾も相当に充たしたものらしかった。彼はそう云う事を私に話していた。」という。この年の二科展は,山脇信徳の分類によれば,セザンヌの画風,立体派および未来派の画風,草土社の画風に分けられるという。草土社風は,岸田劉生(きしだりゅうせい)・椿貞雄(つばきさだお)らが出品し,岸田は「初夏の小路」によって二科賞を受け,樗牛賞は林倭衛(しずえ)の「小笠原風景」に与えられたが,世評の的になったのは佐藤春夫・東郷青児,そして萬の作品であった。東郷は前年の「パラソルさせる女」,佐藤は「猫と女との昼」に引き続く出品であったが,東郷の「狂ほしき自我の跳躍」と萬の「もたれて立つ人」がとりわけ賛否両面から注目をひいた。しかし,山脇がほぼ正確に東郷や神原泰・早藤孟史郎らの未来派風の作品と区別して,佐藤と萬のものを立体派の作品としたように,萬の2点は土沢時代の孤独な研究の成果にたった大作であり,「もたれて立つ人」は今日では日本におけるキューピスムの最初の記念碑的な作品として評価をうけている。
大正7年には第5回院展にだけ「静物」1点を出品した。前年の二科出品の静物が「筆立のある静物」として区別されている静物であれば,これは「薬罐と茶道具のある静物」で知られている作品である。山脇は次のように書いてある。
茶碗が皆摘まんだ様に横にのめっていて徳利?の口が飴のように滑かに歪んで畸形な瓢箪形にねじれていたり,又正面図の薬缶に平面図の蓋がのっかって今にも辷り落ち相なものも頗る真面目なおかしみである。素朴な感じが見ていてよい気持ちになる。下隅にある朱色の円型の正体は何んであるか知らないが色調の上から見て茶褐色の暗中紅一点で画面の緊縮には重大な役目を果している。ここに新しき静物画の一種が生まれた事をよろこぶ。(「中央美術」10月号)
これ以上の説明は不必要であろう。ただ,先にみた土沢時代の作品で日本美術協会第2回展に出品された茶器などの静物シリーズ,そして「筆立のある静物」という展開をたどって,ここに「新しい静物画」と呼ばれている萬特有の素朴でしかもコミカルな静物画に達したことを指摘するにとどめておきたい。再上京後のいわば第2東京時代は,このように土沢時代の研究の成果として結実しており,一言でいえば,それはキュービスムへの挑戦であったといえよう。
第三の時期
大正8年(1919)に,萬は病をえて湘南茅ヶ崎へ転居した。健康を害したこともあったが,土沢時代以来の彼の登攀は頂点に達し,限界を感じての不安と苦悩も深刻であったと思われる。
この大正8年は,病気療養中にもかかわらず,作品発表は多い。1月には,百貨店白木屋の展覧会に日本画を出品,同月,第1回日本創作版画協会展に木版画「坂」を出品した。版画について少し触れておきたい。
萬はフュウザン会時代から版画を試みていることは前に触れた。銅版画はその時期に多少手をそめただけに終わったが,木版画は復活し,生涯のあいだに20数点をつくっている。「坂」には同図の油彩画があり,ただ油彩の方には人物の姿はない。萬の木版画はその多くが油彩画と並行し,油彩画以上に直截な表現をみせている。
2月には太平洋面会の第16回展に「風景の印象」を含む風景画3点と「顔の研究」1点を出品した。顔の研究という題名は意表をついて面白いが,いったいどういう作品であったのか。石井柏亭(はくてい)の展覧会評によると,「其色が随分破壊的であるが一気呵成と云う風なもので,彼のピカソ一味のギューギューやって行く深酪(ママ)さはない。──「風景の印象」と云う一つは内臓模型のような感じのする処もある」(「中央美術」大正8年3月号)とあり,他誌に「唯,憾むらくは色彩の欠乏である」といった短評などから見て,まえに言及したように土沢時代の自画像シリーズではなかったかと思われる。「風景の印象」もさだかではないが,内臓模型のような作品といえば,現在の「丘のみち」などではなかったかと推察される。いずれも茅ヶ崎転地以前の作品である。
この年の秋には,二科会第6回展に「雪の景」「木の間から見下した町」「女の像」「庫」の4点を出品して二科会会友に推挙された。これらの作品もすべて大正8年以前の作とみられて間違いないであろうし,「女の像」を除いて風景画はすべて郷里の土沢に取材した作品であった。「女の像」は丸い椅子に腰をかけている「裸婦」と同図様で,キュービスム的な作品であった。「雪の景」は,大正4年の年紀のある「雪の景」と同じ場所の風景であるが多少視角が異なっている。石井鶴三は,「雪の景という絵の前に立った時,さっと涼しい風に会ったようでした。絵の具の香をはなれて直接人の魂にぶつかるような絵です」と評しているが,積雪におおわれた郷里土沢の風景である。郷里の風景といえば,「木の間から見下した町」はさまざまの意味深い作品である。これもまた郷里の丘の上から見下ろした風景であろうが,樹々の間からぽっかりと姿を見せている町並みの屋根,萬はこの風景に深い愛着をもっていたらしく,ほとんど同じ構図で,ただ形のうえでは細部に異同があるに過ぎない作品を少なくとも油彩画で3点描き残している。「木の間風景」,「木蔭の村」がそれである。「木蔭の村」は赤・緑・黄の明るくつよい色彩のフォーヴィスム的作品であり,「木の間風景」は熱帯の密林のような幻想的風景となっており,二科展出品作は灰褐色のモノクロームの色調のなかに樹々の形も溶解して,ただ屋根の稜線が顫えるような細い線で描かれている。小林徳三郎の言を借りれば,「描いてあるものも木なら木,家なら家の精霊のように見える」作品である。萬は一つの画因を明確なフォルムに凝縮せしめ,固有の原型に昇華させて自己の造型思考の進展にしたがって画面にそれを展開させている。
萬は再度上京するとき,郷里に対してひそかに訣別の情をいだいていたのではないかと私には思われるのである。彼の1年半の土沢滞在の間に,自分のなかに風景そのものをつくりあげてしまったのではなかろうか。それは郷里の自然風景と萬の内的風景とが一つとなって,いわば萬における原風景と呼んでも不思議ではない風景である。
これらの作品は茅ヶ崎に移ってから発表されたとはいえ,実際に制作されたのはそれ以前であり,同一構図が極端に対蹠的な色調や様式で同時期に制作されているあたりに萬の芸術的な苦悩の深刻さがうかがえる。療養の前後から萬は突破口を東洋美術の伝統のうちに求め,文人画(南画)へ接近している。南画について萬はつぎのように書いている。「自分が南画から消化し吸収すべき点があるとすれば,先づ第一に人間的なリズムと云う言葉によって代表せられる,プリンシプル,精神の世界を高調する思想及び人格拡充の主義,而して漢詩的構図は,新しき自分の詩によって置換えられても差支えないと思う。従来自分の進んで釆た洋画の傾向は絵画的諸条件の詩的構成である処から,南画のプリンシプルと一致すべき傾向にあるので,それを消化吸収する事によって一層の健全を来すべきを信じて喜んで居る」(「玉堂琴士の事及び余談」大正11年)。
萬がここでいう「リズム」は,別の個所で「筆のリズム,墨のリズム,無論それは人のリズム」というようなリズムである。それはわたくしに,土沢時代以後の萬の静物画の画面を想い起こさせる。碗や茶碗の縁がひずみ,壷や薬罐が何かの引力になびくように一様にひずんでいる画面である。いったいに萬の作品には,その初期から画面に設定されるシチュエーションがどこかコミックで,凄絶なカオス的様相,ペシミステックな雰囲気とは矛盾するようでありながらそれと一体となったオプティミズムが感じられるところがある。萬の静物画の画面において歪曲したフォルムのリズムがそれを生みだしており,それが萬の個性的な人間的な詩とつながっている。
萬は大正12年(1923)を中JL、として実際に多量の水墨画を描いているが,彼は東洋へ復帰することを避け,回顧の範囲で研究すべきだと主張しているように,文人画の精神と方法に鼓舞されはしてもそこに埋没しなかった点で,同時期の岸田劉生や小杉放庵,森田恒友らといささか異っている。
茅ヶ崎時代の萬の作品には,こうした南画に学んだものを自己の絵画的構成と詩にとりこみ,一見,円熟の画面をみせてくるが,それらのことを含めて主な作品のみに触れることにしたい。
裸婦像の系列としては,大正12年の「ねて居る人」,大正14年の「羅布かづく人」,大正15年「ほほ杖の人」,昭和2年「水着姿」があり,同種のものに大正14年「男」がある。これらのなかで裸体像は,怪奇・グロテスクと評されるほど肉体のもつ官能性はほとんど消去されている。肉体の各部分は単純化されているが,ぎりぎりのところで具象形態を保っている。こうした乾いた人体表現に対する悪評に対して萬は,「僕は生人から素描に素描を重ねて,科学的正確は構造した上,最後に或る飛躍法を採用してるのである。外見は実物に遠ざかってもたしかさは倍加して居る」と反論している。「水着姿」は,かつての「日傘の裸婦」の再生である。異なるところは光に換るに形態を解体しての面還元ではなく,装飾的な面による構成が意図されている点であろう。風景画では大正13年「夏の朝」のように南画の筆致を生かしてリズム感を画面にもたせたフォーヴィスム的な作品から「湘南風景」の重厚な画面へと移行している。
静物の系列では大正14年「枯れた花の静物」を除去することはできない。キュービスム的な表現を随所にもったこの作品は,萬の静物画の頂点をなしている。建築家滝沢真弓は,「如何なる激しい感情にも堪える様なあの力強い美しさは何という美しさであるか。あの香り高い黄ばんだ色の感触は日本の砂壁のもつ魅力である」とこの作品を評している。萬は砂壁を意識していたわけではなかったとしても,萬の芸術のもつ土着的性格を指摘しているところは卓見といわねばならない。萬の最晩年の生活は経済的な困却にさいなまれた。「校服のとみ子」に描かれている知的な愛嬢は病床にあったが,大正15年の暮れに死去した。萬もまた,その5か月あとに満41歳5か月の生涯を閉じた。
おわりに
萬とほとんど同世代である鍋井・飼Vは,「萬鉄五郎ほど,各派の同業者から敬愛の念をもって迎えられた画家は少ないだろう。その割合に,彼ほど鑑賞家から,名実共に好遇を受けていない画家もまた少ないであろう」と書いたことがある。萬が鑑賞者層に好通されていない状態は残念ながら現在までも続いているといえよう。鍋井によれば,萬は自分が思ったこと,考えたことをそのまま率直に表現しえたこと,外部の批評や作品の売れる売れないを度外視していたところが他の画家の誰もが羨ましがった所以だ,ということである。萬とて生活のために作品を売ろうと努力したことは,いくつかの彼の書簡から明らかであるが,そのために妥協はしなかった。しかし,萬の特異な孤立はそれだけではないようだ。
萬の画家としての出発は日本フォーヴィスムの先駆的な作品「裸体美人」,そして「日傘の裸婦」にはじまって,「羅布かづく人」,「ほほ杖の人」,「水着姿」に終った。これまで随所で指摘したように,これらの裸婦像は女体の優美さや官能的な美しさとはまったく無縁な裸婦である。といって生(なま)々しい醜悪さや不吉な翳(かげ)りが萬の裸婦をつつんでいるわけではない。要するにエロティスムにつながる要素は皆無といってよいであろう。いったいエロティスムの漂いのない裸婦像は裸婦像なのだろうか。萬はどのように考えてこれらの裸婦を描いたのであろうか。
萬自身の答えを聞こう。彼は,「ねて居る人」について次のように書いている。
──質問が起りそうな絵をかく事はよい事かどうか問題とすべきかも知れませんが,僕はどう見られるかと言う第二義的な考えを考えずに,直に自発的なもの丈けを絵に作って居る人間です。──僕だって決してあんな色に人間が見えるわけでもありません。しかしあんな色にしないとどうしても自分の本調子が出て来ないから仕方がないのです。即ち自分の内部生活に始終ひそんで居る色です。ですからこの機縁によって僕の人間を自分で検証することの出来る唯一手段であると考えます。形にしても同じことです。──モデルはモデルで僕の絵ではないのです。自分の内部的にある科学によって解決したところの形態なのです。──
自己の内部生活にひそんでいる色彩,内部にある科学,それがモデル,描く対象を媒介として表現されたのが自分の絵画である,というのであろう。言ってしまえばさして珍しい理屈ではないが,こうした自己を主体的に強固に維持し,絶えず検証することは容易なことではないに違いない。しかも強固とはいってもかたくなにではなく,自由に自己解放しながらである。
萬の論理は矛盾を内蔵しながらも内発的であるがゆえに強靭であり,主体の論理が,時代の,状況の論理,換言すれば近代造型の論理によって補完された姿が萬の作品であったと言えよう。理屈はさておいて萬の作品を眼前にしてみよう。「ほほ杖の人」の前で,鍋井は「笑いが出かかって,何か厳粛な気持にそれが抑えられてしまうような感銘を受ける」と書いた。真実とは,そうしたものかもしれない。
なお,萬は記している。
人間が美を作る考えで出発するなら,つまりそれはセンチメンタルな遊戯だ。
萬にとっては,絵画は生きることそのものだったのであろう。
(三重県立美術館館長)