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美術館 > 刊行物 > 展覧会図録 > 1994 > 高橋由一の静物画について 田中善明 高橋由一展図録

高橋由一の静物画について

田中善明

 高橋由一の画業は静物画においてもっともその本領が発揮されているとよくいわれる。そして、由一作品の魅力について語るとき、必ずといっていいほど静物画が引合いにだされる。その理由は、「もの」を目前に据えて描く静物画において由一の熱意を端的に説明できるからであろう。


 ここでは、由一の静物画の特色、そして重要文化財《鮭》(Cat.No.18)がなぜ由一の代表作になりえるのか、即物的に考察してみたい。

1.静物画を描いた目的

 由一は同時代を生きた洋画家とくらべてみても飛び抜けて静物両を数多く描いている。しかしながら、その制作された時期は驚くほど短い。初期に位置するのは《植物図譜稿》と《魚譜》だが、これらは開成所画学局時代に川上冬崖や若林鐘五郎らの局員も描いた、いわば共同制作で、蕃書調所の便箋に淡彩で描かれた。それから少し期間をおいて1873(明治6)年の年末、《海魚図》を宮内省に献上したという記録がある。ちょうど日本橋浜町に画学場天絵楼を創設した年にあたる。静物画を数多く描いたのは1877(明治10)年から1880(明治13)年の間で、天絵社月例油絵展を開いた時期とほぼ重なる。そして1881(明治14)年2月の天絵学舎(1879年に東京府の私学の認可を受け、天絵社から天絵学舎となる)月例展で出品した《花弁》を最後に静物画の記録はない。以後静物画が描かれた可能性もあるが、画学局時代の図譜が油絵でないことを考えると、描く対象として静物画が選択されたのは、ほんの僅かな期間でしかなかったことがわかる。


 もし、由一がこの静物画というジャンルに自らの適性を見いだしたのであれば、少なくとも余生の十数年の間でも風景画や肖像画と同じ数量は描いていてもおかしくはない。実際はそうではないから、つまるところ、静物画を描くことに別の目的があったのだろう。


「高橋先生はこうした卑近な事物、つまり誰にでも、よくわかりよいものを写実的に描かれることを得意とされましたが、それは油絵を一般に広く理解普及せしめるお考えから、こうした写生ものを選ばれたことと考えます。」(註1)


 よく引用される月例展の回顧談であるが、この文章のなかに月例展において静物画を描いたひとつの理由が見いだされる。月例展は毎月第1日曜日に教員・塾生の作品を一般に公開し、成果を発表する場であると同時に一般に油絵を普及させる目的があった。油絵自体珍しかった当時において一般に理解普及させるためには「先づ人心を感動興起せしめずんばあるべからず。」(註2)であって、そのためにはだれもが理解できる身近な題材として、静物画は風景画や人物画と同様、またはそれ以上にふさわしいものであった。


 由一が描いた静物画の個々のモチーフ、たとえば《巻布》(Cat.No.13)や《鯛(海魚図)》(Cat.No.51)などは魚屋北渓や歌川広重、葛飾北斎の本版画などですでにみられる従来の題材で、鯛に三つ葉やすだちの野菜を組み合わせるといった、とりあわせの妙も、江戸時代に好んでとりあげられている。また、月例展で発表した作品はその季節にふさわしい題材が選ばれていることもわかっており(註3)、これらのことは由一が江戸時代の粋な感覚を持ち合わせた明治時代の人間であることを物語っている。それと同時に、油絵自体が西洋化の象徴であったにもかかわらず、月例展を見に来る人たちもまた、江戸から生きてきた人であることを考えると、由一は彼らとの共通項を親しみある画題の選択によってつくりだそうとしていたことも容易に想像できる。


註1)平木政次 『明治初期洋画壇回顧』


註2)柳源吉編 『高橋由一履歴』


註3)榊田絵美子 「高橋由一についての二、三の問題」


 月例展がおこなわれた短い期間だけに由一の静物画が集中している理由は、彼がどのような作品を描くにしろ、そこに目的や意味が見いだせなければ描かないという一貫した姿勢をもっていたからだろう。江戸城や花魁、甲冑などを描いたのは記録にとどめる目的が、《鑿道八景》(Cat.No.70)は維新政府の事業を掲揚する目的が、また、松島などの名所絵にしても名所自体に意味があるから描いたとしか考えられない。由一にとって静物画が教育・普及の目的以外の何物でもなかったのだとすると、月例展とともに姿を消していったのは当然のことであったのかもしれない。


2.由一静物画の特色

 概して、実在する形象を描こうとして、その描かれる対象が目前になくても描かなければならない場合、その作品は作家がそれまで蓄積してきた資料や描画経験だけを頼りに描かれるので、余程の独創性がない限り出来上がった作品はわれわれを感動させることはない。つまり、画家がリアルタイムで題材を写し取るその過程で作家自身にも題材に対する発見の連続があり、その新鮮な発見がわれわれを感動させるのである。題材との直接的なやりとりのあった静物画に由一の迫真性を見いだせるのはそのためである。


 肖像画、例えば由一後期の作品《司馬江漢像》(Cat.No.74)は当然本人を目の前にして描かれたものではない。明るい部分である江漢の正面部と接する背景は暗く、背後の陰部分と接する背景は明るくして人物との対比をはかり、その前後の関係で立体感をだそうとする苦心の跡がみられるが、額の皺をはじめ説明的な描写が多く、平板な描写におわっている。本人を前にしていないといえば、《初代玄々堂像》(Cat.No.10)も描かれたとき本人は他界していたわけだから、《司馬江漢像》と同じ状況にあった。この作品では人物の内面描写に長けてるが、それよりも、かえって緻密に描写された組み紐に目が奪われる。けっして静物画においてもそれぞれの位置関係、立体感を描き出すまでに至ってはいないが、特に肖像画の場合、祖父を描いた《高橋源五郎像》や子供《高橋鉚幼像》で、ある程度立体の組立ができることを証明しているのに、本人を前にして描かずに写真などをもとにした多くの作品は最初期の《丁髷姿の自画像》をも技術的に超えていない。


 風景画については、静物画ではわかりにくい新鮮な発見をわれわれに与える。いい換えれば風景画の中で特にわれわれは由一の魅力のひとつを発見することになる。それは《江の島図》(Cat.No.16)や《山形市街図》(Cat.No.63)のなかの点景人物であったり、《墨堤桜花》(Cat.No.25)の舞落ちる桜の花びらや田圃の上空を飛ぶ鳶であったり、そのいずれもが何気なく描かれているため、近づいてよく観察してみてはじめて発見できるものである。点在する人物や花びらは、説明的な描写であるが、これらがまさに由一の演出であり、視線の動きでもある。


 由一の描いた静物は《読本と草紙》(Cat.No.9)、《鱈梅花》(Cat.No.20)、《なまり》(Cat.No.21)、《燧具》(Cat.No.41)、《鯛(海魚図)》など、設置場所がどうやら共通している。《豆腐》(Cat.No.19)や《百万塔と鎧袖図》(Cat.No.23)にしてもまな板や台のうえに置かれている以外は同じ場所のようにみえる。平木政次の回顧文によると、「先生(由一)の画室は南向きの二階座敷でここには先生だけの作品が陳列してありました。」(註4)とある。はたしてこの場所で描かれたのかどうかはわからないが、もしそうだとすると、南向きで日当たりが好さそうであるのに、作品を眺めてみると、どうも薄暗い部屋を想像してしまう。それぞれの作品の陰影部分を追っていくと、画面向かって右か手前に窓があるようにも思えるが判然としない。《鱈梅花》を例外として上記の作品はすべて明暗がはっきりしないのである。もちろん、由一は対象の明暗を強くつけることで立体感がより出ることを知っていた。それなのに、明暗を生かせる位置には対象物を置かなかった。《鱈梅花》にみられる鱈やすり鉢の明暗は強いコントラストを呈しているが、他の作品はむしろ陰影を極力抑えていたり、ぞんざいに扱っている。窓のそばにモチーフを設定すると、腐りやすくなるのでこういった日影のような暗い場所を選んだとも考えられるが、少なくとも光の影響をあまり受けないところで描くことは質感表現の巧みな由一にとって好都合であったように思われる。


 静物画の特色としてもうひとつ挙げなければならないのは、ほとんどの題材が原寸大に描かれていることである。このことは実物があたかもそこにあるかのような「迫真性」を生み出すためにはどうしても必要なことであったのだろう。そして、鴨や鯛から日用品の燧具や厨房具、記録としての甲冑に至るまで原寸大で描こうとするそういった作画方法は、題材の大きさに合わせてキャンバスの大きさをも決めていた。風景画や肖像画を原寸大で写し取ることはほとんど不可能であるが、静物画ではそれが可能である。画材の調達に不自由であった反面、キャンバスの寸法規格から自由であった当時の状況も相俟って、由一の静物画の迫真性は生み出された。


 坂本一道氏は論文のなかで色彩画家としての高橋由一をとらえる。《鮭》(Cat.No.18)の切り身部分の描き方は明度を意識する以上に色彩の美しさとしてとらえていること、また《鯛(海魚図)》や《鱈梅花》では、青や緑の原色が他の色と混ざることなしに魚の目の部分などに使用されていることについて、それはまるで「色彩豊かな抽象画をみているような新しさ」であると述べる(註5)


 たしかに、赤色系絵具が混ざることなく梅の萼部に使用されたり、《桜花図》(Cat.No.46)の花びらの陰には青色系の絵具が採用され、その意外な明るさには驚かされる。上記坂本氏の論考はわれわれがおぼろげに抱いていた、脂派と称される明治初期の洋画がくすんだ色であるという幻想を払拭し、高橋由一の鮮やかな像を浮かび上がらせた。


註4)平木、前掲書


註5)坂本一道「高橋由一の革新」(『重要文化財 鮭』展図録)


註6)佐藤一郎「『鮭』の絵画技術と『彩色画訣』」(『重要文化財 鮭』展図録)

3.《鮭》の位置

 由一の静物画は1877(明治10)年頃に多く描かれている。1876(明治9)年フォンタネージが工部美術学校お雇い教師としてイタリアから来日し、彼との親交もあって油画技法をようやく自分のものとした時期でもある。この頃は洋画界も由一自身も充実した時期であった。そして、この時期に明暗・立体感・材質表現が見事に噛み合った《鮭》が制作された。


 佐藤一郎氏は《鮭》が由一の作品であることに疑問を持たれる。その理由として、油画技術や西洋の物の見方を身体的に受けとめることができるのは10代20代のときの修練があってはじめて表現できるものであること(由一がワーグマンを訪ねたとき、すでに38歳であったし、フォンタネージが来日したときは、すでに50歳に近かった〉、他の作品と比べてみても《鮭》だけが技術的にも飛び抜けて上手であることを述べている(註6)。もし、由一をしてこの技術的な飛躍を《鮭》でなし得たとするならば、それはまさしく「奇跡」としか言いようのない偉業であったことを佐藤氏の論は逆に示してくれる。


 由一の魅力は明治の初期に和と洋の融合を早々となし得たところにある。和と洋の融合(折衷ではない)、由一が狩野派・北画の運筆法を学び、西洋的な写実画法を吸収し、そのどちらの技術もが由一のなかで平均、拮抗しあっていたところに《鮭》の奇跡が生まれたのであって、由一以降の作家が油絵を日本の風土に融和させようとして挫折してしまったのは、その技術的バランスをつくり得なかったからかもしれない。この点では由一の作品を見渡してみても、《鮭》より前に描かれた作品では、まだ油絵の技術が未熟であったことはたしかである。そして、明治10年前後、月例展へ出品するために自らも集中して勉励したこの時期でなかったら、《鮭》にみられる「融合」の奇跡は起こり得なかったのである。

 
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